陸抗の人柄

几帳面な完璧主義者

 陸抗りくこうが若いころ、諸葛恪しょかつかくと入れ替わりに柴桑に駐屯することになった。元の任地を去るにあたって陸抗は、城壁や建物を補修し、まるで新しく完成したかのようなきれいな状態にしておいた。一方、諸葛恪が明け渡した柴桑の城はというと、壊れたところも多いままであった。さすがの諸葛恪も深く恥じたという。

 後に荊州の総司令官となった陸抗は、西陵督・歩闡ほせんの反乱を鎮圧することになる。歩闡が籠城した西陵城は、防衛設備が整った陥とし難い城であり、それは過去に自分が整備したものだと陸抗は諸将に語る。自ら整えた堅固な要塞を陥落させねばならないという皮肉な戦において、陸抗は、一刻も早く城を攻撃したいという麾下の意見を却下し、持久戦に持ち込むための陣地の構築を優先するという作戦で見事に勝利した。(※詳細は歩闡の乱(西陵の戦い)参照)

 乱を鎮圧した陸抗は、そのまま西陵に留まり、戦で壊れた城を補修した後、ようやく本拠地に帰還した。担当地域全体の防衛という観念からもっともな行為ではあろうが、諸葛恪のような性格ならば、誰かに適当に命じて確認もせずに終わらせるに違いない。しかし陸抗はどうしても自ら指揮をとり、完璧に整えなければ気が済まなかったようである。

 これらのエピソードから見えてくる陸抗は、几帳面な完璧主義者である。

冷徹な面

 西陵の反乱を鎮圧した際、陸抗は、歩闡はじめ首謀者らの処刑において、赤子まで皆殺しにした。こうしたことを非難し、子孫が報いを受けるだろうと考えた者たちもいた。事実、陸抗の子らは呉の滅亡の際に戦死し、あるいは晋の八王の乱の中で讒言を受けて処刑となり、その家は絶えてしまった。

 少なくとも当時、こうした謀反の罪で一族処刑となるのは一般的な刑罰であり、その点については陸抗が特別に冷酷な判断を下したとまではいえない。しかし赤子であろうとも容赦しない、情に流されることなく規律は徹底する、という、ここにも冷徹なまでの完璧主義が窺えるのである。

能力主義、合理主義

 陸抗は、当時下級官吏であった吾彦ごげんの文武の才に目を留め、推挙して配下とした。しかし、吾彦が寒門の出であることから、人々が承知しないのではないかと考え、一計を巡らせる。諸将が集う場で、密かに狂人を装った人間に刀を抜かせて襲撃させたのである。一同が恐れて逃げ出す中、一人動じることなく机を掲げてこれを防いだ吾彦の勇敢さに、諸将も感服し、計略は見事成功した。陸抗自身は名門の出だが、他人を評価するにあたっては、家柄ではなく実力を重んじたのである。

 晩年、陸抗と晋の羊祜ようこは各々徳に磨きをかけ、晋呉の国境地帯は一見、友好的な関係が築かれていた。呉帝・孫晧そんこうは、内通を疑い、陸抗を詰問した。しかし陸抗は、自分もまたそのようにしなければ、羊祜の徳を顕彰することにしかならないからだ、と答える。敵味方を超えた友情の美談として知られる逸話だが、これは呉の民心をひきつけようとする羊祜に対抗するための策略であった。

 陸抗の評価」参照で、吾彦によると陸抗は、いとこの陸喜りくきに比べて、徳においては劣るが、功を立てることにおいては勝っていた、らしい。

 一族の陸凱りくがいもまた、陸喜陸抗について述べている。死去する直前の上表において「わが族弟(一族のうちの同世代の年少者)の陸喜陸抗といった者たちは、あるいは清廉に身を処しつつ忠勤にはげみ、あるいは天賦の才能を豊かにそなえ、それぞれに社稷の根幹となり……」と、ここだけ取り出してみれば、吾彦の意見と一致するように見える。

 当時の「徳」の概念は必ずしも現代の感覚と一致するものではないが、全体として陸抗は、人情や建前よりも実務的な結果を重んじる、合理的な性格だったのではないだろうか。

揺るがぬ忠誠と志操

 呉の丞相であった父・陸遜りくそんは、功臣でありながら、帝・孫権そんけんに疑われて憤死するという悲劇的な最期を遂げた。にも拘わらず、陸抗の忠誠心はまったく揺らぐことがない。暴君と言われた最後の帝・孫晧の治世下、代々の重臣や皇族からも国を見捨てて晋に降る者が続出する情勢の中においても、なお陸抗はいかにして呉の国を護りぬくかということだけを考え続けていた。耳を貸そうとしない孫晧に対し、決して諦めることなく、その死の間際まで、現実的な対処法を説き続ける。

 陸抗は、「正しく主君に仕える道とは、主君のお気持に逆らってご意見を申し上げることはあっても、主君を欺くことがあってはならず、臣下たるものが執るべき志操とは、わが身の安全は顧みず、王事に殉ずべき」であると孫晧に語る。甘い言葉で主君の機嫌をとるのではなく、たとえ逆鱗に触れようとも、あくまで国のために正しいと信じることを意見する。それこそが、真の忠義であると考えていた。

まとめ

 陸抗は、几帳面で完璧主義。情に流されない冷徹さを備えつつ、道義は重んじる。人を評価するにあたっては家柄などには拘らない、能力重視の合理主義。そしてなによりも権力を怖れず勇敢に正を貫く、忠義の人であった。