会稽のニワトリ

 『世説新語』政事篇にこんな逸話がある。

賀太傅作吳郡、初不出門。吳中諸强族輕之、乃題府門云、會稽雞、不能啼。賀聞、故出行、至門反顧、索筆足之曰、不可啼、殺吳兒。於是至諸屯邸、檢校諸顧・陸役使官兵、及藏逋亡、悉以事言上。罪者甚衆。陸抗時爲江陵都督、故下請孫皓、然後得釋。

通釈 賀太傅(賀邵)は呉郡の太守となったが、当初門の外に出ようとはしなかった。そこで呉の豪族たちは彼を馬鹿にして役所の門にこう書きしるした。「会稽の鶏は啼くことができぬ。」賀邵はこれを聞くと、門のところまで出ていって、振り返って筆を索めて書きたした。「啼いてはならぬ。呉の者どもを殺すだろう。」そこで各地の駐屯所へ行って顧氏や陸氏の諸豪族が官兵を私用し、逃亡者をかくまっていることを調べあげ、ことごとく事実を報告した。罪せられた者が大層に多かった。陸抗はこの時江陵都督をしており、わざわざ都へ下って孫皓にたのみこんだので、やっと許されることができたのであった。

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』(明治書院、1975年) 政事第三 pp.209-210

 ※『世説新語』は「」を「」とする。

 会稽出身の賀邵は、賀斉の孫にあたる。「呉の四姓」として知られる呉郡の豪族、顧氏や陸氏らが傲慢に振る舞い余所者と対立している様子、陸抗が陸氏の当主として苦労している様子も伺える。それとも、彼自身も官兵を私用したり、逃亡者をかくまったりしていたのだろうか。

 ところで、この事件が実話だとした場合、いつの話なのか。

 陸抗はこのとき江陵都督であったとあるが、『三国志』には陸抗が江陵都督だったという記述はない。一方賀邵は、孫休の時代に呉郡太守となり、孫晧即位後には中央に戻った(最終的には中書令・太子太傅となったものの、病気になって引退しようとしたところを誤解した孫晧に拷問され、殺されてしまう)。陸抗孫休の時代に西陵都督となり、孫晧即位の六年後には楽郷都督に転じるが、その間、孫晧が即位した当初には江陵都督だったという可能性もあるかもしれない。

2007.03.17

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