歩闡の乱 3 - 西陵の戦いと二重封鎖陣地

 歩闡の乱における西陵の攻城戦では、陸抗は配下の将軍らの反対を押し切って、「陣地を赤谿から故市まで続げて、内側では歩闡を封じこめ、外に対しては敵の来襲を防ぎ止めようとした。」という。シミュレーションゲーム「三國志」の武将プロフィールにも、「魏軍と反乱軍に挟撃されながらも、二重の城壁を築き勝利した」などと書かれており(本当は魏軍ではなく晋軍だが)、これは西陵の戦いにおける重要な点らしい。

 この、二重の城壁を持つ陣地とは何なのか。

 そもそも、中国は広大なため、大軍で遠征し、非常な長期に亘ってにらみ合いつつ戦を展開するのが常のようだ。野戦においても、場所を定めたら、簡易の砦のような大がかりな陣営を建設し、そこを拠点として戦を展開する。むしろ、こうした陣地に籠もることにより、直接衝突せずに相手を撤退に追い込むのが最良である。三国時代では、司馬懿諸葛亮の戦いが有名だと思われる。司馬懿は堅固な陣地に拠っていかなる挑発にも応じず、戦わないことによって勝つ、という戦法で勝利した。

 一方、西陵の戦いは攻城戦であり、敵は堅固な城(城郭都市)に籠城している。この戦において陸抗が築いた陣地は、二重封鎖陣地とも呼ばれるらしい。西陵にやってきた陸抗は、城を攻撃することはせず、封鎖を徹底することから始めた。城を取り囲むように防塁や塹壕などを築いて、城と外部との連絡や輸送を絶ち、また、城からの直接攻撃をも防ぐ。その外周には、やがて到達するであろう晋の救援軍からの攻撃を防ぐ目的で、もう一巡の防塁などを築く。こうして陸抗は「内側では歩闡を封じこめ、外に対しては敵の来襲を防ぎ止め」ようとした。

 こうした二重封鎖陣地について調べてみると、古代ローマ・ガリア戦争決戦となったアレシアの戦いにおいて、ユリウス・カエサルジュリアス・シーザー)がこれを用いて勝利したのが有名らしい。このアレシアの戦いについては詳しい情報や図解などが多数あるため(日本未公開のようだが、映画にもなっている)、時代や国の違いはあるが、陸抗の築いた陣地がどのようなものだったか、イメージする手がかりになるかもしれない。

 しかし、この陣地の建設には大変な時間と労力がかかる。晋救援軍が到達するまでに急いで完成させなければならず、陸抗はこの工事を昼夜休みなくせき立てて行わせたため、麾下の将軍たちには不満が生じてきた。将軍たちは、工事で兵士を疲弊させるより、救援軍が到達する前に城を攻撃して陥とすべきだ、とこぞって陸抗を諫めはじめる。

 しかし陸抗は、西陵城が堅固な地勢にあり、蓄えも豊富であること、さらにはかつて自分自身が配備したために防御のための設備が整っており、救援軍の到達までに陥とすことは不可能であるとよく理解していた。頑なに麾下の将軍たちを諭し、苦労しながらも陣地は完成する。麾下の理解を得られないほど、彼の策略は常識を超越したものだった!……と、いうわけではなく、客観的に見て陸抗の指示が無理を強いるものであったのかもしれないが、手間を掛けても冷静に完璧な備えを怠らない、陸抗らしい作戦であった。

 追記:かつて諸葛誕の乱の鎮圧に際して、司馬昭率いる魏軍が同様の二重封鎖陣地を築き、城を包囲するとともに呉の救援軍の到達を阻もうとした。しかしこのときは陣地が完成する前に救援軍が到達し、城に入られてしまった。

 なお、カエサル軍はプロの工事専門部隊を有しており、内外あわせて六週間かけて封鎖陣地を完成させたらしい。呉軍にこうした高度な専門部隊があるのかどうかも疑わしく、意見も対立する中、よくぞ敵が攻めてくるまでに完成できたものである。しかし結果としてこの二重封鎖陣地は功を奏し、持久戦でついに敵救援軍を撤退に追い込んだ陸抗は、西陵城を陥落させ奪回、見事勝利を収めることとなった。

公開:2007.03.17 更新:2011.12.05