Tags: 三国志の人物

  • 司馬懿は美形だったのか?
  • 司馬懿の容姿について、史料上の記述を調べてみた。目次前置き:ドラマ「三国機密」の司馬懿司馬懿は「天挺之姿」を持っていた「針鼠のような鬢に紫石稜のような眼」の桓温は司馬懿と同類司馬懿は「天姿傑邁」だった司馬懿は「狼顧の相」だった三国志演義の司馬懿は「鷹視狼顧」だった司馬懿は「身体壮大」だった司馬懿は「…
  • 2018.11.06 司馬昭について(三国志末期オフ会)
  • 司馬昭について。春に開催された三国志末期オフ会に際して、推しについての語りを書いたものです。 ※アップ許諾済
  • 鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(後編)
  • 「忘年の交わり(前編)」の続きです。目次鄧艾は陳泰より年上だった?三国志演義の鄧艾は、陳泰より年下設定だった頑固な貴公子 vs 頑固な叩き上げ鄧艾と、陳寔の碑文鄧艾は陳泰より年上だった?『三国志演義』の「忘年の交わり」は、鄧艾(とうがい)と陳泰(ちんたい)の年齢差が大きくあったことによるものだが、彼…
  • 鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(前編)
  • 魏の末期、いずれも蜀漢の姜維(きょうい)と戦った名将として知られる鄧艾(とうがい)と陳泰(ちんたい)は、年齢差にこだわらない友誼を意味する「忘年(ぼうねん)の交(まじ)わり」を結んだとされる。しかし実はこれは、小説『三国志演義(三国演義)』によるフィクションであった。歴史書の『三国志』に記される鄧艾…
  • 陳泰の葬儀
  • 陳泰(ちんたい)の葬儀がどのようなものだったか、直接の記述は残っていないが、推測できる記述が『晋書』にある。目次石苞の葬儀は、陳泰の葬儀に倣った陳泰の葬儀、および陳泰は司馬昭と決別してはいないという話陳騫の葬儀も、陳泰の葬儀が元になった同時期に死去した重臣余談・曹髦の葬儀は粗末だったのか?石苞の葬儀…
  • 鍾会と荀勖(荀勗) - 年下の叔父と年上の甥
  • 魏末から西晋初、司馬昭・司馬炎らの腹心として活躍した、鍾会(しょうかい)と荀勖(じゅんきょく)(荀勗)の関係について。目次父を亡くした荀勖は母方のおじを頼った/荀勖の従外祖父は鍾繇荀勖は鍾会の従甥/荀勖は母方のおじの家で育った荀勖は鍾会の従甥/荀勖は鍾会の家で育ったここまでのまとめ鍾会の年上の甥・荀…
  • 2017.02.16 司馬兄弟による陳泰の呼び方
  • 三国志の人物が他の人物を呼ぶ際、姓名で、官職で、字(あざな)で、敬称で、などTPOによって様々なパターンがある。ふと、陳泰は誰にどう呼ばれているのか? と気になって調べてみた。陳泰は『三国志』『晋書』で計七回、名を呼ばれるが、うち六回が司馬昭の発言、他一回は司馬師の発言。司馬兄弟にしか名前を呼ばれな…
  • 司馬昭の性格と人物像 2 - 司馬昭は、他人の「負の心」が読めない
  • 「司馬昭の性格と人物像・1」の続編として、表題のような司馬昭(しばしょう)の性格の「欠点」を考える。目次司馬昭は、孫綝の行動を過大評価した司馬昭は、曹髦の憎悪を理解できなかった司馬昭は、陳泰の自殺願望を察知できなかった司馬昭は、善意を信じ、悪意を信じない司馬昭は、司馬炎の不安を察知できなかった司馬昭…
  • 司馬昭の性格と人物像 1 - 温厚で謙虚なリーダー
  • 三国・魏の末期に相国(宰相)として政権を掌握、数々の功績を残し、後の晋王朝の礎を築いた司馬昭(しばしょう)。しかし、広く流布している人物像は「陰険な野心家」といった、あまり良いイメージとは言い難いものである。近年は多少見直される向きもある(?)が、依然として悪評も根強い。またそもそも世の三国志ファン…
  • 天候に愛された司馬昭
  • Twitterで見かけた「晴れ男司馬昭」から連想した話。どうやら「妖怪三国志」のキャラらしい? 「妖怪ウォッチ」シリーズとシミュレーション「三國志」がコラボしたゲーム……とのことだが、そもそもの「妖怪ウォッチ」の知識が皆無なため、完全にただのキーワード連想です。司馬昭(しばしょう)が諸葛誕(しょかつ…
  • 司馬昭の息子と娘
  • 司馬昭には、晋の武帝となった司馬炎、その弟の司馬攸をはじめ、全九人の息子および少なくとも一人の娘がいた。文帝九男,文明王皇后生武帝、齊獻王攸、城陽哀王兆、遼東悼惠王定國、廣漢殤王廣德,其樂安平王鑒、燕王機、皇子永祚、樂平王延祚不知母氏。燕王機繼淸惠亭侯,別有傳。永祚早亡,無傳。文帝(司…
  • 2015.11.26 三国志の親友たち - 司馬昭と陳泰は親友なのか
  • 司馬景王、文王皆與泰親友,及沛國武陔亦與泰善。司馬師・司馬昭の兄弟はともに、陳泰と親友だった。……という重要な事実に、司馬昭と陳泰の関係に心惹かれてかなり経ってから気が付いた。というのも、ちくま訳の三国志では「親交があり」という素っ気ない表現になっていたのと、『世説新語』に登場する陳泰の司馬兄弟の取…
  • 徐紹 - 司馬昭に仕えた呉の将軍
  • 小説「ある参軍の告白」の語り手にした徐紹(じょしょう)について。徐紹という人物は、『三国志』『晋書』を通しても、諸葛誕の乱の際に魏に降った呉の人物の一人に名がある(晋書文帝紀)魏から呉へ送られた降伏勧告の使者の一人に名がある(魏書陳留王紀、晋書文帝紀、孫楚伝)魏からの使者として呉にやってきたが、呉か…
  • 司馬昭キャリア年表
  • ※出来事は司馬昭に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。西暦年月日出来事官職爵齢帝211建安16司馬昭が司馬懿の次男として張春華との間に生まれる。1劉協219建安24祖父・司馬防が死去する。9220黄初110月28日曹丕(魏王)が禅譲を受け、魏王朝が成立する。…
  • 高貴郷公の孤独 - 誰が曹髦の味方だったのか
  • 魏の四代目皇帝曹髦(そうぼう)(高貴郷公)が、時の権力者司馬昭を殺そうと挙兵して敗死した事件(事件の流れは「高貴郷公の変」参照)の際、曹髦側についたとして今昔の三国志ファンの間でよく名を挙げられる人物に、王経、司馬孚(しばふ)、陳泰などがいる。だが、彼らは本当に曹髦の味方だったのか。目次陳泰について…
  • 万彧と孫晧 - 万彧は果たして佞臣だったのか?
  • 目次『三国志』での万彧呉右丞相萬公墓誌銘陸凱、王蕃 vs 万彧万彧の最期万彧の字(あざな)『三国志』での万彧呉最後の皇帝孫晧(そんこう)の治世、左丞相の陸凱(りくがい)と同時に右丞相となった万彧(ばんいく)。丞相でありながら伝もなく、詳しい出自は不明だが、暴君として後世に知られることになる孫晧と親交…
  • 呉最後の皇帝は「孫晧」なのか「孫皓」なのか
  • 呉のラストエンペラー・孫晧(そんこう)の名は、出典によって「孫晧」と「孫皓」の表記が存在する。私は「孫晧」と書いていたが、ネット上ではむしろ「孫皓」表記が主流らしい。2015年7月現在、Google検索で "孫晧" は約8,990件だが、 "孫皓" は約83,300件もヒットする。【晧】①日の出のさ…
  • 2014.11.27 陳氏家系別バージョン、陳泰の妻の李氏、長男の陳奕など
  • 2014.06.01の続き?別件で検索していたときに拝見したブログ「列女志補説」> 収集大成と第二期まとめにて紹介されていた中国語圏のサイトより、さらに異なる陳氏家系図二種の話。陳泰の妻・李氏颍川世系43世祖,实,字仲弓。生于公元104年,卒于公元187年。少时家贫,但勤奋好学,深明大义,诎身…
  • 荀顗と王祥 - それぞれの選択と、司馬昭の迷い
  • 魏の最末期、司馬昭(しばしょう)が晋王となった際の、荀顗(じゅんぎ)と王祥(おうしょう)のやりとりについて。漢晉春秋曰:晉公旣進爵爲王,太尉王祥、司徒何曾、司空荀顗並詣王。顗曰:「相王尊重,何侯與一朝之臣皆已盡敬,今日便當相率而拜,無所疑也。」祥曰:「相國位…
  • 2014.06.01 陳泰の弟・陳訓、陳準が陳泰の子という説など
  • 陳羣の次男・陳訓?先日Twitterのフォロワーさんが紹介されていた「台北市台碩堂陳氏宗親會」のFBページを眺めていたら、こんな記述があった。三世祖群公生二子。 長子名諱泰 次子名諱訓 [……] 四世祖泰公生二子 長子名諱訴 次子名諱準 泰公名俊字元伯,群公之長子。仕魏官至尚書左仆射。 四世祖訓公生…
  • 陳泰の死 2 - 陳泰は死をもって司馬昭を諫めた?
  • 「陳泰の死」では、陳泰の死の理由は、曹髦を返り討ちにした賈充の罪を司馬昭が見逃したこと、つまり臣下による皇帝殺害を容認したことによって、陳泰自身がその潔癖すぎる正義感に基づき、友であり実質上の主である司馬昭に求めた理想が破壊されたことである、と仮定した。ここでは、その他の理由も考えてみることに。死を…
  • 孫休の息子たちの珍名
  • 呉の三代目皇帝・孫休は学者肌の人物だったが、当時の一般的な名や字(あざな)の付け方に疑問を抱いていた。避けにくい文字(*注)を名に用いたり、また不遜にも行いの伴わない立派な文字を使ったり、さらにそうした文字を組み合わせて二文字のあざなを付けたりしている。こうした名付けは礼の定めに反するのではないか。…
  • 陸遜の命日(呉・赤烏8年2月4日)
  • 『三国志』呉書に、陸遜は「(赤烏)八年春二月」に死去したとあるが、陸雲作の「呉故丞相陸公誄」によれば、これは「赤烏八年二月乙卯」のことである。兩千年中西曆轉換で変換すると、赤烏8年2月4日、西暦では245年3月19日にあたる。惟赤烏八年二月,粵乙卯,吳故使持節、郢州牧、左都護、丞相、江陵郡侯陸公薨。…
  • 陳泰挂壁 - 賄賂は晒します!
  • 陳泰挂壁(ちんたいけいへき)意味 三国・魏の陳泰は匈奴の吏民を懐柔して誉れが高かった人であるが、都の貴人が宝貨を贈ってしきりに奴婢の購入を頼んでも、ことごとく贈り物を壁に掛けておいて取り合わなかった故事。のち、尚書になったとき、贈り物はことごとく贈り主に返還したという。『蒙求』の標題。 出典 「京邑…
  • 2014.03.13 陳泰の妻は、荀顗の娘ではない
  • ※疑問点を調べたときのメモ。 ※引用部分の本題に無関係なルビは省略。シミュレーションゲームの三國志には、陳泰の妻が荀顗の娘であると書かれている。ウェブ上にもしばしば書かれている。この根拠が不明だったが、どうやら荀顗が陳泰の「舅」という記述があることから来ているようである。「舅」の意味太常陳泰不至,使…
  • 陳泰の生年について
  • 陳泰は景元元年(260年)に死去したが、没年齢が記されていないため、生年がわからない。おおまかにでも推測できないものかと思い、調べてみたメモ。長いわりに実りがないので注意。目次仕官年による推測呂布軍の陳羣父子息子の没年による推測陳羣の生年を推測・その1:孔融との比較陳羣の生年を推測・その2:『世説新…
  • 陳泰の評価
  • 目次陳寿による評価司馬昭による評価武陔による評価張華による評価(当時の世評)王羲之による評価袁宏による評価陳泰の謚「穆」について陳寿による評価評曰:[……]陳羣動仗名義,有淸流雅望;泰弘濟簡至,允克堂構矣。[……]陳羣は名誉と道義によって行動し、高潔な人がらで高い声望をもっていた。陳泰は広く世を救い…
  • 諸葛靚の兄弟姉妹
  • 目次諸葛靚の兄諸葛靚の姉・諸葛太妃(司馬伷夫人)諸葛靚の姉・王広夫人諸葛靚の兄諸葛誕(しょかつたん)の乱の際の記述等によれば、諸葛靚(しょかつせい)は諸葛誕の末子である。遣長史吳綱將小子靚至吳請救。長史の呉綱に末子の諸葛靚をつれて呉に行き、救援を要請するよう命じた。晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空…
  • 陳泰の死 1 - 司馬昭に見た理想と絶望
  • 目次『三国志』が記さなかった陳泰の死因自ら命を絶った陳泰陳泰は、司馬昭の潔白を証明したかった賈充と陳泰、司馬昭のための真逆の選択理想と破綻、そして死『三国志』が記さなかった陳泰の死因陳泰(ちんたい)の死について、『三国志』魏書陳泰伝の本文には、景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯。〔一〕景元…
  • 吾彦の転勤マップ
  • 呉に生まれ敦煌からベトナムまで、吾士則くん驚きの転勤人生昇進するたびに、嫌がらせかと思うほど辺境の地に飛ばされる吾彦(ごげん)。しかしそんな環境にもめげず、行く先々で反乱を鎮圧しては善政を敷いていくのでした。最後は官職が「大長秋」になったとあるため西晋の都である洛陽にしてみたが、定かではない。時期は…
  • 陳泰キャリア年表
  • ※出来事は陳泰に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。西暦年月出来事官職等帝226黄初75月曹丕が崩御し、曹叡が即位する。曹叡12月父の陳羣が司空となる。233 〜237青龍1年2月 〜青龍5年2月この頃、陳泰が散騎侍郎となる。散騎侍郎〔五〕237青龍412月…
  • 建平太守・吾彦の駐屯地の謎
  • 吾彦(ごげん)は呉の最末期、西の国境である建平郡の太守となった。このころ、晋の王濬(おうしゅん)は、やがて晋が天下統一を果たすことになる伐呉の役(279〜280年)に備え、蜀の地で船の建造にあたっていた。その木屑が、長江の流れに乗って呉の方まで辿り着いた。このため吾彦は晋がいよいよ水軍で攻めてこよう…
  • 2011.10.25 司馬昭はいい人である
  • 司馬昭に対する古典的三国志ファンの評価は、想像以上に「腹黒い悪人」という感じらしい。しかも、同じ悪役でも司馬懿・司馬師より微妙に小物扱いのような気がする。おそらくその古典的ファン感情の基礎は『三国志演義』のキャラ付けだろうけれど、私は斜め読みなのと、「物語上のキャラ付け」と割り切っているせいで、実感…
  • 2011.10.25 陳泰の正義のこと
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。曹髦弑逆事件絡みの逸話における、陳泰の死について改めて考えるこの事件において、陳泰が文字どおり「死ぬほど許せ…
  • 2011.10.18 司馬昭×陳泰、世説新語&漢晋春秋バージョン
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。2011.10.13の続き。問題のやりとりの世説新語バージョンをチェック。高貴郷公(曹髦)が亡くなると、朝廷…
  • 2011.10.18 陳泰の254年防衛戦メモ(自分用)
  • 追記:こちらは解説でも考察でもない、ただの自分用覚え書きです。解説はコラムページの「姜維の北伐」シリーズを見てね。陳泰の関わった対蜀の防衛戦は、249年(総司令官は郭淮)、254年、255年と少なくとも三回はあるようなのだが、254年の戦は陳泰伝ではスルーされている。254年・北伐防衛戦254年6月…
  • 2011.10.13 突然の陳泰ブーム
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。呉信者の私が、唐突に魏の陳泰にハマったきっかけは、今さら三國志11をプレイしてみたことだった。例によってオー…
  • 2011.08.11 「封禅国山碑」に記されている人々
  • 天璽元年(276)ごろ呉の丞相は□沇(姓が不明)で、その出典は「封禅国山碑」ということを最近知った。(参考:文字拓本 魏晋 呉禪國山碑 ※DjVuという形式の画像なので、対応する閲覧環境が必要だが、文字データも見られる。)見てもまったくわからないが、文字データに頼ると、他に人名らしきところは「丞相沇…
  • 陸抗の本拠地、楽郷について
  • 楽郷の位置陸抗は晩年、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の各軍を統括し、その本拠地を楽郷に置いた。楽郷城は南郡松滋県、現代の湖北省荊州区松滋市付近にあった。楽郷城について胡三省曰:「樂鄉城在松滋縣東。樂郷城北江中有沙磧,對岸踏淺可渡,江津要害之地也。方輿紀要:「樂鄉城今松滋縣東七十里,三國吴所築朱然嘗鎮此…
  • 歩闡の乱(西陵の戦い) 1 - 概要
  • 総司令官兵力結果呉軍陸抗3万以上勝利晋軍歩闡/羊祜不明/8万余敗北歩闡(ほせん)率いる西陵城の反乱軍、それを救援に来た羊祜(ようこ)率いる晋軍と、反乱の鎮圧にあたった陸抗(りくこう)率いる呉軍との一連の戦いは、判明している陸抗の記録において唯一の、しかし非常に華々しい戦勝であり、その記述は『三国志』…
  • 永安の戦い 2 - 敗戦はやはり陸抗のせいかもしれない
  • 蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)で陸抗が羅憲に敗北したと言われていることについて、個人的には、敗戦は総司令官がむやみと援軍を送ったせいで、そして総司令官は少なくとも陸抗ではない、という結論に一度は達してみた。が。蜀漢滅亡の報と『建康実録』による微妙な異説蜀が滅亡したという報せを呉の都にもたらし…
  • 陸抗の諡は「武侯」
  • 陸抗(りくこう)の諡(おくりな)は『三国志』には載っていないが、陸雲(りくうん)(陸抗の子、西晋の文人として知られる)の「祖考頌(そこうしょう)」という作品で判明するらしい、と聞いて調べてみた。祖考頌(有序)雲之世族,承黃虞之苗緒,裔靈根之遺芳。用能枝播千條,穎振萬葉。繁衍固於三代,饗祀存乎百世。豈…
  • 呉の大司馬の権力
  • 陸抗や諸葛靚の最終官職である、呉の「大司馬」。軍事の最高位というくらいだから、さぞ絶大な軍事権限を持っているのだろう! と勝手に思い込んでいた。が、調べてみるとどうも、官位と実際の指揮権は別のようである。少なくとも武官として実働している大司馬のほとんどが、下記のようになんらかの総指揮権らしき役職を別…
  • 丁固(丁密)の経歴
  • 孫呉末期の重臣、丁固(ていこ)(丁密)について。若い頃に父が死去したため、母親と二人暮らしだったが、闞沢や虞翻に評価され、孫晧の時代には司徒の位に上る。陸凱と同い年。子の丁彌や孫の丁潭(ていたん)は、晋に仕えた。丁潭は『晋書』に伝がある。元の名は丁密といった。しかし滕密の名を避けて、丁固と改名(滕密…
  • 2007.09.13 諸葛靚の年齢がわからない
  • 某サイトさんで諸葛恢の生年から諸葛靚の年齢にふれられていたのに影響され、早速真似して調べてみる。『晋書』穆帝紀によると「永和元年(中略)五月戊寅,大雩。尚書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。」とある。永和元年とは西暦345年で、当サイトの年齢比較ツールで想定していた範囲を超えている!(※急遽延長しま…
  • 陸抗の妻と子女
  • 陸氏系図陸抗の妻・張氏陸抗の妻の張氏は、張承(張昭の息子)と諸葛氏(諸葛瑾の娘)の間の子。陸抗の次男の陸景は、この張氏の子である。しかしこの張氏は諸葛恪が誅殺された際に(姪にあたるため)離縁されてしまった。この時代、離婚も再婚も意外に多く、不祥事を起こしたり誅殺された者の娘が離縁されることはよくある…
  • 2007.04.29 諸葛靚
  • 諸葛靚は、父の決意に共感し、ともに目的を果たそうと能動的に呉に降った! というキャラにもできそうな気もする。が、私の彼の第一印象は、確かに父に共感し多大な影響を受けてはいるものの、どちらかというとなりゆきに翻弄され、気が付いたら呉の将軍位を与えられていた……という人だった。その印象を拡張した創作設定…
  • 歩闡の乱 2 - 兵力と羊祜の作戦
  • 西陵の戦いの兵力歩闡の乱における西陵の戦いにて、陸抗は晋軍に挟撃されながらも寡兵で打ち負かしたというイメージがあるが、具体的には何人対何人だったのか。敗戦後の晋で羊祜が訴えられた上奏によって、この戦いにおける兵力を知ることができる。それによれば、晋救援軍は全体で八万、陸抗の軍は三万弱。及還鎭,吳西陵…
  • 楊肇 - 陸抗に敗れた非運の忠臣
  • 西晋の武将、楊肇(ようちょう)。残念ながら『晋書』に彼の伝はないが、陸抗ファン的には重要人物であり、歩闡の乱(西陵の戦い)において一番気の毒なことになった人でもある。が、2007年春現在Wikipediaにも記事が作られていないというマイナーぶりゆえに、敢えて細かい経歴まで書いておくことにする。楊肇…
  • 陸抗と羊祜 - 「羊陸の交わり」の真実
  • 羊陸の交わり西晋の羊祜(ようこ)と呉の陸抗(りくこう)とは、敵ながらも互いに信義を持って相対した。歩闡(ほせん)の乱(西陵の戦い)を巡っては晋呉両軍の総司令官として戦った一方で、酒や薬を贈りあっては、毒かと疑うこともなくこれを飲んだ。彼らの結んだ信義は「羊陸之交(羊陸の交わり)」という故事成語にもな…
  • 歩闡の乱 3 - 西陵の戦いと二重封鎖陣地
  • 歩闡の乱における西陵の攻城戦では、陸抗は配下の将軍らの反対を押し切って、「陣地を赤谿から故市まで続げて、内側では歩闡を封じこめ、外に対しては敵の来襲を防ぎ止めようとした。」という。シミュレーションゲーム「三國志」の武将プロフィールにも、「魏軍と反乱軍に挟撃されながらも、二重の城壁を築き勝利した」など…
  • 孫晧時代のキャリアの疑惑
  • 孫晧は陸抗を昇進させたくなかった?陸抗は264年、おそらく孫晧の即位に伴う人事異動の際に、益州牧に任命されている。しかし益州とは旧蜀漢の方面であり、この年には既に魏領。実際の領土があるわけではなく、いかにも、肩書きはあげるが実権はあげないよ! って感じの任命。軍事面では270年に、都督信陵・西陵・夷…
  • 永安の戦い 1 - 永安の敗戦は陸抗のせいではない
  • 陸抗の敗戦経歴として知られる、対羅憲の攻城戦、永安の戦い(264年2〜7月)について。なお「永安の戦い」という名前はここでの仮称。陸抗伝には、この戦に関する記述は皆無である。結果として敗戦であろうとも、何らか部分的な活躍があれば記されることもある中(陸抗の例でいえば諸葛誕の乱の際の活躍)、完全スルー…
  • 会稽のニワトリ
  • 『世説新語』政事篇にこんな逸話がある。賀太傅作吳郡、初不出門。吳中諸强族輕之、乃題府門云、會稽雞、不能啼。賀聞、故出行、至門反顧、索筆足之曰、不可啼、殺吳兒。於是至諸屯邸、檢校諸顧・陸役使官兵、及藏逋亡、悉以事言上。罪者甚衆。陸抗…
  • 病弱疑惑を考える
  • 多くの三国志解説本の類で、陸抗(りくこう)は病弱であったとされる。しかし、具体的な出典があるわけではない。その根拠は何なのか。羊祜の薬おそらく、羊祜(ようこ)との有名なエピソードによるイメージが最も大きい。陸抗が病気になったとき、敵である羊祜が薬を作って送ってきたが、陸抗は疑うことなくそれを飲んだ、…
  • 羊祜 - 天真爛漫な徳の人
  • 陸抗(りくこう)とも縁の深い西晋の武将、羊祜(ようこ)は、純粋で高潔で正義感が強く無欲な人格者であった。反面、軽々しくお忍びで出かけようとしては配下の徐胤(じょいん)に咎めらたり、大自然の風景の悠久さに対して人の生の儚さを思うなど、天真爛漫で繊細なところも。(徐胤は、後の歩闡の乱の際に巴東監軍として…
  • 朱異 - 不器用な俺様
  • 朱桓の息子、朱異は呉の後期に武将として活躍するが、父親譲りの激しい気性と高いプライドを持っていた。朱異伝の注に引く『呉書』によれば、合肥新城での戦の折、諸葛恪に献策を却下された朱異は、諸葛恪は手紙を送ってその作戦が不可である理由を説明したが、朱異はその手紙を床にたたきつけていった、「おれの建策を用い…
  • 諸葛靚と父と司馬炎 - 友情と孝道の狭間で
  • 諸葛靚と父・諸葛誕諸葛靚(しょかつせい)は、諸葛誕(しょかつたん)の末子である。諸葛誕は、呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮らと同じ琅邪の諸葛氏の一族で、魏に仕えていた。だが魏王朝の末期、司馬氏の専横に対して反旗を翻すことになる。諸葛誕は呉に帰順して救援を要請するべく、子の諸葛靚を人質として呉に送った。だが、一…
  • 呉の歴代大司馬
  • 大司馬は軍事の最高役職。書かれていないだけで、他にもいる可能性大。皆して在任期間が短い。若造が任命されることはまずないので、在任のまま死去する人が多いせいだとしても、一ヶ月未満〜最長で七年弱である。滕胤に至っては、陰謀に利用されただけという感じ。呂範(りょはん) 字:子衡(しこう) (?-228) …
  • 孫権 - 苦悩の三代目
  • 呉の初代皇帝・孫権。三国志の英雄としては、魏の曹操や蜀の劉備と並ぶ立場ながら、孫堅・孫策ときて三代目イメージの強い孫権には、愉快なエピソードが多い。若かりし頃、呂範に金をせびってみたり。酒宴で周泰を脱がせたり。壁の穴から呂蒙をこっそり見舞ったり。張昭と喧嘩した揚げ句、放火しようとしたり。ときどき酒宴…
  • 陸抗年表
  • 出典を表示しない西暦年月官職齢出来事出典帝226黄武5-1陸遜と孫氏(名は不明。孫策の娘)の間に、次男として陸抗が生まれる。“抗字幼節,孫策外孫也。遜卒時,年二十,……” “長子延早夭,次子抗襲爵。(陸遜傳)”-229黄龍14月-4孫権が帝位に即き、呉王朝が成立する。!黄武元年(魏の黄初三年、西暦2…
  • 2007.02.23 西陵の戦いにて王戎は何をしたのか
  • 竹林の七賢の一人、王戎。『世説新語』によれば、「初,羊祜以軍法欲斬王戎,夷甫又忿祜言其必敗,不相貴重…」云々、羊祜は軍法によって王戎を斬ろうとしたことがあり、また夷甫(王衍)が必ず失敗するであろうと語っていたために、王衍は羊祜を重んじなかったという。羊祜伝によれば、「歩闡之役,祜以軍法將斬王戎,故戎…
  • 淩統の没年齢について
  • 淩統(りょうとう)(189年〜237年?)の没年齢「49歳」というのは「29歳」の誤りだ、という話が随所でみられる。これは大変。29で没してしまっては夷陵の戦いに参加できない。父親の淩操が黄祖討伐戦で死んだとき(建安8年、203年)には15歳であったということから、淩統の生年は189年と思われる。〔…
  • 永安の戦い 3 - 永安侵略の理由:呉軍は火事場泥棒ではない
  • この蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)について、三国志ファンの間では呉を蜀の滅亡に乗じた火事場泥棒かのように評する風潮があり、「だから呉が嫌いだ」という主張を少なからず見かける。その最大の原因は、おそらく羅憲の発言によるイメージだろう。「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら…
  • 諸葛靚の人柄 - 剛毅なリアリスト
  • 孫晧(そんこう)伝の注に引く干宝『晋紀』によれば、晋呉の決戦の折、呉の丞相・張悌(ちょうてい)率いる軍勢に、敵の張喬の軍勢が降伏してきた。諸葛靚(しょかつせい)は、降伏が見せかけであることを見抜き、受け容れずに全員殺して味方の士気を高めようと進言。しかし張悌はこの進言を却下する。張悌はいった、「強敵…
  • 施績(朱績)の経歴
  • 施績(朱績)、字(あざな)は公緒。孫権から孫晧に至るまで歴代の帝に仕え、最後は左大司馬の位に上った。父は呉の重鎮で同じく左大司馬の朱然。  ※『三国志』の本伝(父の伝に付属)では「朱績」。呉後期には父の本姓施姓に戻っていることと、本人も施姓を希望していたことから、当サイトでは「施績」表記をメインにし…
  • 妖怪を煮て食べた陸敬叔
  • 干宝(かんぽう)の志怪小説『捜神記(そうじんき)』に以下のような話がある。呉の先主の時、陸敬叔は建安の大守と爲る。人をして大樟樹を伐ら使む。數斧ならざるに、忽ち血の出づる有り。樹は斷たれ、物の人面 狗身なる有りて、樹中從り出づ。敬叔曰く「此れ彭侯と名づく」と。乃ち烹て之を食へば、其の味 狗の如し。『…
  • 孫晧 - 無垢なる暴君
  • 『三国志』きっての暴君として知られる、呉の最後の帝・孫晧(そんこう)(*注1)は、初代皇帝・孫権の孫にあたる。後世に残された暴虐の逸話には、亡国の君主ゆえの誇張もありそうだが、事実無根というわけでもないだろう。だがこの孫晧、「無垢な病んだ暴君」という奇妙な印象を受ける人物でもある。孫晧が、根本的に無…
  • 諸葛靚と孫晧
  • 暴君として知られる呉末の帝・孫晧(そんこう)は、後年、臣下が権力を持って反乱を起こすことを相当に怖れていたようである。実際に多くの臣下が晋に逃亡し、歩闡(ほせん)のように、代々の有力な臣下さえ反旗を翻しはじめた。陸氏一族では陸凱が丞相として内政面で、陸抗が国境において軍事的に権力を持っていたが、彼ら…
  • 諸葛靚の字
  • 諸葛靚(しょかつせい)の字(あざな)は「仲思」という。「仲」が付くことからして、彼は諸葛誕(しょかつたん)の次男なのだろう。諸葛靚の字に関しては、『世説新語』言語篇にこんな逸話がある。諸葛靚在吳、於朝堂大會。孫皓問、卿字仲思、爲何所思。對曰、在家思孝、事君思忠、朋友思信。如斯而已。通釈…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と司馬伷
  • 呉の滅亡に際して、帝・孫晧(そんこう)を直接降伏させることになった人物は、司馬懿の息子である琅邪王の司馬伷(しばちゅう)だったが、この司馬伷は、諸葛靚(しょかつせい)の姉の夫でもあった。平吳之役,率衆數萬出涂中,孫晧奉箋送璽綬,詣伷請降。詔曰:「琅邪王伷督率所統,連據涂中,使賊不得相救。又使琅邪相劉…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と張悌
  • 三国志最後の決戦といえる、晋による伐呉の役に際し、ときの呉の大司馬・副軍師であった諸葛靚(しょかつせい)は、丞相・軍師であった張悌(ちょうてい)の指揮下で出陣するが、結果、呉軍は大敗した。(詳細は「張悌 - 忠義のセンチメンタリスト」参照)孫晧(そんこう)伝の注に引く習鑿歯(しゅうさくし)『襄陽記』…
  • 陸抗の名前 - 節を抗ぐ
  • 姓は陸、名は抗、字(あざな)は幼節。彼の名前の意味について。抗(一)アげる〔アぐ〕。高くあげる (二)アタる。はりあう。てむかう。はむかう。抗争「抵─」 (三)フセぐ。→防。こばむ (四)高い (五)おさめる。しまう① あ-げる(あぐ)。上にあげる。持ち上げる。 ② あらが-う(あらがふ)。さからう…
  • 呉最後の大司馬・副軍師
  • 諸葛靚と晋と呉諸葛靚(しょかつせい)の生没年は不明だが、晋の武帝司馬炎(しばえん)の幼なじみというところから、彼と同年代と推測される。仮に同い年とした場合、諸葛誕(しょかつたん)の乱が起きたころには二十二歳。当時の初出仕の目安は二十歳くらいだが、特に魏時代の官名の記述はないことから、諸葛靚は魏では官…
  • 陸抗関連マップ
  • 巫(ふ)当初の建平(けんへい)郡の郡都。蜀漢との国境。蜀漢滅亡後、魏に攻略される。秭帰(しき)巫が魏領になって後は、建平郡の郡都?永安(えいあん)巴東攻略のため出陣した歩協らの援軍として赴き、羅憲軍に敗北。江陵(こうりょう)264?〜270年?駐屯。江陵都督だったことも?楽郷(らくきょう)270年〜…
  • 呉の歴代丞相
  • 丞相の移り変わりをみると、呉という国が破綻していく過程が見えて興味深い。顧雍、陸遜、歩騭までは、納得の人選のように思える。しかし孫権の晩年空位となり、死後は孫峻・孫綝コンビによる乗っ取りで最悪の状況に。その後は濮陽興、万彧など帝の権利争いに纏わるコネっぽい人事が続き、陸凱は国の内部からの崩壊を食い止…
  • 陸抗の容姿
  • 陸抗の容姿については、特に記載がない。そこで親戚から推測してみる。父・陸遜三国時代、容姿の良し悪しはかなり人物評価を左右する。陸遜ほどの重要人物なら、容姿が良ければ記述されていそうだ。が、敢えて何も書かれていないということは……。父には美形遺伝子はあまり望めない予感が。なお『三国志演義(三国演義)』…
  • 陸抗の人柄
  • 几帳面な完璧主義者陸抗(りくこう)が若いころ、諸葛恪(しょかつかく)と入れ替わりに柴桑に駐屯することになった。元の任地を去るにあたって陸抗は、城壁や建物を補修し、まるで新しく完成したかのようなきれいな状態にしておいた。一方、諸葛恪が明け渡した柴桑の城はというと、壊れたところも多いままであった。さすが…
  • 陸抗の評価
  • 目次陳寿による評価陸凱による評価吾彦による評価梅陶によるたとえ何充によるたとえ陸機による評価習鑿歯による評価陸機による誄陳寿による評価抗貞亮籌幹,咸有父風,奕世載美,具體而微,可謂克構者哉!陸抗は、身を正しく持しつつ将来への見通しを持って行動を取り、父親の遺風をよく受け継いだ。父祖以来の立派な家風を…
  • 張悌 - 忠義のセンチメンタリスト
  • 三国志最後の戦いである、西暦280年の晋による伐呉の役で奮戦したとされる、孫呉最後の丞相、張悌(ちょうてい)。「今日は私が死ぬべき日なのだ」晋軍は、各方面から押し寄せて着々と要所を陥落させ、ついに呉の都近くまで迫り来つつあった。軍師(現代でいう参謀の意味ではなく、軍の総帥)であり、丞相に就任したばか…