歩闡の乱(西陵の戦い) 1 - 概要

総司令官兵力結果
呉軍陸抗3万以上勝利
晋軍歩闡/羊祜不明/8万余敗北

 歩闡ほせん率いる西陵城の反乱軍、それを救援に来た羊祜ようこ率いる晋軍と、反乱の鎮圧にあたった陸抗りくこう率いる呉軍との一連の戦いは、判明している陸抗の記録において唯一の、しかし非常に華々しい戦勝であり、その記述は『三国志』呉書陸抗伝のかなりの割合を占めている。この戦は、経緯が事細かに記されているため、物語を読んでいるようで興味深い。(しかしながら、『三国志演義』では羊祜の回想台詞一言で片付けられてしまうという扱いである。)

 ※三国志ファンの間では「西陵の戦い」とも通称されるが、戦場は西陵だけではなく、『晋書』の記述では「步闡之亂」または「步闡之役」とされるため、ここでは戦役全体の呼称を「歩闡の乱」とする。

主な登場人物

晋軍(西陵城)

  • 歩闡(呉の昭武将軍・西陵
    晋の衛将軍・都督西陵諸軍事)

晋軍(救援軍)

  • 羊祜(車騎将軍・都督荊州諸軍事)
  • 司馬亮(撫軍将軍)
  • 楊肇(折衝将軍・荊州刺史)
  • 徐胤巴東監軍)
  • 王戎

その他、記述が無く不明

呉軍

  • 陸抗(鎮軍大将軍・楽郷都督)
    • 左奕(将軍)
    • 吾彦(将軍)
    • 蔡貢(将軍)
    • 雷譚宜都太守)
    • 朱喬(将軍)晋軍
    • 兪賛(営都督)晋軍
  • 張咸江陵督)
  • 朱琬(鎮西将軍)
  • 留慮(水軍督)
  • 孫遵公安督)

歩闡の乱 進軍経路
※およその位置関係。推測含む。

背景事情

  • ときは呉の鳳皇元年(西晋の泰始八年、西暦272年)。魏が蜀を滅ぼし併呑して後、魏の禅定を受け西晋が建っている時代である。
  • 宜都郡にある西陵は、かつての夷陵陸抗の父である陸遜劉備を大敗させた夷陵の戦いの後、西陵と改名された。
  • 長江北岸に西陵城があり、呉にとって極めて重要な拠点だった。そのため陸抗はかつて(西陵赴任時代に?)西陵の防備を強化していた。
  • 西陵は代々、呉の重鎮・歩氏一族が預かっていた。ときの西陵督・歩闡は、かつての丞相歩騭ほしつの次男である。
  • 陸抗楽郷に本拠地をおき、長江沿いの重要拠点である信陵西陵夷道楽郷公安の軍を総指揮する立場にあった。

戦の経過

 呉・鳳皇元年8月(272年)、呉帝・孫晧そんこうは、西陵督・歩闡ほせんを都に召し還し、繞帳督(宿衛の兵を司る官)に任じようとする。父祖の代より西陵にあった歩闡は、急にその職務を失って都勤務になるという措置を訝り、身の危険を感じた。

 孫晧は排斥したい臣下の罪をでっち上げて誅殺することが常で、地方駐屯の重臣を都に召し返して殺すといったことが実際にあった。しかし、このとき孫晧歩闡を滅ぼす意図があったか否かは不明である。

 歩闡は晋に使者を出し、親族を人質として送り、領地ごと降伏を申し入れる。また、周辺の異民族に贈り物をして反乱を呼びかけ、自身は配下の将士とともに西陵城に籠城した。

 報せを受けた晋帝・司馬炎しばえんは、歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・仮節・交州牧に任じ、宜都公の爵位を与え、人質としてやってきた親族にも官位・爵位を与えて厚遇する。

 西陵ごと降伏したことにより西陵が名目上、晋の領土となり、晋の西陵都督としての権限などを授かった。

 呉帝・孫晧は、西陵を奪回するため、楽郷都督・陸抗に兵三万を率いて西陵に向かわせる歩闡寝返りの報を聞いた陸抗が、自らの判断で将軍の左奕さえき吾彦ごげん蔡貢さいこうらを率いて急行したともされる

 緊急事態に対しては帝の許可を待たずに軍を動かす権限があるのかもしれない。

 西陵に到達した陸抗は、昼夜兼行の工事で陣地を構築させ、城の包囲を進める。この包囲の陣は、赤谿から故市に至る長大なもので、内周では西陵城を包囲して封鎖し、外周ではやがて到達するであろう晋救援軍からの攻撃を防ぐものだった。

 歩闡の籠城した西陵城とは別に、かつての歩騭の城があり、「故市」はそれを指すとも。赤谿は西陵の西北にあった地らしい。

 しかし、強行工事のために兵や民衆は疲弊し、陸抗の方針に対して懐疑的な声が出はじめる。麾下の将らは皆、こちらは三万の軍勢を有しているのだから、速やかに城を攻撃すれば晋の援軍が到着する前に城を陥落させることができるとして、陸抗を諫めた。しかし陸抗は、かつて自ら防備を整えた西陵城が難攻不落であることを熟知していた。包囲の陣地もなく、城を落とせずにいるうちに晋の援軍が到達すれば、呉軍は内外から挟撃され、防ぐことは困難となる。陸抗は、諸将の進言を退け、今は陣地を築くことが重要だと諭す。

 しかし、なおも諸将は城を攻撃したいと考え続けていた。中でも宜都太守・雷譚らいたんの進言は懇切なものであった。

 西陵城は、宜都郡にある。雷譚は他に記載がなく詳細不明の人物だが、彼にとってみれば、自分の治める地で反乱が起きてしまった。

 陸抗は麾下を服従させようと考え、一度だけ城への攻撃を許可する。しかし、全く戦果が上がなかった。こうした苦労の末、包囲陣地はようやく完成した。

 実際に城を攻めたが全く勝てなかったことから、麾下の将らもようやく現状を把握し、陸抗の作戦を受け入れたと思われる。こうなることを承知での荒療治だが、麾下の将との意見対立に苦労していた様子がうかがえる。

 一方、晋帝・司馬炎は、都督荊州諸軍事・羊祜を総司令官として計八万余りの救援軍を呉へ向かわせていた。羊祜は、荊州刺史・楊肇ようちょう率いる一万の軍勢を陸路で西陵へ、また蜀の方面からも巴東監軍・徐胤じょいん率いる水軍を向かわせ、自らは五万の兵を率いて、西陵より下流の呉の拠点・江陵へと進軍。詳細不明だが、司馬炎の叔父にあたる撫軍将軍・司馬亮も軍を率いた

 羊祜の大軍が江陵へ向かったことを知った陸抗麾下の将軍たちは、西陵の包囲をやめ、江陵の救援に向かうべきだと進言する。しかし陸抗はこれを退け、江陵は兵力も充分で守りが堅いこと、また仮に羊祜江陵を陥としたとしても維持は困難であること、対して西陵が晋の拠点となってしまった場合には南岸の異民族にも動揺が起き、呉の危機となることを説く。「たとえ江陵を棄てることになっても、私は西陵の防衛にはせ向かうであろう。ましてや江陵の守りが堅固であるのであれば〔西陵に力を集中すべきことは〕論をまたない。」

 羊祜が自ら最大兵力を率いて江陵に向かった理由は不明だが、江陵に援軍を派遣させて西陵の包囲を弱めようという陽動作戦ともされる。実際、陸抗麾下の将は羊祜の罠にかかりそうになる。江陵の南岸には陸抗の本拠地・楽郷があることから、羊祜江陵を陥とすか通過して長江を渡り、楽郷を攻めようと考えたか、あるいは西陵へ直行するルートが難路のため、楊肇軍だけを先行させ、自分は江陵を攻略してそこから西陵へのルートを確保しようとしたのかもしれない。

 西陵が山に護られた城であるのとは対照的に、江陵は平地にあって道が通じ、進軍しやすい地形であった。このことから陸抗は予め、敵軍の襲撃および自軍からの離反を妨ぐために、江陵督・張咸ちょうかんに命じて堰を築かせ、江陵城に通じる北東の平地を水没させていた。そのため羊祜は、江陵を攻めるにあたり、船で兵糧を輸送しようとしていた。しかし、もしも途中で堰が切られて水が引いてしまえば、計画が頓挫する。そこで羊祜は敢えて、自ら堰を切って歩兵を進軍させるという虚報を流す。

 陸抗伝の記述では、この江陵防衛のためのダムは、この戦に際して陸抗が築かせた仕掛けのようにも読めるが、これは250年に魏軍が攻めてきたときには既に存在していた、沮水・漳水等から水を引いて江陵城の北東の平地を水没させたものであったとされる。しかし、その際に魏軍は竹で臨時の橋を作って渡ることに成功しているのに対し、羊祜が船を使おうと計画していることから、同じものだとしても、陸抗が規模を拡張したのかもしれない。

 だが、この情報を得た陸抗は、羊祜の策による虚報だと看破した。逆に張咸に堰を切るよう命じ、水を退かせて平地に戻してしまう。この際、麾下の将らは困惑して諫めようとしたが、陸抗は聞き入れなかった。羊祜当陽まで進軍したところで、堰が切られたとの情報を得る。船での輸送が不可となったため、改めて陸路で輸送する車を用意しなければならず、大きな労力を費やすことになってしまった。

 また陸抗は、張咸江陵城を死守させる一方、公安督・孫遵そんじゅんに長江南岸を守備させ、羊祜が長江を渡って南に進軍するのを阻止させた。

 一方、晋の巴東監軍・徐胤率いる水軍も、建平に攻め寄せていた。陸抗は水軍都督・留慮りゅうりょ、鎮西将軍・朱琬しゅえん朱治の実子・朱才の子)にこれを迎え撃たせる。

 徐胤の水軍は、蜀の方面(この時代には晋の領土)から長江の流れに乗って進軍してきた。建平は、かつては城を前線として蜀漢との国境にあった郡だが、この時代にはすでにかなり晋に攻略されていたため、呉の水軍は陸抗の指揮下にある信陵の軍勢だろうか。『弁亡論』によればこの呉の水軍は五千(三千とも)人の精鋭兵だった。一方、徐胤軍は、晋救援軍が計八万ということから考えると二万以上もいる。しかし、留慮朱琬の水軍は最後までこれを防ぎきった。

 やがて西陵に、楊肇の軍勢が到達する。陸抗は包囲陣地に拠ってこれに対峙した。しかしここで呉軍に、古参の将軍である兪賛ゆさん朱喬しゅきょうが裏切り、楊肇の軍に投降するという危機が訪れる。

 呉軍の裏切りの原因は不明である。楊肇軍と衝突して負けるような局面があったのかもしれないが、陸抗の方針からすると、呉軍は完成した陣地に籠もって楊肇の撤退を待つと考えたほうが自然。最終的には正しい判断だったとはいえ、陸抗は麾下の進言をことごとく退け続けたことから反感を買い、支持を失うような状況になっていたのかもしれない。

 かねてより陸抗は、充分に訓練されていない異民族の兵の存在を、自軍の弱点と考えていた。敵に投降した兪賛は、これらの事情を熟知している。楊肇軍は、兪賛のもたらす情報によって必ず異民族の兵を狙ってくるであろうと考えた陸抗は、その夜のうちに異民族の兵の守備する箇所を、古参の呉人の精鋭兵とひそかに交替させる。

 翌日、陸抗の目論見どおり、楊肇は元の異民族部隊の拠点を衝いて攻めてくる。陸抗はさらに、他の部隊も動員して楊肇軍を迎え撃ち、大損害を与えることに成功した。

 陸抗は、呉に服従しきっていない異民族の兵の存在や、自軍から古参の将が投降するといった苦境を逆手に取り、見事に楊肇を返り討ちにした。

 晋の救援軍が西陵に到達してから、数ヶ月が経過していた。ついに万策尽きた楊肇は、西陵攻略を断念し、夜闇に紛れて退却を開始する。

 陸抗はこれを追撃しようと考えたが、背後には西陵城の歩闡軍が隙を狙っているため、大きな兵力を割くことはできない。そこで、兵を揃えて鼓を打ち鳴らし、あたかも追撃に出るかのような様子を見せつける。これを恐れた楊肇軍の兵は、装備を脱ぎ捨て、我先に逃亡しはじめた。改めて陸抗は、少数の兵のみで実際に追撃をかけて大いに打ち破り、楊肇は兵の大半を失うこととなった。

 鼓は出撃の合図として使われる。撤退の合図は鉦。

 楊肇軍の大敗によって勝機を失った晋の救援軍は、いよいよ全面的に撤退をはじめる。留慮朱琬の水軍も勝利を収め、呉軍の捕虜になった者は各所あわせて数万にもなった。陸抗は初めて城に攻撃をかけると、ついに西陵を陥落させ、歩闡らを捕縛した。

その後

 陸抗は、歩闡および共に謀反を企てた数十名の上将を一族処刑とした。しかし、それ以外の者については赦免を願い出、数万人の将兵が助命されることになった

 当時の法では、重大な罪に対しては一族処刑となるようである。しかし、赤子まで皆殺しにしたとして陸抗を非難する声もあったということから、これらの判断は陸抗が下したものらしい。使持節・持節といった権限を持つ官吏は、配下を死刑にすることができた。陸抗西陵を含めた一帯の軍の総司令官であったことから、軍規によって歩闡を処刑したのかもしれない。

 その一方で陸抗は、下級の者たちは助命した。陸抗の度量の広さを示すものとして書かれるが、平素から荊州防衛の人員不足に頭を悩ませている陸抗としては、西陵の将兵を多数滅ぼしてしまうわけにはいかないという、現実的な意図もあったのかもしれない。

 こうして呉における歩闡の一族は絶え、降伏の際の人質として晋に送られていた甥(兄の遺児)の歩璿ほせんが歩家を継いだ。

 当時、都から遠くに赴任する将軍は、謀反防止のため、都に妻子を住まわせることになっていた。歩闡が送った人質が自らの子ではなかったのは、子がいなかったのかもしれないが、子は都に住んでいたという可能性もあるのかも。

 陸抗は、戦によって損害を受けた西陵城を補修した後、本拠地である楽郷に帰還した。

 呉帝・孫晧はこの勝利を知ると、天下統一の野心を燃やしはじめる。「庚子の歳に青い蓋が洛陽に入る」という占いの結果が出たため、国内を省みずに晋に攻め込む機会を窺っていた。しかしこの結果は庚子の年に呉が滅ぼされ、降伏した孫晧洛陽に送られることを表すものとなってしまった。

 陸抗の勝利は、あくまで呉滅亡に直結する危機を救ったに過ぎない。現実的には、この情勢から呉が天下統一できる望みがあるとはとても思えないが、孫晧にとってはそうではなかった。

 陸抗は、この功績に驕ることなく謙虚であったため、将士も心から仕えるようになったという。この翌年、大司馬・荊州牧に昇進するが、やがて病のため没する。乱からわずか二年後のことだった。

 一方、晋では、大軍を率いて行ったにも拘わらず敗戦した羊祜らを免官するようにとの訴えが発生する。羊祜は平南将軍に降格(二品官三品官)されるも、引き続き荊州軍の総司令官であり続けたが、楊肇は免官されて故郷の地に帰り、こちらも二年の後に病没した。

 後に西晋の司徒となる、「竹林の七賢」の一人として知られる王戎おうじゅうは、この戦の折、何らかの事情で、軍法により羊祜に処断されかけた。そのため羊祜を恨んでいたという。

 西晋が呉を滅ぼし天下統一を果たすのは、この戦から八年ほど先のことである。

公開:2011.07.18 更新:2014.06.10

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