Tags: 呉

  • 陸抗の本拠地、楽郷について
  • 楽郷の位置陸抗は晩年、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の各軍を統括し、その本拠地を楽郷に置いた。楽郷城は南郡松滋県、現代の湖北省荊州区松滋市付近にあった。楽郷城について胡三省曰:「樂鄉城在松滋縣東。樂郷城北江中有沙磧,對岸踏淺可渡,江津要害之地也。方輿紀要:「樂鄉城今松滋縣東七十里,三國吴所築朱然嘗鎮此…
  • 2017.08.29 三国演義人物トランプ・呉バージョン
  • 昨年、長田の三国志グッズのお店「英傑群像」で購入した「三國演義人物撲克」。開封してみたら、なぜか呉の人物ばかりで、え!? と思って調べたところ、どうやら店頭には一種しかなかったものの、魏・呉・蜀それぞれ別にある濃い三国志トランプだったようです。他もほしい。※大きめの画像はこちら。 (リンク先Goog…
  • 呉最後の皇帝は「孫晧」なのか「孫皓」なのか
  • 呉のラストエンペラー・孫晧(そんこう)の名は、出典によって「孫晧」と「孫皓」の表記が存在する。私は「孫晧」と書いていたが、ネット上ではむしろ「孫皓」表記が主流らしい。2015年7月現在、Google検索で "孫晧" は約8,990件だが、 "孫皓" は約83,300件もヒットする。【晧】①日の出のさ…
  • 将に五厄あり - 諸葛誕の乱の勝敗
  • 『孫子』九変篇の最後にこんな言葉がある。故に将に五厄あり。必死は殺され、必生は虜(とりこ)にされ、忿速(ふんそく)は侮(あなど)られ、廉潔(れんけつ)は辱(はずか)しめられ、愛民は煩(わずらわ)さる。凡そ此の五つの者は将の過(あやま)ちなり、用兵の災(わざわい)なり。軍を覆(くつがえ)し将を殺すは、…
  • 歩闡の乱(西陵の戦い) 1 - 概要
  • 総司令官兵力結果呉軍陸抗3万以上勝利晋軍歩闡/羊祜不明/8万余敗北歩闡(ほせん)率いる西陵城の反乱軍、それを救援に来た羊祜(ようこ)率いる晋軍と、反乱の鎮圧にあたった陸抗(りくこう)率いる呉軍との一連の戦いは、判明している陸抗の記録において唯一の、しかし非常に華々しい戦勝であり、その記述は『三国志』…
  • 諸葛靚の兄弟姉妹
  • 諸葛靚の兄諸葛誕(しょかつたん)の乱の際の記述等によれば、諸葛靚(しょかつせい)は諸葛誕の末子である。遣長史吳綱將小子靚至吳請救。長史の呉綱に末子の諸葛靚をつれて呉に行き、救援を要請するよう命じた。晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空誕少子也。雅正有才望。誕以壽陽叛、遣靚入質於吳、以靚爲右將軍、大司馬…
  • 陸抗と羊祜 - 「羊陸の交わり」の真実
  • 羊陸の交わり西晋の羊祜(ようこ)と呉の陸抗(りくこう)とは、敵ながらも互いに信義を持って相対した。歩闡(ほせん)の乱(西陵の戦い)を巡っては晋呉両軍の総司令官として戦った一方で、酒や薬を贈りあっては、毒かと疑うこともなくこれを飲んだ。彼らの結んだ信義は「羊陸之交(羊陸の交わり)」という故事成語にもな…
  • 淩統の没年齢について
  • 淩統(りょうとう)(189年〜237年?)の没年齢「49歳」というのは「29歳」の誤りだ、という話が随所でみられる。これは大変。29で没してしまっては夷陵の戦いに参加できない。父親の淩操が黄祖討伐戦で死んだとき(建安8年、203年)には15歳であったということから、淩統の生年は189年と思われる。〔…
  • 吾彦の転勤マップ
  • 呉に生まれ敦煌からベトナムまで、吾士則くん驚きの転勤人生昇進するたびに、嫌がらせかと思うほど辺境の地に飛ばされる吾彦(ごげん)。しかしそんな環境にもめげず、行く先々で反乱を鎮圧しては善政を敷いていくのでした。最後は官職が「大長秋」になったとあるため西晋の都である洛陽にしてみたが、定かではない。時期は…
  • 永安の戦い 2 - 敗戦はやはり陸抗のせいかもしれない
  • 蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)で陸抗が羅憲に敗北したと言われていることについて、個人的には、敗戦は総司令官がむやみと援軍を送ったせいで、そして総司令官は少なくとも陸抗ではない、という結論に一度は達してみた。が。蜀漢滅亡の報と『建康実録』による微妙な異説蜀が滅亡したという報せを呉の都にもたらし…
  • 永安の戦い 3 - 永安侵略の理由:呉軍は火事場泥棒ではない
  • この蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)について、三国志ファンの間では呉を蜀の滅亡に乗じた火事場泥棒かのように評する風潮があり、「だから呉が嫌いだ」という主張を少なからず見かける。その最大の原因は、おそらく羅憲の発言によるイメージだろう。「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら…
  • 歩闡の乱 3 - 西陵の戦いと二重封鎖陣地
  • 歩闡の乱における西陵の攻城戦では、陸抗は配下の将軍らの反対を押し切って、「陣地を赤谿から故市まで続げて、内側では歩闡を封じこめ、外に対しては敵の来襲を防ぎ止めようとした。」という。シミュレーションゲーム「三國志」の武将プロフィールにも、「魏軍と反乱軍に挟撃されながらも、二重の城壁を築き勝利した」など…
  • 諸葛誕の乱
  • 総司令官兵力結果魏軍司馬昭26万以上勝利呉軍諸葛誕・孫綝22〜23万以上敗北諸葛誕の乱(呉軍:諸葛誕率いる反乱軍&孫綝率いる救援軍 vs 魏軍:司馬昭率いる討伐軍の戦い)の時系列と位置関係のまとめ。『三国志』と『晋書』では日付の不一致があります。小文字部分は推測や感想含む。登場人物呉軍(寿春城)諸葛…
  • 建平太守・吾彦の駐屯地の謎
  • 吾彦(ごげん)は呉の最末期、西の国境である建平郡の太守となった。このころ、晋の王濬(おうしゅん)は、やがて晋が天下統一を果たすことになる伐呉の役(279〜280年)に備え、蜀の地で船の建造にあたっていた。その木屑が、長江の流れに乗って呉の方まで辿り着いた。このため吾彦は晋がいよいよ水軍で攻めてこよう…
  • 陸抗の諡は「武侯」
  • 陸抗の諡(おくりな)は『三国志』には載っていないが、陸雲(陸抗の子、西晋の文人として知られる)の「祖考頌」という作品で判明するらしい、と聞いて調べてみた。祖考頌(有序)雲之世族,承黃虞之苗緒,裔靈根之遺芳。用能枝播千條,穎振萬葉。繁衍固於三代,饗祀存乎百世。豈非皇慶之積祐,神明之殷祥者哉! 在周之衰…
  • 呉の大司馬の権力
  • 陸抗や諸葛靚の最終官職である、呉の「大司馬」。軍事の最高位というくらいだから、さぞ絶大な軍事権限を持っているのだろう! と勝手に思い込んでいた。が、調べてみるとどうも、官位と実際の指揮権は別のようである。少なくとも武官として実働している大司馬のほとんどが、下記のようになんらかの総指揮権らしき役職を別…
  • 孫晧時代のキャリアの疑惑
  • 孫晧は陸抗を昇進させたくなかった?陸抗は264年、おそらく孫晧の即位に伴う人事異動の際に、益州牧に任命されている。しかし益州とは旧蜀漢の方面であり、この年には既に魏領。実際の領土があるわけではなく、いかにも、肩書きはあげるが実権はあげないよ! って感じの任命。軍事面では270年に、都督信陵・西陵・夷…
  • 永安の戦い 1 - 永安の敗戦は陸抗のせいではない
  • 陸抗の敗戦経歴として知られる、対羅憲の攻城戦、永安の戦い(264年2〜7月)について。なお「永安の戦い」という名前はここでの仮称。陸抗伝には、この戦に関する記述は皆無である。結果として敗戦であろうとも、何らか部分的な活躍があれば記されることもある中(陸抗の例でいえば諸葛誕の乱の際の活躍)、完全スルー…
  • 歩闡の乱 2 - 兵力と羊祜の作戦
  • 西陵の戦いの兵力歩闡の乱における西陵の戦いにて、陸抗は晋軍に挟撃されながらも寡兵で打ち負かしたというイメージがあるが、具体的には何人対何人だったのか。敗戦後の晋で羊祜が訴えられた上奏によって、この戦いにおける兵力を知ることができる。それによれば、晋救援軍は全体で八万、陸抗の軍は三万弱。及還鎭,吳西陵…
  • 諸葛靚と父と司馬炎 - 友情と孝道の狭間で
  • 諸葛靚と父・諸葛誕諸葛靚(しょかつせい)は、諸葛誕(しょかつたん)の末子である。諸葛誕は、呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮らと同じ琅邪の諸葛氏の一族で、魏に仕えていた。だが魏王朝の末期、司馬氏の専横に対して反旗を翻すことになる。諸葛誕は呉に帰順して救援を要請するべく、子の諸葛靚を人質として呉に送った。だが、一…
  • 朱異 - 不器用な俺様
  • 朱桓の息子、朱異は呉の後期に武将として活躍するが、父親譲りの激しい気性と高いプライドを持っていた。朱異伝の注に引く『呉書』によれば、合肥新城での戦の折、諸葛恪に献策を却下された朱異は、諸葛恪は手紙を送ってその作戦が不可である理由を説明したが、朱異はその手紙を床にたたきつけていった、「おれの建策を用い…
  • 万彧と孫晧 - 万彧は果たして佞臣だったのか?
  • 『三国志』での万彧呉最後の皇帝孫晧(そんこう)の治世、左丞相の陸凱(りくがい)と同時に右丞相となった万彧(ばんいく)。丞相でありながら伝もなく、詳しい出自は不明だが、暴君として後世に知られることになる孫晧と親交があり、彼を最初に擁立した人物である。その人格については「俗物で自分の権勢をたのんで他人を…
  • 張悌 - 忠義のセンチメンタリスト
  • 三国志最後の戦いである、西暦280年の晋による伐呉の役で奮戦したとされる、孫呉最後の丞相、張悌(ちょうてい)。「今日は私が死ぬべき日なのだ」晋軍は、各方面から押し寄せて着々と要所を陥落させ、ついに呉の都近くまで迫り来つつあった。軍師(現代でいう参謀の意味ではなく、軍の総帥)であり、丞相に就任したばか…
  • 病弱疑惑を考える
  • 多くの三国志解説本の類で、陸抗(りくこう)は病弱であったとされる。しかし、具体的な出典があるわけではない。その根拠は何なのか。羊祜の薬おそらく、羊祜(ようこ)との有名なエピソードによるイメージが最も大きい。陸抗が病気になったとき、敵である羊祜が薬を作って送ってきたが、陸抗は疑うことなくそれを飲んだ、…
  • 徐紹 - 司馬昭に仕えた呉の将軍
  • 小説「ある参軍の告白」の語り手にした徐紹(じょしょう)について。徐紹という人物は、『三国志』『晋書』を通しても、諸葛誕の乱の際に魏に降った呉の人物の一人に名がある(晋書文帝紀)魏から呉へ送られた降伏勧告の使者の一人に名がある(魏書陳留王紀、晋書文帝紀、孫楚伝)魏からの使者として呉にやってきたが、呉か…
  • 陸抗年表
  • 出典を表示しない西暦年月官職齢出来事出典帝226黄武5-1陸遜と孫氏(名は不明。孫策の娘)の間に、次男として陸抗が生まれる。“抗字幼節,孫策外孫也。遜卒時,年二十,……” “長子延早夭,次子抗襲爵。(陸遜傳)”-229黄龍14月-4孫権が帝位に即き、呉王朝が成立する。!黄武元年(魏の黄初三年、西暦2…
  • 会稽のニワトリ
  • 『世説新語』政事篇にこんな逸話がある。賀太傅作吳郡、初不出門。吳中諸强族輕之、乃題府門云、會稽雞、不能啼。賀聞、故出行、至門反顧、索筆足之曰、不可啼、殺吳兒。於是至諸屯邸、檢校諸顧・陸役使官兵、及藏逋亡、悉以事言上。罪者甚衆。陸抗…
  • 陸抗の評価
  • 陳寿による評価抗貞亮籌幹,咸有父風,奕世載美,具體而微,可謂克構者哉!陸抗は、身を正しく持しつつ将来への見通しを持って行動を取り、父親の遺風をよく受け継いだ。父祖以来の立派な家風を守り、実際の行動ではいささか先人に劣る点があったとはいえ、先人以来の基礎の上にみごとに仕事を完成させることができた者だと…
  • 陸抗の妻と子女
  • 陸氏系図陸抗の妻・張氏陸抗の妻の張氏は、張承(張昭の息子)と諸葛氏(諸葛瑾の娘)の間の子。陸抗の次男の陸景は、この張氏の子である。しかしこの張氏は諸葛恪が誅殺された際に(姪にあたるため)離縁されてしまった。この時代、離婚も再婚も意外に多く、不祥事を起こしたり誅殺された者の娘が離縁されることはよくある…
  • 陸抗の人柄
  • 几帳面な完璧主義者陸抗(りくこう)が若いころ、諸葛恪(しょかつかく)と入れ替わりに柴桑に駐屯することになった。元の任地を去るにあたって陸抗は、城壁や建物を補修し、まるで新しく完成したかのようなきれいな状態にしておいた。一方、諸葛恪が明け渡した柴桑の城はというと、壊れたところも多いままであった。さすが…
  • 陸抗の容姿
  • 陸抗の容姿については、特に記載がない。そこで親戚から推測してみる。父・陸遜三国時代、容姿の良し悪しはかなり人物評価を左右する。陸遜ほどの重要人物なら、容姿が良ければ記述されていそうだ。が、敢えて何も書かれていないということは……。父には美形遺伝子はあまり望めない予感が。なお『三国志演義(三国演義)』…
  • 孫権 - 苦悩の三代目
  • 呉の初代皇帝・孫権。三国志の英雄としては、魏の曹操や蜀の劉備と並ぶ立場ながら、孫堅・孫策ときて三代目イメージの強い孫権には、愉快なエピソードが多い。若かりし頃、呂範に金をせびってみたり。酒宴で周泰を脱がせたり。壁の穴から呂蒙をこっそり見舞ったり。張昭と喧嘩した揚げ句、放火しようとしたり。ときどき酒宴…
  • 丁固(丁密)の経歴
  • 孫呉末期の重臣、丁固(ていこ)(丁密)について。若い頃に父が死去したため、母親と二人暮らしだったが、闞沢や虞翻に評価され、孫晧の時代には司徒の位に上る。陸凱と同い年。子の丁彌や孫の丁潭(ていたん)は、晋に仕えた。丁潭は『晋書』に伝がある。元の名は丁密といった。しかし滕密の名を避けて、丁固と改名(滕密…
  • 呉の歴代丞相
  • 丞相の移り変わりをみると、呉という国が破綻していく過程が見えて興味深い。顧雍、陸遜、歩騭までは、納得の人選のように思える。しかし孫権の晩年空位となり、死後は孫峻・孫綝コンビによる乗っ取りで最悪の状況に。その後は濮陽興、万彧など帝の権利争いに纏わるコネっぽい人事が続き、陸凱は国の内部からの崩壊を食い止…
  • 陸抗関連マップ
  • 巫(ふ)当初の建平(けんへい)郡の郡都。 蜀漢との国境。 蜀漢滅亡後、魏に攻略される。秭帰(しき)巫が魏領になって後は、 建平郡の郡都?永安(えいあん)巴東攻略のため出陣した歩協らの援軍として赴き、羅憲軍に敗北。江陵(こうりょう)264?〜270年?駐屯。 江陵都督だったことも?楽郷(らくきょう)2…
  • 呉最後の大司馬・副軍師
  • 諸葛靚と晋と呉諸葛靚(しょかつせい)の生没年は不明だが、晋の武帝司馬炎(しばえん)の幼なじみというところから、彼と同年代と推測される。仮に同い年とした場合、諸葛誕(しょかつたん)の乱が起きたころには二十二歳。当時の初出仕の目安は二十歳くらいだが、特に魏時代の官名の記述はないことから、諸葛靚は魏では官…
  • 陸抗の名前 - 節を抗ぐ
  • 姓は陸、名は抗、字(あざな)は幼節。彼の名前の意味について。抗(一)アげる〔アぐ〕。高くあげる (二)アタる。はりあう。てむかう。はむかう。抗争「抵─」 (三)フセぐ。→防。こばむ (四)高い (五)おさめる。しまう① あ-げる(あぐ)。上にあげる。持ち上げる。 ② あらが-う(あらがふ)。さからう…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と張悌
  • 三国志最後の決戦といえる、晋による伐呉の役に際し、ときの呉の大司馬・副軍師であった諸葛靚(しょかつせい)は、丞相・軍師であった張悌(ちょうてい)の指揮下で出陣するが、結果、呉軍は大敗した。(詳細は「張悌 - 忠義のセンチメンタリスト」参照)孫晧(そんこう)伝の注に引く習鑿歯(しゅうさくし)『襄陽記』…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と司馬伷
  • 呉の滅亡に際して、帝・孫晧(そんこう)を直接降伏させることになった人物は、司馬懿の息子である琅邪王の司馬伷(しばちゅう)だったが、この司馬伷は、諸葛靚(しょかつせい)の姉の夫でもあった。平吳之役,率衆數萬出涂中,孫晧奉箋送璽綬,詣伷請降。詔曰:「琅邪王伷督率所統,連據涂中,使賊不得相救。又使琅邪相劉…
  • 諸葛靚の字
  • 諸葛靚(しょかつせい)の字(あざな)は「仲思」という。「仲」が付くことからして、彼は諸葛誕(しょかつたん)の次男なのだろう。諸葛靚の字に関しては、『世説新語』言語篇にこんな逸話がある。諸葛靚在吳、於朝堂大會。孫皓問、卿字仲思、爲何所思。對曰、在家思孝、事君思忠、朋友思信。如斯而已。通釈…
  • 諸葛靚と孫晧
  • 暴君として知られる呉末の帝・孫晧(そんこう)は、後年、臣下が権力を持って反乱を起こすことを相当に怖れていたようである。実際に多くの臣下が晋に逃亡し、歩闡(ほせん)のように、代々の有力な臣下さえ反旗を翻しはじめた。陸氏一族では陸凱が丞相として内政面で、陸抗が国境において軍事的に権力を持っていたが、彼ら…
  • 呉の歴代大司馬
  • 大司馬は軍事の最高役職。書かれていないだけで、他にもいる可能性大。それにしても皆して在任期間が短い。若造が任命されることはまずないので、在任のまま死去する人が多いせいだとしても、一ヶ月未満〜最長で七年弱である。滕胤に至っては、陰謀に利用されただけという感じ。呂範(りょはん)(?-228)在 228-…
  • 孫晧 - 無垢なる暴君
  • 『三国志』きっての暴君として知られる、呉の最後の帝・孫晧(そんこう)(*注1)は、初代皇帝・孫権の孫にあたる。後世に残された暴虐の逸話には、亡国の君主ゆえの誇張もありそうだが、事実無根というわけでもないだろう。だがこの孫晧、「無垢な病んだ暴君」という奇妙な印象を受ける人物でもある。孫晧が、根本的に無…
  • 妖怪を煮て食べた陸敬叔
  • 干宝(かんぽう)の志怪小説『捜神記(そうじんき)』に以下のような話がある。呉の先主の時、陸敬叔は建安の大守と爲る。人をして大樟樹を伐ら使む。數斧ならざるに、忽ち血の出づる有り。樹は斷たれ、物の人面 狗身なる有りて、樹中從り出づ。敬叔曰く「此れ彭侯と名づく」と。乃ち烹て之を食へば、其の味 狗の如し。『…
  • 孫休の息子たちの珍名
  • 呉の三代目皇帝・孫休は学者肌の人物だったが、当時の一般的な名や字(あざな)の付け方に疑問を抱いていた。避けにくい文字(*注)を名に用いたり、また不遜にも行いの伴わない立派な文字を使ったり、さらにそうした文字を組み合わせて二文字のあざなを付けたりしている。こうした名付けは礼の定めに反するのではないか。…
  • 2014.07.01 李勖の冤罪
  • ※特に実りのない自分用メモ。孫晧の時代、建衡元年(269)から二年(270)にかけて、呉は交阯を晋から奪還するべく侵攻。前年にも試みたが失敗したため、軍を増強し、計画を練り直したものか。それはともかく、この際に李勖は監軍として荊州から攻め込もうとしたが難航し、案内にあたった馮斐という将を斬り、撤退し…
  • 2014.03.08 (正)羊陸之交 (誤)陸羊之交、という話
  • 羊祜と陸抗の故事からできた「羊陸之交」という成語があるらしい。というのは、陸抗に興味を持ってから少し経った2007年頃に、中国語圏のサイトなどで知ったことだった。(例:教育部重編國語辭典修訂本 > 羊陸之交)『三国志』『晋書』他には「羊陸之交」という表現はないが、特に具体的な出典・用例を確認し…
  • 2011.08.11 「封禅国山碑」に記されている人々
  • 天璽元年(276)ごろ呉の丞相は□沇(姓が不明)で、その出典は「封禅国山碑」ということを最近知った。(参考:文字拓本 魏晋 呉禪國山碑 ※DjVuという形式の画像なので、対応する閲覧環境が必要だが、文字データも見られる。)見てもまったくわからないが、文字データに頼ると、他に人名らしきところは「丞相沇…
  • 2011.07.13 施但事件と丁固と諸葛靚メモ
  • 孫晧が武昌に遷都した間に、施但が起こした反乱事件(266年10月)と関係者について調べ中。武昌に遷都後、元の都の建業は丁固と諸葛靚が護っていた。そこに施但が孫晧の弟・孫謙を勝手に帝として擁立してやってきた。帝からとして詔の使者を送ってきたが、「諸葛靚はその場で使者を斬った」、そしてアッサリ丁固&諸葛…
  • 2007.09.13 諸葛靚の年齢がわからない
  • 某サイトさんで諸葛恢の生年から諸葛靚の年齢にふれられていたのに影響され、早速真似して調べてみる。『晋書』穆帝紀によると「永和元年(中略)五月戊寅,大雩。尚書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。」とある。永和元年とは西暦345年で、当サイトの年齢比較ツールで想定していた範囲を超えている!(※急遽延長しま…
  • 2007.04.29 諸葛靚
  • 諸葛靚は、父の決意に共感し、ともに目的を果たそうと能動的に呉に降った! というキャラにもできそうな気もする。が、私の彼の第一印象は、確かに父に共感し多大な影響を受けてはいるものの、どちらかというとなりゆきに翻弄され、気が付いたら呉の将軍位を与えられていた……という人だった。その印象を拡張した創作設定…
  • 陸遜の命日(呉・赤烏8年2月4日)
  • 『三国志』呉書に、陸遜は「(赤烏)八年春二月」に死去したとあるが、陸雲作の「呉故丞相陸公誄」によれば、これは「赤烏八年二月乙卯」のことである。兩千年中西曆轉換で変換すると、赤烏8年2月4日、西暦では245年3月19日にあたる。惟赤烏八年二月,粵乙卯,吳故使持節、郢州牧、左都護、丞相、江陵郡侯陸公薨。…
  • 施績(朱績)の経歴
  • 施績(朱績)、字(あざな)は公緒。孫権から孫晧に至るまで歴代の帝に仕え、最後は左大司馬の位に上った。父は呉の重鎮で同じく左大司馬の朱然。  ※『三国志』の本伝(父の伝に付属)では「朱績」。呉後期には父の本姓施姓に戻っていることと、本人も施姓を希望していたことから、当サイトでは「施績」表記をメインにし…
  • 諸葛靚の人柄 - 剛毅なリアリスト
  • 孫晧(そんこう)伝の注に引く干宝『晋紀』によれば、晋呉の決戦の折、呉の丞相・張悌(ちょうてい)率いる軍勢に、敵の張喬の軍勢が降伏してきた。諸葛靚(しょかつせい)は、降伏が見せかけであることを見抜き、受け容れずに全員殺して味方の士気を高めようと進言。しかし張悌はこの進言を却下する。張悌はいった、「強敵…