歩闡の乱(西陵の戦い) 2 - 兵力と羊祜の作戦

西陵の戦いの兵力

 歩闡の乱における西陵の戦いにて、陸抗は晋軍に挟撃されながらも寡兵で打ち負かしたというイメージがあるが、具体的には何人対何人だったのか。

 敗戦後の晋で羊祜が訴えられた上奏によって、この戦いにおける兵力を知ることができる。それによれば、晋救援軍は全体で八万、陸抗の軍は三万弱。

及還鎭,吳西陵步闡舉城來降。陸抗攻之甚急,詔率兵五萬出江陵,遣荆州刺史楊肇,不克,竟爲所擒。有司奏:「所統八萬餘人,賊衆不過三萬。頓兵江陵,使賊備得設。乃遣楊肇偏軍入險,兵少糧懸,軍人挫衄。背違詔命,無大臣節。可免官,以侯就第。」竟坐貶爲平南將軍,而免楊肇爲庶人。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年 羊祜傳 P1016

 『晋書』羊祜伝より。羊祜は八万余の兵を率いていましたが、うち五万を江陵に率いていき、三万にも満たない賊軍に敗けてしまいました。臣下としてなっていません、クビにすべきです! という状況。

 史書に記される軍の兵数は誇張されていることもあるようだが、これは訴えという状況柄か、リアリティを感じる数字である。

巴東監軍徐胤率水軍詣建平荆州刺史楊肇西陵。抗令張咸固守其城;公安孫遵巡南岸禦;水軍督留慮、鎭西將軍朱琬;身率三軍,憑圍對

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 陸抗傳 P1356

 『三国志』にも、陸抗は三軍を率いて楊肇を迎え撃ったという記述がある。一軍は一万人によって構成されるらしい。また陸機の『弁亡論』にもこの時の記述として「陸公以偏師三萬……」とあり、西陵を包囲した呉軍は実際に三万程度であった。

 一方の楊肇は、「偏軍」を率いて西陵に赴いた。『三国志』の例を見ると「偏軍」は「一軍」と訳されているため、こちらは一万人程度と思われる。晋救援軍八万余の内訳は、羊祜軍が五万、楊肇軍が一万、徐胤らの水軍が残りの二万余ということになる。

 しかし、呉軍は西陵を包囲した陸抗の軍以外にも、江陵軍・公安軍や水軍がいる。この上奏はまるで羊祜が八万以上の兵を率いながら三万未満の敵に負けたかのような、羊祜に不利な表現になっているともいえる。

 晋軍も歩闡の軍の数を合わせると、全八万というわけではない。歩闡軍の具体数は不明だが、敗戦後には上将のみが処刑されて残る「数万」人の将兵が助命されたということで、陸抗が直接率いた三万が楽郷の軍勢だったとすると、元来の西陵軍も同数くらいなのかもしれない。

 歩闡軍が三万弱と仮定すれば、西陵における呉軍は合計では敵軍を下回る規模だが、圧倒的な兵力差ではない。さらに、この八年ほどの後の呉滅亡時には呉全国の兵士の数は二十三万であったということから、歩闡の軍はさらに少ない可能性もなきにしもあらず。

晉陽秋曰:收其圖籍,領州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬,米穀二百八十萬斛,舟船五千餘艘,後宮五千餘人。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 孫晧傳註『晉陽秋』 P1177

羊祜の作戦

 なぜ羊祜は、主戦場である西陵には楊肇率いる少数の兵を赴かせたのみで、自らは江陵に五万の兵を率いていったのか。全軍で西陵を攻めれば、力押しで勝てたのではないか。この決断は一般には、陸抗西陵の包囲を緩めさせるための羊祜の策略だったとされているようだ。現に陸抗麾下の呉将らはこぞって、江陵を救援しなければ! と焦りはじめる。

 しかし陸抗は、羊祜の策にはかからなかった。たとえ羊祜江陵を陥としても維持は難しく、西陵で勝つことこそが最終的な戦勝に繋がる、と説得する。果たして長期戦に持ち込まれた楊肇軍は補給が続かずに敗退する羽目になった。

吳夷凶侈、僞師畏逼。將乘讐釁、席卷南極。繼褰糧盡、神謀不忒。君子之過、引曲推直。

 呉の孫晧は凶悪横暴だったので、その将の歩闡は孫晧を恐れて晋に投降した。晋は敵の間隙に乗じて南の果ての呉を手に入れようとしたが、補給が続かず糧食が尽き、敗れてしまった。しかし、これは楊侯のすぐれた計略が誤っていたわけではない。君子が過ちを犯した時は、理に合わないことも甘受して罪をかぶるものだ。

潘岳「楊荊州誄」より 竹田晃『新釈漢文大系 第93巻 文選(文章篇)下』明治書院、2001年、P436〜437

 晋の文士・潘岳による楊肇の誄辞より。出典の性質柄、楊肇に都合良く書いてあるとはいえ、補給が困難でついに兵糧が尽きて撤退せざるを得なくなった、というところは同じ。結局、楊肇陸抗が封鎖陣地を築いて仕掛けた持久戦に敗けてしまった。「神謀は忒はず」かどうかはともかく、総司令官でもない楊肇には如何ともし難い部分もあっただろう。

 しかし、では総司令官たる羊祜の判断に問題があったかというと、それほどとも思われない。

 西陵は「堅固な地勢を占めて」いた。晋軍がどのようなルートで進軍したのかはよくわからないが、地図で見た感じ、山。呉の領土であった間には攻めにくく、寝返られてもそれはそれで襄陽方面から救援に来るのは簡単ではなかった。陽動の目的もあったのかもしれないが、まず羊祜はそれ以上西陵に兵力を割くことはできないと判断したのではないか。そうなると、元より西陵は呉のテリトリーであり、陸抗はその事実を見抜けただろう。


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 羊祜が大軍を率いて攻めようとした江陵の南岸には、陸抗の本拠地・楽郷がある。しかし楽郷軍は西陵包囲のため遠征しているわけなので、ここは手薄である。西陵の包囲を解かずとも、本拠地を攻略して補給などを断ち、遠征軍に打撃を与えることができそうである。

 陸抗江陵の防備を固めさせる一方、楽郷の南東、公安の軍を動員してこれに対処した。しかし、もしも羊祜長江を渡ることに成功し、楽郷に攻め込まれていたなら、呉軍は敗けていたのかもしれない。

陸抗の判断

 西陵の戦いそのものに、圧倒的な兵力差があったとはいえない。しかし陸抗は、西陵城の歩闡軍および楊肇軍と直接対峙しつつ、同時に呉軍総司令官として、西の建平に攻め寄せる徐胤の水軍、そして最大軍勢で江陵に攻め寄せる羊祜、すべてに気を配り、各拠点に的確な指示を送らなければならない。(ちなみに、呉軍は長江沿いの峰に烽火台を設置していた。烽火のみでどの程度詳しい情報が伝えられるのかはともかく、敵襲の報などはかなりの速度で遠方まで伝達することができたらしい。)西陵の局地的な状況も、楊肇軍に投降する将などが発生したということから、決して呉軍に有利な展開ではなかったようである。麾下の将軍の全面的な信頼を得ているとは言い難い状況の中、陸抗は強い意志をもって彼らを説き伏せ、自らの判断を実現させなければならなかった。

 どの戦の結果もそうであるように、運による一面はある。だがやはり呉軍の危機を乗り越えての勝利は、陸抗の優れた判断力と決断力の結果といえるだろう。

公開:2007.04.17 更新:2011.07.18