Tags: 西晋

  • 司馬昭の息子と娘
  • 司馬昭には、晋の武帝となった司馬炎、その弟の司馬攸をはじめ、全九人の息子および少なくとも一人の娘がいた。文帝九男,文明王皇后生武帝、齊獻王攸、城陽哀王兆、遼東悼惠王定國、廣漢殤王廣德,其樂安平王鑒、燕王機、皇子永祚、樂平王延祚不知母氏。燕王機繼淸惠亭侯,別有傳。永祚早亡,無傳。文帝(司…
  • 2014.03.08 (正)羊陸之交 (誤)陸羊之交、という話
  • 羊祜と陸抗の故事からできた「羊陸之交」という成語があるらしい。というのは、陸抗に興味を持ってから少し経った2007年頃に、中国語圏のサイトなどで知ったことだった。(例:教育部重編國語辭典修訂本 > 羊陸之交)『三国志』『晋書』他には「羊陸之交」という表現はないが、特に具体的な出典・用例を確認し…
  • 諸葛靚の兄弟姉妹
  • 目次諸葛靚の兄諸葛靚の姉・諸葛太妃(司馬伷夫人)諸葛靚の姉・王広夫人諸葛靚の兄諸葛誕(しょかつたん)の乱の際の記述等によれば、諸葛靚(しょかつせい)は諸葛誕の末子である。遣長史吳綱將小子靚至吳請救。長史の呉綱に末子の諸葛靚をつれて呉に行き、救援を要請するよう命じた。晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空…
  • 吾彦の転勤マップ
  • 呉に生まれ敦煌からベトナムまで、吾士則くん驚きの転勤人生昇進するたびに、嫌がらせかと思うほど辺境の地に飛ばされる吾彦(ごげん)。しかしそんな環境にもめげず、行く先々で反乱を鎮圧しては善政を敷いていくのでした。最後は官職が「大長秋」になったとあるため西晋の都である洛陽にしてみたが、定かではない。時期は…
  • 建平太守・吾彦の駐屯地の謎
  • 吾彦(ごげん)は呉の最末期、西の国境である建平郡の太守となった。このころ、晋の王濬(おうしゅん)は、やがて晋が天下統一を果たすことになる伐呉の役(279〜280年)に備え、蜀の地で船の建造にあたっていた。その木屑が、長江の流れに乗って呉の方まで辿り着いた。このため吾彦は晋がいよいよ水軍で攻めてこよう…
  • 歩闡の乱(西陵の戦い) 1 - 概要
  • 総司令官兵力結果呉軍陸抗3万以上勝利晋軍歩闡/羊祜不明/8万余敗北歩闡(ほせん)率いる西陵城の反乱軍、それを救援に来た羊祜(ようこ)率いる晋軍と、反乱の鎮圧にあたった陸抗(りくこう)率いる呉軍との一連の戦いは、判明している陸抗の記録において唯一の、しかし非常に華々しい戦勝であり、その記述は『三国志』…
  • 歩闡の乱 2 - 兵力と羊祜の作戦
  • 西陵の戦いの兵力歩闡の乱における西陵の戦いにて、陸抗は晋軍に挟撃されながらも寡兵で打ち負かしたというイメージがあるが、具体的には何人対何人だったのか。敗戦後の晋で羊祜が訴えられた上奏によって、この戦いにおける兵力を知ることができる。それによれば、晋救援軍は全体で八万、陸抗の軍は三万弱。及還鎭,吳西陵…
  • 楊肇 - 陸抗に敗れた非運の忠臣
  • 西晋の武将、楊肇(ようちょう)。残念ながら『晋書』に彼の伝はないが、陸抗ファン的には重要人物であり、歩闡の乱(西陵の戦い)において一番気の毒なことになった人でもある。が、2007年春現在Wikipediaにも記事が作られていないというマイナーぶりゆえに、敢えて細かい経歴まで書いておくことにする。楊肇…
  • 陸抗と羊祜 - 「羊陸の交わり」の真実
  • 羊陸の交わり西晋の羊祜(ようこ)と呉の陸抗(りくこう)とは、敵ながらも互いに信義を持って相対した。歩闡(ほせん)の乱(西陵の戦い)を巡っては晋呉両軍の総司令官として戦った一方で、酒や薬を贈りあっては、毒かと疑うこともなくこれを飲んだ。彼らの結んだ信義は「羊陸之交(羊陸の交わり)」という故事成語にもな…
  • 歩闡の乱 3 - 西陵の戦いと二重封鎖陣地
  • 歩闡の乱における西陵の攻城戦では、陸抗は配下の将軍らの反対を押し切って、「陣地を赤谿から故市まで続げて、内側では歩闡を封じこめ、外に対しては敵の来襲を防ぎ止めようとした。」という。シミュレーションゲーム「三國志」の武将プロフィールにも、「魏軍と反乱軍に挟撃されながらも、二重の城壁を築き勝利した」など…
  • 羊祜 - 天真爛漫な徳の人
  • 陸抗(りくこう)とも縁の深い西晋の武将、羊祜(ようこ)は、純粋で高潔で正義感が強く無欲な人格者であった。反面、軽々しくお忍びで出かけようとしては配下の徐胤(じょいん)に咎めらたり、大自然の風景の悠久さに対して人の生の儚さを思うなど、天真爛漫で繊細なところも。(徐胤は、後の歩闡の乱の際に巴東監軍として…
  • 諸葛靚と父と司馬炎 - 友情と孝道の狭間で
  • 諸葛靚と父・諸葛誕諸葛靚(しょかつせい)は、諸葛誕(しょかつたん)の末子である。諸葛誕は、呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮らと同じ琅邪の諸葛氏の一族で、魏に仕えていた。だが魏王朝の末期、司馬氏の専横に対して反旗を翻すことになる。諸葛誕は呉に帰順して救援を要請するべく、子の諸葛靚を人質として呉に送った。だが、一…
  • 2007.02.23 西陵の戦いにて王戎は何をしたのか
  • 竹林の七賢の一人、王戎。『世説新語』によれば、「初,羊祜以軍法欲斬王戎,夷甫又忿祜言其必敗,不相貴重…」云々、羊祜は軍法によって王戎を斬ろうとしたことがあり、また夷甫(王衍)が必ず失敗するであろうと語っていたために、王衍は羊祜を重んじなかったという。羊祜伝によれば、「歩闡之役,祜以軍法將斬王戎,故戎…
  • 魏晋の美男子はどこまでも色白だった
  • 『世説新語』の容止編を読んでいると、どうやら魏晋において、色白であることは美形男性の条件として重要だったことがわかる。何晏の場合何平叔(何晏)は姿うるわしく、顔はきわめて色が白かった。魏の明帝(曹叡)は彼が白粉をつけているのではないかと疑い、真夏の日に、熱い湯䴵を食べさせた。何晏は食べおわると大汗を…
  • 諸葛靚の人柄 - 剛毅なリアリスト
  • 孫晧(そんこう)伝の注に引く干宝『晋紀』によれば、晋呉の決戦の折、呉の丞相・張悌(ちょうてい)率いる軍勢に、敵の張喬の軍勢が降伏してきた。諸葛靚(しょかつせい)は、降伏が見せかけであることを見抜き、受け容れずに全員殺して味方の士気を高めようと進言。しかし張悌はこの進言を却下する。張悌はいった、「強敵…
  • 諸葛靚の字
  • 諸葛靚(しょかつせい)の字(あざな)は「仲思」という。「仲」が付くことからして、彼は諸葛誕(しょかつたん)の次男なのだろう。諸葛靚の字に関しては、『世説新語』言語篇にこんな逸話がある。諸葛靚在吳、於朝堂大會。孫皓問、卿字仲思、爲何所思。對曰、在家思孝、事君思忠、朋友思信。如斯而已。通釈…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と司馬伷
  • 呉の滅亡に際して、帝・孫晧(そんこう)を直接降伏させることになった人物は、司馬懿の息子である琅邪王の司馬伷(しばちゅう)だったが、この司馬伷は、諸葛靚(しょかつせい)の姉の夫でもあった。平吳之役,率衆數萬出涂中,孫晧奉箋送璽綬,詣伷請降。詔曰:「琅邪王伷督率所統,連據涂中,使賊不得相救。又使琅邪相劉…
  • 晋呉決戦にて・諸葛靚と張悌
  • 三国志最後の決戦といえる、晋による伐呉の役に際し、ときの呉の大司馬・副軍師であった諸葛靚(しょかつせい)は、丞相・軍師であった張悌(ちょうてい)の指揮下で出陣するが、結果、呉軍は大敗した。(詳細は「張悌 - 忠義のセンチメンタリスト」参照)孫晧(そんこう)伝の注に引く習鑿歯(しゅうさくし)『襄陽記』…
  • 呉最後の大司馬・副軍師
  • 諸葛靚と晋と呉諸葛靚(しょかつせい)の生没年は不明だが、晋の武帝司馬炎(しばえん)の幼なじみというところから、彼と同年代と推測される。仮に同い年とした場合、諸葛誕(しょかつたん)の乱が起きたころには二十二歳。当時の初出仕の目安は二十歳くらいだが、特に魏時代の官名の記述はないことから、諸葛靚は魏では官…