陸抗の評価

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陳寿による評価

抗貞亮籌幹,咸有父風,奕世載美,具體而微,可謂克構者哉!

陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) p.1361

陸抗は、身を正しく持しつつ将来への見通しを持って行動を取り、父親の遺風をよく受け継いだ。父祖以来の立派な家風を守り、実際の行動ではいささか先人に劣る点があったとはいえ、先人以来の基礎の上にみごとに仕事を完成させることができた者だといえよう。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7 呉書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) 陸遜伝 第十三 p.315

 まずは『三国志』の評より。父・陸遜の遺風を継いで業績を残したとして褒められつつも、「実際の行動ではいささか先人に劣る点があった」。さすがに陸遜と比べられるのは苦しいものがある。個人的に、正式な建国以降の孫呉の最大の名臣は、陸遜だと思っている。しかも陸遜は、晩年の事件はともかくも、全盛期には帝の信頼と協力を得て実力を発揮することができた。他方、陸抗は、まず父の名誉を挽回するところから始まり、仕官してからというもの国は衰退する一方で、進言を理解される余地も少ない中で尽力した。そのハンデはかなり大きい。

陸凱による評価

姚信、樓玄、賀卲、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩及族弟喜、抗,或清白忠勤,或姿才卓茂,皆社稷之楨幹,國家之良輔,[……]

陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) p.1403

姚信・楼玄・賀卲・張悌・郭逴・薛瑩・滕脩、それにわが族弟(一族のうちの同世代の年少者)の陸喜・陸抗といった者たちは、あるいは清廉に身を処しつつ忠勤にはげみ、あるいは天賦の才能を豊かにそなえ、それぞれに社稷の根幹となり、国家の良き補佐者となる者たちでございます。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 8 呉書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.24

 陸抗と同じ一族である、丞相の陸凱が帝に残した遺言より。具体的に問題のある臣下を述べた後で、これらの優秀な臣下に託すべきであるとしている。陸喜陸瑁の息子で、呉・晋に仕えた。陸抗の従兄弟にあたる)ともども陸凱には高い評価を得ているが、一族の者という立場から身贔屓も入るであろうことは否めない。

吾彦による評価

帝嘗問彥:「陸喜、陸抗二人誰多也?」彥對曰:「道德名望,抗不及喜;立功立事,喜不及抗。」

房玄齡等撰《晉書 五 傳》(中華書局,1974年) 卷五十七 列傳第二十七 吾彥 p.1563

 呉・晋に仕えた吾彦ごげんは、かつて陸抗に推挙され、その麾下として従っていたこともある人物だが、晋の武帝司馬炎陸喜陸抗ではどちらが優れているか問われ、こう答えた。

 「道義や人望において陸抗陸喜に及びませんが、功績をうち立てることにおいて陸喜陸抗に及びません。」

 陸抗に関していえば、人格はともかくも、指揮官としてはとても優秀でした、といったところだろうか。吾彦としては、それぞれの長所を挙げつつ、どちらも優れた人物であるとして、帝にうまく答えようとしたのだろう。ところが、この答えに激怒した人がいた。陸抗の息子・陸雲である。あいつは低い身分から父上に取り立てられたくせに! と大バッシング。兄の陸機とともに、吾彦からの贈り物も拒否し、見かねた他人にたしなめられるまで悪口を言い続けた。

 陸喜との対比からイメージされるのは、陸抗の、曖昧な精神性よりも現実的問題の解決を優先する、シビアな現実主義の姿勢である。とりわけ晋の時代においてはすでに、こうした人物像は無骨にすぎたのだろうか。しかし、その陸抗に見出された吾彦は、若い頃からひとかどの人物になろうとの野心を持ち、呉の滅亡に際しても最後まで健闘し、新天地においてもなお剛毅な姿勢を持ち続けた人物である。彼にとって追想の中のそうした姿はむしろ、賞賛に値するものだったかもしれない。

梅陶によるたとえ

陶公機神明鑒似魏武,忠順勤勞似孔明,陸抗諸人不能及也。

房玄齡等撰《晉書 六 傳》(中華書局,1974年) 卷六十六 列傳第三十六 陶侃 p.1779

 これは、晋の武将、陶侃とうかんの伝にある、尚書の梅陶という人が陶侃を褒めた言葉。

 陶侃は、曹操諸葛亮のようにすごいですよ。陸抗その他も及ばないほどですよ。……褒められているのか貶されているのか、微妙なところである。が、陶侃曹操レベルの将才と諸葛亮レベルの忠義を兼ね備えた人物なんだ! と言いたくて、将才がありかつ忠義で働き者な有名人の代表例として陸抗の名が出されていると思えば、つまりはこの時代、忠義な名将といえば陸抗、と多くの人が認識している状況であったと考えられる。

何充によるたとえ

得賢則中原可定,勢弱則社稷同憂,所謂陸抗存則吳存,抗亡則吳亡者,豈可以白面年少猥當此任哉!

房玄齡等撰《晉書 七 傳》(中華書局,1974年) 卷七十七 列傳第四十七 何充 p.2030

 これは、東晋の何充という人による言葉。「いわば、陸抗の存命中は呉が存続していたが、陸抗が亡くなると呉は滅びたようなもので」くらいの意味なんだろうか? どうやら実際ごく近い後世の人間に、陸抗は一人で呉の晩年を支えていた、という評価をされていたようである。

陸機による評価

 長いので引用は省略するが、陸抗の子・陸機の著した『弁亡論』によれば、陸抗は「文武両面で朝廷に重きをなし」、彼が「けっしてわれわれの期待をうらぎらない」「賢人の計りごと」によって歩闡の乱を鎮圧した後、「烽火が急を告げることも罕で、領域内には心配ごともほとんどなくなったのであった。」しかし「陸公が死去してより、陰謀がきざしはじめ、呉国の内部に深い亀裂が走って、六軍の兵士たちの心にも動揺をきたした」。そして晋の軍勢はかつてのような盛大なものでもなく、郭馬の反乱なども大したものではなかったのに、ことごとく賢者がいなくなっていたせいで呉は滅びてしまった。……ということらしい。

 まあこれは、客観的な評価とは言い難いので、話半分で。「たった一人で斜陽の呉を護り抜いた。その死後に呉は滅びてしまった」といった陸抗のイメージ・評価を、最初に定着させたのは陸機なのかもしれない。

習鑿歯による評価

 陸抗伝注に引く『漢晋春秋』によれば、著者である東晋の歴史家・習鑿歯しゅうさくしは、晋の将羊祜ようことの交誼によって謗られたことに対し、自説で陸抗を弁護している。こちらも長いので全体の引用は省略するが、武力をもって敵を制圧するよりも、徳をもって民衆の心を引きつける方が優れているとした上で、そうした手段をもって呉の人心を引きつけた羊祜に対し、陸抗は「自分自身も正しい道を行なって、相手の優越点と同じものを自分のほうでも身につけるのが最善の策だと」考えた。「そのための丹い誠の心は、かねてより陸抗が身にそなえているものであった」と評する。暗に著者が自説の正当性を説くための内容かもしれないが、客観的に陸抗の人徳面を賞賛する、珍しい(?)評価である。

陸機による誄

 陸機による、父・陸抗るい(故人の徳行・功績を讃える文章)。『芸文類聚げいもんるいじゅう』収録。とにかく褒めていることはわかるが、難しくて詳細が不明……

我公承軌.高風肅邁.明德繼體.徽旨弈世.昭德伊何.克俊克仁.德周能事.體合機神.禮交徒候.敬睦白屋.踧踖曲躬.吐食揮沐.爰及鰥寡.賑此惸獨.孚厥惠心.脫驂分祿.乃命我公.誕作元輔.位表百辟.名茂戝后.因是荊人.造我寧宇.備物典策.玉冠及斧.龍旂飛藻.靈鼓樹羽.質文殊塗.百異行徹.人玩其華.鮮識其實.於穆我公.因心則哲.經綸至道.終始自結.德與行滿.英與言溢.

『藝文類聚』第四十七卷(中央研究院 漢籍電子文獻 > 瀚典全文檢索系統 2.0 版 > 人文資料庫師生版 1.1 > 選自【古籍三十四種】)

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