陸抗の妻と子女
陸氏系図
陸抗の妻・張氏
陸抗の妻の張氏は、張承(張昭の息子)と諸葛氏(諸葛瑾の娘)の間の子。陸抗の次男の陸景は、この張氏の子である。しかしこの張氏は諸葛恪が誅殺された際に(姪にあたるため)離縁されてしまった。この時代、離婚も再婚も意外に多く、不祥事を起こしたり誅殺された者の娘が離縁されることはよくある。しかし姪まで離縁するあたりには、陸抗の徹底した性格がうかがえる。
なお、この張氏の同母姉妹は、孫和(孫権の子、孫晧の父)の妃になったが(孫晧の母ではない)、孫和が死を命じられた際にともに自害した。
その他の陸抗の妻
陸抗の四男である陸機以下の三人は、諸葛恪誅殺の頃にはまだ生まれていないため、彼らの母である妻が他にいたことになるが、身元は不明。
陸抗の息子
陸抗には陸晏・陸景・陸玄・陸機・陸雲・陸耽の六人の息子がいる。陸機・陸雲は西晋の文人として名高い。
陸景は、孫策・張昭・諸葛瑾・陸遜という、孫呉創立期のそうそうたる著名人らの血を引いていることになるが、前述のように生母の張氏が幼い頃に離縁されてしまったため、祖母に育てられた。この祖母とは必然、父方の祖母ということになり、陸抗の母・つまり陸遜の妻・孫策の娘ということになる。
陸抗の娘
女子は特筆されないことが多いため、正確には不明だが、少なくとも一人、おそらくは二人の娘がいた。
佐藤利行氏の論文「陸機の兄弟について」(オンラインで無料公開されている。→『中国中世文学研究』第40号 中国中世文学会 )参照で、陸機には同母姉がおり、かつその姉は一番上の姉であった。ということで陸抗には陸機より上(かつ、陸機の母が張氏の後妻だとすれば陸景より下)に娘が一人はいるということになる。
陸機にはまた、「呉大司馬陸公少女哀辞」という作品がある。「少女」は末の娘という意味だとすると、長姉とは別人と思われる。つまり陸抗の娘はもう一人いたことになるが、上述の論文ではこの作品については触れられていない。
陸抗の子たちの末路
長男の陸晏・次男の陸景は、晋による伐呉の役の際に、王濬軍との戦いで戦死する。三男の陸玄は、陸抗の死後に子らが兵を分割して預かったというときには生きていたようだが、伐呉の役の際には名前が出てこないこと、陸機による誄辞で早世したように書かれていることから、陸抗の死から呉滅亡までの間に亡くなったものか。陸機・陸雲・陸耽の三人は八王の乱の際に冤罪で誅殺され、陸機が追悼の作品を書いた二人の姉妹もそれ以前には亡くなっていることになる。八人もいた陸抗の子たちだが、誰ひとり天寿を全うすることはできなかった。
2007.05.11