諸葛誕の乱

総司令官兵力結果
魏軍司馬昭26万以上勝利
呉軍諸葛誕・孫綝22〜23万以上敗北

 諸葛誕の乱(呉軍:諸葛誕率いる反乱軍&孫綝率いる救援軍 vs 魏軍:司馬昭率いる討伐軍の戦い)の時系列と位置関係のまとめ。『三国志』と『晋書』では日付の不一致があります。小文字部分は推測や感想含む。

登場人物

呉軍(寿春城)

  • 諸葛誕
    (魏の征東大将軍・都督揚州諸軍事
    呉の大司徒・驃騎将軍・左都護)
  • 蒋班(将軍)魏軍
  • 焦彝(将軍)魏軍

諸葛誕の使者・人質

  • 朱成(将軍)
  • 諸葛靚
  • 呉綱(征東大将軍長史)

呉軍(救援軍1)

  • 文欽(征北大将軍)
  • 唐咨(左将軍)
  • 王祚(将軍)
  • 全端(将軍)魏軍
  • 全懌(将軍)魏軍
  • 全静魏軍
  • 全翩魏軍
  • 全緝魏軍
  • 文鴦魏軍
  • 文虎魏軍
  • 于詮(将軍)
  • 徐紹(南陵督)
  • 孫彧

呉軍(救援軍2)

  • 孫綝(大将軍)
  • 朱異(鎮南将軍・大都督)
  • 丁奉(虎威将軍?)
  • 黎斐(将軍)
  • 任度(将軍)
  • 張震(将軍)
  • 陸抗(奮威将軍・柴桑督)
  • 陸凱(偏将軍・武昌右部督) *注1

呉軍(江陵軍)

  • 施績(驃騎将軍)
  • 全熙

呉軍(夏口)

  • 孫壱(鎮軍将軍・夏口督)魏軍

呉・その他

  • 孫亮(呉帝)
  • 孫恩(武衛将軍)
  • 全禕魏軍
  • 全儀魏軍

魏軍(寿春城)

  • 楽綝(揚州刺史)
  • 龐会(平寇将軍)
  • 路蕃(偏将軍・騎督)
  • 秦絜(征東大将軍部曲督)
  • 宣隆(征東大将軍主簿)

魏軍(征伐軍本隊など)

  • 曹髦(魏帝)
  • 郭皇后(皇太后)
  • 司馬昭
    (大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事・大都督)
  • 胡奮(大将軍司馬)
  • 賈充(大将軍右長史)

魏軍(先鋒・包囲軍)

  • 王基(鎮東将軍・都督揚豫諸軍事) *注2
  • 陳騫(尚書・安東将軍) *注3
  • 魯芝(揚武将軍・荊州刺史)
  • 李広(将軍)
  • 常時(泰山太守) *注4

魏軍(遊軍)

  • 石苞(奮武将軍・監青州諸軍事)
  • 州泰(兗州刺史)
  • 胡質(徐州刺史)
  • 胡烈(泰山太守)

魏軍(行台の文官)

  • 陳泰(尚書左僕射)
  • 鍾毓(尚書)
  • 何楨(廷尉) *注5
  • 裴秀(散騎常侍)
  • 鍾会(給事黄門侍郎)

魏軍(夾石)

  • 王昶(驃騎将軍・都督荊豫諸軍事)

魏軍(詳細不明)

  • 司馬亮(東中郎将)

*注1 詳細不明だが、武昌の軍勢であることから朱異の配下?

*注2 正確には、鎮南将軍・豫州刺史 兼 鎮東将軍・都督揚豫諸軍事?

*注3 本官は尚書だが、出征に伴い安東将軍を代行した。

*注4 三国志では「常旹」。常林の子。

*注5 「楨」は「禎」とされている場合もある。

背景事情

 このころ魏では帝が既に実権を失い、司馬師の後を継いだ弟の司馬昭が政権を掌握していた。毌丘倹など司馬氏に反旗を翻した者が敗れていく中、誅殺された夏侯玄鄧颺らと親密だった諸葛誕は不安を抱いていた。そこで諸葛誕は、施しをして民心を惹きつけ、また揚州の遊侠の徒を手懐けて配下とし、有事に備えていた。そのやり方は過度で、死刑になるべき者も助けてやるほどだったという

 一方、呉でも宗室である孫峻が幼帝に代わって専横を極めていた。孫峻の急死に伴って後を継いだ従弟の孫綝と、これに反対して阻止しようとした者たちとの間で内乱が起きるも、孫綝側は次々と政敵の排除に成功していた。

位置関係

諸葛誕の乱 地図

戦の経緯

甘露元年(256年)冬

 魏の征東大将軍・都督揚州諸軍事(揚州軍の総司令官)であった諸葛誕は、寿春で呉の侵略に備えていた。中央では諸葛誕の手勢のみで対応できると判断したが、諸葛誕はさらに10万の軍勢を要請し、淮水に臨んで城を築いて防衛したいと願い出る

 司馬昭側も、諸葛誕のこうした挙動を警戒していた。

 慰労と称して寿春へ赴いた司馬昭の長史の賈充は、世論が司馬氏への禅譲を願っていることをほのめかす。諸葛誕は怒って「あなたは賈豫州(賈逵)の子ではないのか。代々魏のご恩をお受けしながら、どうして国家を裏切り、魏朝を他人に差し出そうとするのだ。わしが平気で聞き流せることではない。もし洛中で事変が起れば、わしは当然命を投げ出すつもりだ。」と発言。司馬氏への叛意を確信した賈充は、諸葛誕を昇進にかこつけて中央へ召し還すことを進言する。

甘露二年(257年)4月

 4月24日(諸葛誕伝では5月)、諸葛誕は司空(三公の一)に任命される。しかし、正式の使者が送られない、兵は揚州刺史の楽綝に引き渡すように要請される、また本来の序列では諸葛誕より先に王昶が昇進するはずである、など不審な点が多く、危険を察知した諸葛誕は、挙兵の決意を固める

 このころ鍾会は母の喪に服すため官を退いていたが、諸葛誕が召喚命令に従わないだろうと判断し、司馬昭の元に駆けつける。しかし、既に事務手続きが終わっていたため、辞令は変更されなかった

 そもそも、諸葛誕が従わないことも想定内だった。賈充は、諸葛誕が従わずに反乱を起こしたとしても、今召喚せずにおいて、後々に事変が起こるより被害が少なくて済む、という趣旨の発言をしている。なお鍾会は喪中にもかかわらずそのまま遠征に同行、得意の策謀で貢献することになる。

甘露二年(257年)5月

 5月5日(『晋書』文帝紀では1日)、諸葛誕は兵を連れて揚州寿春城?)へ赴く。反乱を察知した揚州刺史の楽綝は州門を閉じさせようとしたが、諸葛誕はそのまま突入し、逃げる楽綝を討った

 司馬昭が、諸葛誕に中央召喚にともない兵を楽綝に引き渡すように要請していたということからも、元より楽綝は司馬氏に与していたようである。こうして諸葛誕は、揚州の州都である寿春に入った。

 この際、諸葛誕の主簿の宣隆と部曲督の秦絜は反乱に加わることを事前に拒否したため、殺されていた。平寇将軍の龐会龐悳の子)と偏将軍の路蕃諸葛誕に与せず、配下を引き連れて城門から斬って出た。

 諸葛誕は、淮南淮北に屯田していた10万以上の将兵と、新たに従属させた兵4〜5万とともに、1年分の食料を集め、寿春に籠城。配下の朱成を遣り、息子の諸葛靚、配下の呉綱らを人質として呉への帰順を表明、救援を要請する

 呉では諸葛誕を左都護・仮節・大司徒・驃騎将軍・青州牧に任じ、寿春侯の爵位を与える。

 5月7日、魏帝・曹髦司馬昭諸葛誕討伐の詔勅を下し、皇太后(曹叡の皇后であった氏)とともに自ら親征を行うことを決定。

 この頃の魏では、歴代の帝が幼少であったため、国家の大事は皇太后に伺いを立てて行われていたが、実際には反乱を企てる者たちに皇太后の名は頻繁に利用されていた。親征は建前で、司馬昭が帝と皇太后を奉じて出征することで正統性を示すとともに、不在中に都でクーデターが起きるのを防いだのだろう。

 5月9日、魏は、龐会路蕃諸葛誕に脅迫されたが勇敢に忠義を貫いたとして、彼らの爵位を進めた。

甘露二年(257年)6月〜7月

 6月、呉は救援軍として、歩兵・騎兵3万を率いた文欽唐咨全端王祚全懌らを寿春に向かわせる。

 文欽唐咨は以前に魏から呉に降ってきた人物である。文欽は魏にいた当時、諸葛誕と険悪な仲で、互いに司馬氏政権に不安を抱く立場でありながら、共同することはなかった。呉に帰順してからも、へりくだらない性格で諸将に嫌われる一方、時の権力者であった孫峻には重用された。また、全端全懌らは呉帝の外戚として権力を持つ全氏一族である。

 このころ孫綝は、鎮南将軍の朱異に命じて極秘に政敵の孫壱を討とうとしていた。朱異虎林から兵を率いて夏口に向かうが、武昌まで来たところで、孫壱に目的を察知される。切羽詰まった孫壱は配下千人を伴い、妹を連れて魏へ亡命した。

 寿春救援にかこつけて朱異に兵を率いさせ、油断した孫壱を襲撃しようとしたものか。孫壱孫綝同様に呉の宗室である孫氏一族だが、先の内乱において孫綝に敗れた滕胤呂拠孫封らと縁戚関係にあった(孫封は実弟)ため、孫綝に敵視されていた。このとき連れて行った妹は滕胤の妻だった。

 6月6日、魏は孫壱の亡命を受け容れ、侍中・車騎将軍に任命して爵位を与え、廃位された曹芳の皇妃の一人だった氏を妻とするなどして厚遇する。

 難を逃れて魏で地位を得たかに思える孫壱だが、この邢氏が性格が悪く使用人に恨まれていたため、数年後の甘露4年11月に、夫婦ともども殺される羽目になる。

 司馬昭は既に自ら寿春遠征の計画を立てていたが、孫壱が兵を引き連れてきたことから、呉では内乱が起きたばかりで、これ以上出兵してこないだろうと楽観する意見が出はじめた。しかし尚書の鍾毓が反対し、司馬昭はその意見に賛同して計画どおりに出陣する。また鍾毓自身も同行させた。

 魏軍(帝)はに駐留し、司馬昭淮浦まで進軍した。

 『晋書』文帝紀では討伐軍は7月に出陣したとされるが、『三国志』では孫壱が亡命してきた6月初旬以降に出陣し、6月25日までにはに到着している(高貴郷公紀・諸葛誕伝・鍾毓伝)。この場合にも討伐軍の出陣の詔勅(5月7日)から実際の出陣まで、少なくとも1か月ほど経っている。

 6月25日、昔の例にならい、討伐軍に尚書省などの文官を同行させることを決定。陳泰裴秀鍾会は行台において参謀の任にあたり、陳泰がこれを統べた。尚書の荀顗らは都に留まって護りにあたった。

 行台とは「行尚書台」で、少なくともこの当時の魏の行台とは、帝の出征に随行する臨時出張政府でありながら、実質は軍事参謀機関でもあったらしい。この場合、帝の出征とは名目上であるため、司馬昭の参謀チームとして動いている。前述の鍾毓もこの行台の一員として同行したのだろう。

 司馬昭廷尉の何楨淮南に派遣し、将士の慰撫や賞罰を行った。

 賈充は、諸葛誕の率いる揚州の兵は精強なため、直接攻撃せずに、陣を築いて寿春城を包囲し、兵糧攻めにする方がよいと進言。司馬昭はこの意見に従うことにした。一方王基は、敵が精鋭なため軍を砦に収容(して、寿春城を包囲?)するように命じられたが、進撃して討伐したいと何度も要請した。

 これらの記述は賈充伝・王基伝にそれぞれあり、関連性は不明だが、包囲しての持久戦が続行されたことから、王基の要請は通らなかったと思われる。

 王基の包囲陣が完成しないうちに、文欽らの呉軍が寿春に到達。魏軍はこれを撃退しようとしたが防げず、文欽らは城の東北から山伝いに難所を通って包囲を突破し、寿春城内に突入した。このとき魏軍の李広は敵に対しながら進軍せず、常時は病と称して出陣しなかったため、司馬昭は両者を処刑した。

 結果的に、呉軍のこの入城は悉く裏目に出たようだが(後述)、中から共同して攻撃した方が有利と考えたのか、外部に呉軍の陣を置くことができない理由があって、城に入らざるを得なかったのだろうか。なお、処刑された常時は泰山太守だったが、この後登場して活躍する胡烈も泰山太守。常時の処刑後、胡烈が後任になったのだろう。

 司馬昭は(孫綝伝によれば、呉軍に突破された包囲を増強するべく)青州徐州荊州豫州および関中の軍などを動員し、総勢26万の兵力を淮北に集結させる。荊州軍は、刺史の魯芝が率いて先鋒を勤めた。

 一方、朱異は兵3万を率いて安豊城に本営を置き、寿春を包囲している魏軍に迫ろうとする

 安豊は郡名。ここでは「安豐城」との記述だが、前々年に朱異自身が安豊を攻めるも敗退しており魏領の城のはずである。その付近に陣地を置いた?

 寿春城を包囲していた王基は、転進して北山寿春の北にある山)を占拠するよう命じられたが、包囲を固めたままにしなければならないと判断したため詔勅に従わず、意見書を送ったところ、司馬昭もこれを許可した

 7月5日、司馬昭丘頭に進軍。王基陳騫らには寿春の四方から二重に陣を固めて砦を築かせる一方、石苞には州泰胡質を指揮させ精鋭兵を率いた遊軍とし、外からの攻撃に備えさせる

 魏軍は、寿春城の周りに内外二重の砦を築き、そこに拠った。内は籠城する諸葛誕軍(と途中で加わった文欽軍)、外は朱異軍に対する備えと思われる。

 朱異寿春に迫ろうとしたが、陽淵陽泉県の地名?)において州泰に反撃される。退却するも追撃され、朱異軍は2千人もの死傷者を出した。

 こうした状況を伝えられた呉帝・孫亮は、孫綝に自ら軍勢を率いさせ、寿春に向かうべく出陣させる。孫綝鑊里に駐屯したまま進軍せずにいるうち、朱異夏口から鑊里に到着する。

 6月ごろ夏口孫壱を討ち損ねた朱異は、7月には夏口から鑊里に到着したとあるのだが、安豊陽泉と進軍していることから、この間に一度寿春文欽らとは反対方面から向かっていたということになる。しかし州泰に敗れたため夏口まで撤退し、そこから改めて鑊里に向かい、孫綝と合流したということだろうか。孫綝は、勅命を無視して湖中に留まったまま岸に上がろうともしなかったと呉帝に非難されているが、自ら出撃する気はなく、朱異を待っていたのかもしれない。

甘露二年(257年)7〜8月

 孫綝は、改めて朱異を前部督(先鋒の総司令官)に任じ、丁奉黎斐らの指揮する兵5万を統率させ、ふたたび寿春の包囲に挑ませた。

 朱異は輜重(兵糧など軍の輸送物資)を都陸(地名?)に留めおき、軽装兵のみで黎漿に到達し、陣を置くと、任度張震らに勇敢な兵6千を率いさせ、陣の西6里(約2.6km)のところで夜陰に紛れて浮き橋で対岸に渡り、偃月塁を築かせた。しかし石苞州泰に攻撃されて敗れ、退却して小高い場所に拠る。

 偃月塁というのは半月形の陣の一種らしい。黎漿は敵陣近くのため、河を渡るのは危険であり、準備としてまず軽装兵を先行させて両岸に陣を築こうとしたのだろう。なお1里=435mで6里=約2.6km。

 朱異は、車箱を作ってふたたび五木城に向かおうとしたが、またも石苞州泰の攻撃を受けて敗れる。

 車箱は邦訳では装甲馬車とあり、戦車か攻城兵器? 五木城は魏軍の砦だろうか。

 さらに、胡烈が5千の兵を率いて都陸に奇襲をかけ、朱異軍の兵糧を焼き払った。

 都陸も具体的な位置が不明だが、先述のように輸送部隊を留まらせていた場所である。この襲撃で朱異軍は決定的な打撃を受けることとなってしまった。

諸葛誕の乱 地図・寿春付近

甘露二年(257年)8月

 兵糧を失った朱異軍は鑊里まで撤退しようとしたが、石苞州泰に追撃され、さらに損害を被る。この間、飢えた兵は葛の葉を食べてしのぐという有様だった。

 こうした中ではあるが、朱異配下の丁奉は突撃隊長として積極的に戦ってなんらかの戦功を挙げた。また柴桑軍の司令官であった陸抗も交戦して敵将を破る功績があった。

 結果は朱異軍の惨敗だが、一連の交戦のどこかで、丁奉陸抗には多少なりと見るべき戦果があったらしい。陸抗の行動の詳細は不明だが、この後鑊里朱異とやりとりしていることから、このとき朱異の指揮下で従軍していたようである(功績は前述の陽泉での可能性もある)。また、詳細不明だが陸凱も参戦していた(孫亮時代かつ五鳳二年=255年=毌丘倹らの反乱が起きた年よりも後に、諸将とともに寿春に赴いたという記述から、この戦役のことと思われる)。

 鑊里に戻ってきた朱異に、孫綝はふたたび兵3万を率いて決死の出陣を命じる。しかし、朱異はこの命令を拒否。

 おそらくこの時点で既に鑊里の軍には十分な備えがなく、やみくもに再度攻め込んでも勝利の見込みはなかった。その責は朱異にもあるとはいえ、出陣を拒否したのは妥当な判断だろう。しかし、孫綝は命令拒否に怒った。

 一方、魏は、宣隆秦絜(当初に諸葛誕の挙兵に反対して殺された配下)の子らを取り立て、彼らの忠義に報いた。

甘露二年(257年)9月

 9月1日、鑊里の呉軍陣営において、朱異孫綝に呼び出される。陸抗は危険を察知して止めようとしたが、朱異はこれに反論して会見に赴く。孫綝朱異を捕らえさせると、帝の許可も得ずに独断で殺害した。

 9月3日、孫綝建業に帰還。今度は、朱異に代わって自分の弟の孫恩を救援に赴かせようとした。

 余談だが、この孫綝の行動をみるに鑊里建業間は船で2〜3日で移動できるようである。

 こうした呉軍の状況を知った司馬昭は、朱異が殺されたのは本人に罪があったわけではなく、寿春に籠城している将兵に謝罪することで決意を堅くさせ、なお救援の望みを繋がせるための措置だろうと考え、すなわち寿春城内では食料が厳しくなっていると分析した。

 寿春の食糧事情については当たっているとしても、孫綝はただ怒りにまかせて朱異を殺害しただけのように思われる。

 そこで司馬昭は、敢えて自軍を弱く見せかけ、また寿春には間者を放って、呉の救援軍が到着しかけているとの虚報を流す。諸葛誕らはこれに騙され、節約していた食料を消費しはじめてしまう。

 状況を見て石苞王基は城を攻めようと進言したが、司馬昭はなおも戦力を保持したまま、敵の降伏を待つ持久戦を選ぶ。

甘露二年(257年)11月

 呉にて、全懌の母(孫魯班、呉帝・孫亮の姉)が罪を得たことから、甥全禕全儀兄弟が母と配下の兵を伴い、魏に亡命するという事件が起きた。鍾会はこれを利用し、救援軍として現在寿春に籠城している全懌らの一族を寝返らせる計略を考案。全禕全儀に、兄弟である全静に宛てて、呉は寿春救援が失敗し続けていることから救援軍の将の家族を誅滅しようとしており、自分たちは魏に逃げてきたのである、と偽の亡命理由を書いた手紙を送らせ、動揺させようとした。

 孫魯班は、この翌年の秋に孫亮らとともに孫綝を排除しようとするも敗れ、配流になるが、このときの事件についてはよくわからない。

甘露二年(257年)12月

 この計略により、籠城していた全懌らの一族は疑心にかられ、全静全端全翩全緝らと部下数千人を連れて魏に降伏し、それぞれ爵位を与えられた。これをきっかけとして、残された寿春城内の軍の団結は揺るぎはじめる。

 こうして一族の多くが魏に亡命した結果、呉の外戚として最大の隆盛を誇った全氏は衰退していくことになった。なお江陵にいた全熙も一族だが、このとき、なんらかの陰謀がもれて殺害された。詳細は不明だが孫綝に滅ぼされたのだろうか。

 諸葛誕配下の蒋班焦彝は、呉軍は撤退しようとしており救援は望めないと考え、城内の者に戦意の残っているうちに決死で攻撃をかけるべきだと進言していたが、文欽に退けられていた。なおも進言し続けたところ、いよいよ諸葛誕文欽は怒り、蒋班は殺されかける。恐怖を覚えた両者は、城壁を乗り越えて降伏した。

甘露三年(258年)1月

 諸葛誕文欽唐咨らは攻撃用の兵器を大量に製造し、7日、城から出陣して5〜6日にわたって昼夜を通して南の包囲陣を攻めたが、王基らに迎撃されて大敗。甚大な被害を出し、ふたたび城内に戻る。城内の食料はいよいよ欠乏し、降伏者は数万人に及ぶ。文欽は、食い扶持を減らすため魏の者を追いだして、呉の者のみで城を護りたいと考えたが、諸葛誕はこれを退ける。もとより仲の悪かった両者は、これまでもやむを得ず協同していただけであったが、いよいよ対立し、ついに諸葛誕文欽を殺す事態となる。

 文欽の子の文鴦文虎は、父を殺されたため諸葛誕を討とうと試みたが失敗し、城壁を越えて降伏。司馬昭はこれらを赦した上、官位を与え、文欽の子でさえ殺されないのだから降伏するように、と宣伝させる。

 文欽は元は魏の将で、毌丘倹とともに司馬師に対して反乱を起こして敗れるも、生き延びて呉に亡命した人物である。本来なら反逆者の子である文鴦らは誅殺される立場だが、司馬昭は敢えて彼らを赦し、剰え将軍として取り立てることで、既に追い詰められている寿春城軍の心を掴み、戦わずして降伏に持ち込もうとした。

甘露三年(258年)2月

 いよいよ寿春城内は絶望的な状態となった。司馬昭は自ら兵を進めて城に攻撃。既に応戦できる者もなく、追い詰められた諸葛誕は単身馬に乗り、麾下とともに撃って出る。司馬昭の司馬の胡奮が兵を率いてこれを迎え撃ち、諸葛誕は斬られた。

 呉軍の于詮は、敵に降ることなどできないとして、敵陣に斬り込み戦死した。また、捕らえられた諸葛誕の旗下の兵数百人は、一人斬られるたびに降伏するよう呼びかけられたが、「諸葛公のために死ぬのだ。心残りはない」としてついに全員が死を選んだ。

 こうして寿春は陥落し、諸葛誕の三族は誅殺された。

 諸葛誕の末子の諸葛靚は、呉に人質として送られていたために生き延びて、家を継いだ。諸葛靚はこの後、呉に仕えて活躍することになる(彼についての詳細は別ページで)。また、諸葛誕の娘の一人は、司馬昭の異母弟である司馬伷に嫁いでおり生き延びた。かつては娘も罪に問われたが、この時代(毌丘倹の乱後)には、他家に嫁いでいれば実父の罪に連座せずに済むよう法改正されていた

 司馬昭は、戦略を進言した賈充の功を労い、砦に登った。また鍾会も大きな貢献を果たしたとして評価した。王基についても、当初(軍の移動を求めた際に)自分に逆らっても正しい判断をしたことが勝利に繋がったとして、賞賛した。

その後

 司馬昭はさらに、呉に侵攻しようと計画した。しかし王基は、勝利の後は敵を侮る心が生じること、また出陣してから長く経つことなど、危険な要素が多いと判断したため、理を説いて諫める。その意見を容れた司馬昭は計画を中止し、賈充に戦後の処理を取り仕切らせ、自身は洛陽に帰還した。

 寿春の反乱軍のうち、諸葛誕に脅迫されてやむを得ず巻き込まれたと判断した者については、無罪とした。また文鴦らには父・文欽の遺体を収容することを許可し、車と牛を支給して、祖先の墓まで葬らせた。唐咨は捕らえられていたが、司馬昭は彼も許した上、安東将軍に任命。また王祚も降伏した。孫曼孫弥孫彧孫郁とも。呉帝孫氏の一族)、徐紹(徐韶とも)といった者も降伏し、それぞれ官職・爵位を与えられた。

 降った呉の兵は1万以上になり、これらを処刑すべきという意見もあったが、司馬昭は「古代の用兵は、敵国の民を傷つけずに屈服させるのを最上とし、その指導者を処罰するにとどめる。呉の兵がたとえ逃げ帰ったとしても、中国の広い度量を示すよい機会だ。」として一人も殺さず、都に近い河南河東河内の郡に安住させた。呉でもこうした措置に心動かされ、降った者たちの家族を処罰しなかった。

 このとき魏に降った徐紹は、後に司馬昭の参軍事となり、孫晧の時代になって、孫彧とともに呉に降伏を薦めるため祖国への帰還を許された。しかし、魏を賛美する言動があったとして孫晧に殺され、ともに帰国を果たした家族も配流となってしまった。

 魏は、この戦において司馬昭が本営を置いた丘頭武丘と改名し、勝利を記念した。

 一方で孫綝は、諸葛誕を救えずに多数の兵士を失い、また声望のあった朱異を不当に殺したことなどから、人望を失っていった。年若い帝の孫亮孫綝を討とうと図って逆に廃位されるが、その後に即位した孫休によって、ほどなく孫綝も滅ぼされることになる。

補足・その他の動向

 この戦役において、司馬昭の異母弟である司馬亮も武官として出陣していたが、何らかの局面で敗北したため処罰として免官された。

 また、魏の驃騎将軍・王昶夾石に拠って江陵に迫り、呉の施績全熙と対峙して、施績らが東進するのを阻んだ。

 呉軍は江陵方面からも出兵して魏軍を牽制しようと試みたが、失敗に終わったと思われる。王昶はこの当時、魏の荊州軍の総司令官である。夾石という名前は揚州にもあるが、内容からすると荊州江陵の北にある地(図参照)で、王昶襄陽方面から出陣してこの地に本営を置き、施績らの江陵軍に対したということだろう。施績軍の具体的な目的地は不明だが、東進を阻まれたということからすると、寿春方面へのさらなる援軍だろうか。王昶のこの行動は寿春討伐を大きく助けたと評価され、戦後、都督任務のまま司空に昇進している。

 蜀漢の姜維は、魏の隙を突いて秦川に向かうべく数万の兵を率いて出陣。魏は司馬望鄧艾にこれを防がせ、両軍の対峙が続いたが、諸葛誕の敗北を受けて姜維は撤退した。

 呉では257年夏に会稽郡・鄱陽郡・新都郡で民衆反乱が起こり、丁密鄭冑鍾離牧が軍を率いて鎮圧にあたるという事件があった。

個人的な見解

諸葛誕の動機

 名目上この戦は「呉軍」対「魏軍」だが、実質的には「魏・呉軍」対「晋軍」という印象。諸葛誕が反旗を翻した直接の理由は、保身かもしれない。しかし、探りを入れた賈充に対する発言から、魏王朝への忠誠心による決死の判断と見てもいいだろう。しかし結果として敗れた諸葛誕は、その魏王朝に対する謀反人として記されることになってしまった。

文欽らの行動と、寿春の雨

 孫綝の指示かどうかは不明だが、文欽らは寿春城に入ったことで、本来籠城側では1年分用意したはずの食料の欠乏を招き、連絡を絶たれた全氏一同は離間の計にはまって降伏、さらに元より仲の悪い諸葛誕文欽の内紛が勃発するなど、すべてにおいて重大な敗因を作ってしまった。

 もう一方の救援軍である朱異の指揮も残念ながら冴えなかった。指揮下には丁奉陸抗など有能そうな人物もおり、朱異の判断に意見を差し挟んでもよさそうだが、朱異も性格に少々独善的なところがあるため、配下を巧く使いこなせなかったのかもしれない。

 寿春は毎年、大雨によって水浸しになるのが常だった。当初、魏軍が包囲を増強していく中、諸葛誕は包囲陣が大雨で崩れると予測し、嘲笑していた。しかし生憎この年は日照りが続き、諸葛誕の目論見は外れることになる。城が陥落したその日にはじめて大雨が降って、包囲の砦はすべて崩れ落ちた、という、できすぎた結末も付いている。文欽らが外部からの攻撃を行わずに城に入ったのも、この大雨による被害を想定してのことかもしれない。しかし、それほど広く知られていることであれば、司馬昭がこの点について警戒していなかったというのは不自然で、あるいは司馬昭側には日照りが続くことまで見通しがあったのかもしれない。

司馬昭と孫綝と諸葛誕、三者三様の「人」の扱い方

 この戦で印象深いのは、司馬昭孫綝諸葛誕の明暗を分けることになった、「人」の扱い方の差である。

 何よりも司馬昭は、配下の人材を使いこなすことに巧みだった。無益と判断した進言は理を説いて退ける一方、有益な意見は自身への反論であっても受け容れる。王基とのやりとりに象徴される、自分の判断が誤っていたと思えば素直に認めて正しい判断を賞賛する潔さと柔軟さは、対した諸葛誕孫綝とは大きく異なる特長である。焦らず長期の持久戦に持ち込み、自軍の被害を最小限に抑えつつの勝利は、王基賈充鍾会ほか多数の有能な配下と信頼関係を築き、使いこなしていてこそ可能だった。また司馬昭は、巻き込まれて反乱に加わっただけの者に対しては非常に寛大な措置をとり、降伏者を受け容れて厚遇し、敵味方の人心を惹きつけた。やみくもに許すばかりではなく、軍規違反者は適正に処分する、また自身の親族であってもミスには処分を科すなど、自軍の規律を守ることには徹底している(むしろ司馬亮は、身内であったからこそ厳しく責任を追求されたのだろう)。また帝や官僚を伴っての出征など、現場以外への対策もぬかりない。さらに、戦後の措置も適切に行うことで、単に反乱を鎮圧したのみならず、今後の司馬政権支持に繋がる勝利とした。ソースの性質上、司馬氏側が美化されている部分もあるだろうが、見事である。

 一方の孫綝はといえば、まるで正反対に、配下の心を掴めていなかった。全懌らが呉に残した家族が誅殺されるという偽の情報によって降伏したのも、孫綝ならばやりかねない、と思われたからこそ有効に働いてしまったわけである。また文欽という、状況からみて不適切な人材を救援軍のリーダーに選んでいるのも問題である。なお文欽唐咨は、先の内乱において当初は孫綝と対立していた。結果的にこの救援軍の上将は悉く殺され・あるいは魏に亡命し、反孫綝の残党や彼が危険視すべき権力を持った者は、この戦によって滅ぼされた。そうした狙いを含んで、敢えての使い捨て的人選だった可能性もある。しかし、帝の勅命を軽視して自身は陣頭に立たず、現場の状況を慮ることなく将兵を酷使し、さらに朱異に責任を負わせて独断で処刑したことは、帝や人々の怒りを買い、やがては彼自身の破滅に繋がっていくことになる。奇しくも孫綝司馬昭は、近親である前任者の急死により突然国政のトップに立つことになるという、よく似た立場にあった。だが孫綝はこのとき27歳と、一国の独裁者になるには若かった。一方の司馬昭は47歳。孫綝は、根本的な性情にも問題があるとはいえ、年齢・経験の上で未熟だったのかもしれない。

 諸葛誕は、従う部下には心を配り、実際に多くの将兵と、最後には彼に殉死するほどの信頼関係を築いていた。一方で、意に沿わない進言をする蒋班を斬ろうとする、文欽との場合に至っては実際に(いかに文欽の進言が乱暴であったとしても)斬ってしまうなど、意見に反するものは頑として拒絶し、滅ぼそうとする。また、地元の兵を手懐けるにあたって本来死罪になる者も許すなど度を超えた待遇をし、虚報に惑わされて兵糧制限を緩める(事実はどうかは疑わしいが)など、性急で過剰な面も見られる。彼もまた、孫綝とは少し異なる意味で「人」を使いこなしきれなかった。こうした諸葛誕の剛直さと極端さは、対照的な司馬昭の柔軟さの前に、やはり敗れ去ることになった。

主要参考文献

参考箇所

 参照した部分の覚え書き。関係者が多すぎて、抜けがある可能性大。

『三国志』魏書

  • 高貴郷公紀
  • 明元郭皇后伝
  • 楽進伝
  • 龐悳伝
  • 鍾毓伝
  • 陳泰伝
  • 常林伝
  • 王昶伝
  • 王基伝
  • 諸葛誕伝
  • 鍾会伝

『三国志』蜀書

  • 後主伝
  • 姜維伝

『三国志』呉書

  • 孫亮伝
  • 孫亮全夫人伝
  • 孫奐伝
  • 丁奉伝
  • 朱績伝
  • 朱異伝
  • 陸抗伝
  • 全琮伝
  • 陸凱伝
  • 孫綝伝

『晋書』

  • 文帝紀
  • 天文志
  • 地理志
  • 刑法志
  • 石苞伝
  • 陳騫伝
  • 裴秀伝
  • 荀顗伝
  • 賈充伝
  • 胡奮伝
  • 司馬亮伝
  • 諸葛恢伝
  • 魯芝伝

公開:2011.11.30 更新:2011.12.05