Tags: 三国志の戦

  • 姜維の北伐・255年(魏・正元二年、蜀・延熙十八年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維数万勝利→敗北魏軍陳泰不明敗北→勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍陳泰(ちんたい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)鄧艾(とうがい)(行安西将軍)胡奮(こふん)王秘(おうひつ)魏軍…
  • 姜維の北伐・254年(魏・嘉平六年、蜀・延熙十七年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維不明勝利魏軍?不明敗北※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍 → 蜀軍李簡(りかん)(狄道県長)魏軍(襄武)徐質(じょしつ)(討蜀護軍?)魏軍(長安?)司馬昭(しばしょう)(安東将軍、…
  • 姜維の北伐・253年(魏・嘉平五年、蜀・延熙十六年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維数万敗北魏軍郭淮不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍郭淮(かくわい)(車騎将軍、都督雍・涼諸軍事)陳泰(ちんたい)(奮威将軍、雍州刺史)魏軍(長安)司馬昭(しばしょう)(安東…
  • 姜維の北伐・250年(魏・嘉平二年、蜀・延熙十三年)
  • 司令官兵力結果蜀軍姜維不明敗北魏軍郭淮(鄧艾)不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍郭淮(かくわい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)鄧艾(とうがい)(南安太守)蜀軍姜維(きょうい)(衛将軍、録尚書事、涼…
  • 姜維の北伐・249年(魏・嘉平元年、蜀・延熙十二年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維1万以下+羌族の兵敗北魏軍郭淮不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍(総司令官)郭淮(かくわい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)魏軍(麴城包囲軍)陳泰(ちんたい)(奮威将軍、雍州…
  • 高貴郷公の変 - 曹髦の決意と「司馬昭の心」
  • 魏の四代目皇帝となった元の高貴郷公・曹髦(そうぼう)は、初代皇帝曹丕(そうひ)の孫で、曹霖(そうりん)の子である。前皇帝曹芳(そうほう)が時の権力者、司馬師(しばし)(司馬懿(しばい)の子)によって廃位された後、新たな帝に立てられた。正元元年(254年)の即位当時には、まだ十四歳の若さであった。司馬…
  • 将に五危あり - 諸葛誕の乱の勝敗
  • 『孫子』九変篇の最後にこんな言葉がある。故に将に五危あり。必死は殺され、必生は虜(とりこ)にされ、忿速(ふんそく)は侮(あなど)られ、廉潔(れんけつ)は辱(はずか)しめられ、愛民は煩(わずらわ)さる。凡そ此の五つの者は将の過(あやま)ちなり、用兵の災(わざわい)なり。軍を覆(くつがえ)し将を殺すは、…
  • 諸葛誕の乱
  • 総司令官兵力結果魏軍司馬昭26万以上勝利呉軍諸葛誕・孫綝22〜23万以上敗北諸葛誕の乱(呉軍:諸葛誕率いる反乱軍&孫綝率いる救援軍 vs 魏軍:司馬昭率いる討伐軍の戦い)の時系列と位置関係のまとめ。『三国志』と『晋書』では日付の不一致があります。小文字部分は推測や感想含む。登場人物呉軍(寿春城)諸葛…
  • 歩闡の乱(西陵の戦い) 1 - 概要
  • 総司令官兵力結果呉軍陸抗3万以上勝利晋軍歩闡/羊祜不明/8万余敗北歩闡(ほせん)率いる西陵城の反乱軍、それを救援に来た羊祜(ようこ)率いる晋軍と、反乱の鎮圧にあたった陸抗(りくこう)率いる呉軍との一連の戦いは、判明している陸抗の記録において唯一の、しかし非常に華々しい戦勝であり、その記述は『三国志』…
  • 永安の戦い 2 - 敗戦はやはり陸抗のせいかもしれない
  • 蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)で陸抗が羅憲に敗北したと言われていることについて、個人的には、敗戦は総司令官がむやみと援軍を送ったせいで、そして総司令官は少なくとも陸抗ではない、という結論に一度は達してみた。が。蜀漢滅亡の報と『建康実録』による微妙な異説蜀が滅亡したという報せを呉の都にもたらし…
  • 歩闡の乱 2 - 兵力と羊祜の作戦
  • 西陵の戦いの兵力歩闡の乱における西陵の戦いにて、陸抗は晋軍に挟撃されながらも寡兵で打ち負かしたというイメージがあるが、具体的には何人対何人だったのか。敗戦後の晋で羊祜が訴えられた上奏によって、この戦いにおける兵力を知ることができる。それによれば、晋救援軍は全体で八万、陸抗の軍は三万弱。及還鎭,吳西陵…
  • 歩闡の乱 3 - 西陵の戦いと二重封鎖陣地
  • 歩闡の乱における西陵の攻城戦では、陸抗は配下の将軍らの反対を押し切って、「陣地を赤谿から故市まで続げて、内側では歩闡を封じこめ、外に対しては敵の来襲を防ぎ止めようとした。」という。シミュレーションゲーム「三國志」の武将プロフィールにも、「魏軍と反乱軍に挟撃されながらも、二重の城壁を築き勝利した」など…
  • 永安の戦い 1 - 永安の敗戦は陸抗のせいではない
  • 陸抗の敗戦経歴として知られる、対羅憲の攻城戦、永安の戦い(264年2〜7月)について。なお「永安の戦い」という名前はここでの仮称。陸抗伝には、この戦に関する記述は皆無である。結果として敗戦であろうとも、何らか部分的な活躍があれば記されることもある中(陸抗の例でいえば諸葛誕の乱の際の活躍)、完全スルー…
  • 2007.02.23 西陵の戦いにて王戎は何をしたのか
  • 竹林の七賢の一人、王戎。『世説新語』によれば、「初,羊祜以軍法欲斬王戎,夷甫又忿祜言其必敗,不相貴重…」云々、羊祜は軍法によって王戎を斬ろうとしたことがあり、また夷甫(王衍)が必ず失敗するであろうと語っていたために、王衍は羊祜を重んじなかったという。羊祜伝によれば、「歩闡之役,祜以軍法將斬王戎,故戎…
  • 永安の戦い 3 - 永安侵略の理由:呉軍は火事場泥棒ではない
  • この蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)について、三国志ファンの間では呉を蜀の滅亡に乗じた火事場泥棒かのように評する風潮があり、「だから呉が嫌いだ」という主張を少なからず見かける。その最大の原因は、おそらく羅憲の発言によるイメージだろう。「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら…