陸抗:孫晧時代のキャリアの疑惑
孫晧は陸抗を昇進させたくなかった?
陸抗は264年、おそらく孫晧の即位に伴う人事異動の際に、益州牧に任命されている。しかし益州とは旧蜀漢の方面であり、この年には既に魏領。実際の領土があるわけではなく、いかにも、肩書きはあげるが実権はあげないよ! って感じの任命。
軍事面では270年に、都督信陵・西陵・夷道・楽郷・公安諸軍事となり、信陵〜公安までの軍事の総指揮権を持つことになった。このあたりの権限は、それまで左大司馬・施績が持っていたが、彼の死去に伴い陸抗に移ったようである。 訂正:施績と陸抗の統括範囲は、重複するところが多いが同一ではなく(下図)、そのまま引き継いだというわけではないかもしれない。ただし、施績の死去に伴い任命されたようには書かれている。
左大司馬・施績の死去後も右大司馬の丁奉がいたが、271年には丁奉も死去し、大司馬は左右ともに空位になる。なぜこの時点で、陸抗は大司馬にはなれなかったのか?
どうも孫晧は、文武両面において陸抗に高い地位を与えることを渋っているように見受けられる。
孫晧は、臣下が力を持つことを極端に恐れている節がある。たとえば武昌に遷都したりしたのも、自身が少しでも西方に移ることで皇帝の直接の権限をそちらに広げたかったのではないか。陸抗に高位を与えたくなかったのは、旧来の有力者である陸氏に、極力、権力を与えたくなかったのだろう。この当時、一族の陸凱が丞相となったが、このときは突然、歴代一人だった丞相を左右に二人置いた。しかももう一人の丞相は孫晧シンパの万彧であり、陸凱の丞相としての権力を抑圧しようとした結果のようにも思われる。
そして、身近であればそれなりにコントロールできるとしても、都から緊急に直接介入しにくい遠い西方で、大きな実権を持った軍事的トップがその気になって反乱を起こせば、いよいよ孫氏の皇室としての地位が危うくなる可能性は大きい。孫晧は、陸抗に全面的な軍事権限を持たせることをあくまでも怖れたがゆえに、大司馬に任命したくなかった、とも邪推できる。
しかし273年の春、ついに陸抗は大司馬に任命される。いよいよ272年の歩闡の乱鎮圧で功績をあげた陸抗を昇進させないわけにもいかず、孫晧としては本意ではないまま渋々任命したのでは、という気もする。だが、陸抗はこの翌年秋には病死している。273年の時点で既に病気が重く、遠くない死が予測される状況だったという可能性もあり、孫晧としても、もう先が長くはあるまいと踏んで、任命に踏み切ったのかもしれない。
だが孫晧は、野望のために計画的に臣下を制御するタイプではない。大概の場合、恐怖と不信という動機から結果的に大変なことをしでかすだけである。この場合も孫晧は、悪意を持っていたというより単に陸抗の忠誠を信じきれず、ひたすらクーデターが怖かったのだろう。陸抗のほうではまったくもって、そんな気はなかったと思われるが。
陸抗は大将軍になっていたかもしれない
陸抗は、大司馬になる前は鎮軍大将軍・都護だった。「鎮軍大将軍」というのはどういう位置づけの官職なのか。一般に、三国時代の官職制度として解説されるものは魏の制度なので、呉のそれには当てはまらない部分もある。目下、呉の武官の推移を自分用にまとめているが、大司馬などを除いては、とりあえず「上大将軍」が最も上位、次が「大将軍」、その次に「驃騎将軍」「車騎将軍」「衛将軍」が特に上位の将軍らしき雰囲気だが、定かではない。
「鎮軍大将軍」はそれなりに上位の将軍号なのだろうが、鎮軍将軍のバージョンアップ版のような感じである。陸抗伝では「孫晧卽位,加鎭軍大將軍……」とあり、何に対して「加」なのかが不明だが、それまではおそらく「鎮軍将軍」だったため、同じ鎮軍で将軍から大将軍になったということかもしれない。
しかし実は、陸抗が鎮軍大将軍だったことが書かれるのは264年に任命されたときのみで、それ以降は明記されない。『三国志』において呉末期はかなりの重要人物・重要事件についても記録が抜けている(何しろ丞相の伝すらない)ことからして、陸抗は大司馬に昇進する前に、もう少し上の将軍位についていてもいいのではないか、と思えてくる。
ちなみに『建康実録』では複数回、陸抗が大将軍と書かれている箇所がある。明らかに誤記と思われる箇所もあるものの、陸抗が、どこかの時点で大将軍になっていた可能性はあるのではないか。
陸抗が大司馬になる前あたりの時点で、他に大将軍という人は、発見した範囲では特に居ない(厳密に言えばその頃は全体的にほぼ不明)。となると実は陸抗も、鎮軍大将軍→大将軍→大司馬といった感じで、案外普通に昇進していたのかもしれない。
公開:2007.03.17 更新:2011.07.31