陸抗と羊祜 - 「羊陸の交わり」の真実

羊陸の交わり

 西晋の羊祜ようこと呉の陸抗りくこうとは、敵ながらも互いに信義を持って相対した。歩闡ほせんの乱(西陵の戦い)を巡っては晋呉両軍の総司令官として戦った一方で、酒や薬を贈りあっては、毒かと疑うこともなくこれを飲んだ。彼らの結んだ信義は「羊陸之交(羊陸の交わり)」という故事成語にもなっている。

【羊陆之交】yáng lù zhī jiāo [色彩]褒义。[结构]偏正。[类别]喻人(情谊)类。[释义]羊:西晋初大将羊祜;陆:吴国大将陆抗;交:交往,友谊。羊祜和陆抗的交谊。魏末晋初时,羊祜率兵伐吴,陆抗(陆逊之子)率兵抵抗。两军交战时,陆抗送酒给羊祜,羊祜不疑而饮;陆抗生病,羊祜送药给陆抗,陆抗亦不疑而服用。后用“羊陆之交”比喻不带任何政治成见的私人交谊。[语见]唐・房玄龄等《晋书・羊祜传》:“晋武帝遣羊祜伐吴,陆抗御之,虽相为敌,而名尚信德。”

王兴国编著『汉语成语大词典』华语教学出版社、2010年、P1497

 ※上記内容を「《成語》羊陸の交わり」にて日本語訳してくださっています。
 ※「羊陸之交」の近年のネットでの広まりについて、雑記コーナーに記載「(正)羊陸の交わり (誤)陸羊の交わり、という話」しました。

 他にも、羊祜陸抗の故事からできた成語として、以下のようなものがあるらしい。

羊祜通和(ようこつうわ)
意味 晋の羊祜が、敵対していた呉の陸抗と和を通じ、抗の病気のときに薬をおくるなど、信義によって平和をもたらした故事。

和泉新・佐藤保編『中国故事成語大辞典』東京堂出版、1992年、P1174

陸抗嘗薬(りくこうしょうやく)
意味 晋の陸抗が病の折、羊祜に送られた薬をなんの疑いもなく飲んだ故事。陸抗と羊祜の友情の深いことをいう。『蒙求』の標題。

和泉新・佐藤保編『中国故事成語大辞典』東京堂出版、1992年、P1196-1197

 ※上記の『中国故事成語大辞典』には「晋の陸抗」とあるが、単なる誤りかと。出典はそれぞれ『晋書』羊祜伝、『三国志』呉書陸抗伝の注に引く『陽秋』(孫盛『晋陽秋』)で、該当部分の書き下し文も載っている。

 この羊祜陸抗の逸話は、小説『三国志演義(三国演義)』にも多少の脚色を加えて取り入れられ、三国志の終盤を飾る美談として知られることになった。むしろ『三国志演義』には、本来なら陸抗の最大の見せ場であろう歩闡の乱が羊祜の回想台詞としてしか出てこないため、これが唯一のまともな出番である。

「羊陸の交わり」の真実

 これが本当に、敵味方を超えた友誼の美談なのか、というと、実はそうでもない。

 『漢晋春秋』にいう。羊祜は〔西陵の戦役から〕帰還したあと、以前にも増して徳と信義とを修め行なって、呉の人々の心を引きつけようと計った。陸抗は、機会あるごとに国境防備にあたっている者たちに告げていった、「相手がもっぱら徳を行ない、味方が酷いことばかりをやっているのであれば、戦わぬ前から降伏してしまっているようなものだ。それぞれが持ち場を正しく守り、ちっぽけな利益を追わぬようにせねばならない。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝注引『漢晋春秋』 P301

 この当時の呉では、帝・孫晧そんこうによる粛正を恐れて晋へ逃亡する者が後を絶たなかった。有力者すらそうであるということは、一般の民の心も離れかけていただろう。そんな情勢の中、やはり孫晧に反旗を翻し、晋への帰順を表明した歩闡の救援に向かった羊祜だが、結果は陸抗に敗れて果たせなかった(「歩闡の乱」参照)。戦場で陸抗に敗れた羊祜は、舞台を変え、軍事力の代わりに「徳と信義」を武器に、呉の人心を引きつけ、戦わずして勝つという策略に出たのである。だが、その事実を見抜いた陸抗は同様に「徳と信義」をもって鮮やかに応戦し、結果、国境地帯には一見すると敵と対峙しているとは思われないほどの状況が生まれた。

 しかし、この冷戦は傍目には友情と映り、必ずしも味方の理解を得られるものではなかった。

 羊祜と陸抗とは臣下としての節操を失っているとして、両者を譏る者もあった。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝注引『漢晋春秋』 P302

 元より人一倍猜疑心の強い孫晧も、当然この状況を怪しむようになり、ついに陸抗を詰問した。しかし陸抗は、整然と理を説く。

 陸抗はいった、「一つの邑、一つの郷においてすら、信義を大切にする人物が必ずおらねばならないのでございます。ましてや大国に信義を守る者がおらずにいてよいものでしょうか。臣がもしこのように晋に対しなかったとすれば、それはただ相手の徳を顕彰してやるに足だけのことで、羊祜にとって何の痛手にもなりません。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝注引『漢晋春秋』 P302

 孫晧も一応は、この答えに納得したのだろうか。陸抗はそれ以上咎められることもなく、やがて昇進して大司馬となるが、一年ほどの後には病の悪化により死去し、二人の対峙は終わりを告げる。

 『三国志演義』では、ここで羊祜との内通を疑われた陸抗が兵権を剥奪され、羊祜は今こそ呉を討つ好機だと上奏する、という劇的な展開になる。反対派に圧されて征呉は実現しないものの、『三国志演義』の羊祜はこの冷戦に一応の勝利を収めた。

 陸抗も、羊祜に応戦するだけの資質を充分に備えてはいた。だが羊祜がその人柄でもって高く評価されたのに対し、陸抗が評価されたのは主に実務面であり、人徳の面ではやや劣る(「陸抗の人柄」参照)。加えて各々の国内情勢の差もある。現実の羊祜は『三国志演義』のように勝利することこそできなかったが、それでもこの対峙においては羊祜側により余裕があり、優勢であったのではないかと思える。

友情の裏側の、その裏側

 『三国志演義』では、羊祜に問われた使者が、陸抗が病であることを明かし、そして羊祜が薬を贈る運びとなる。交戦中でないとはいえ、敵国の将に問われた使者が司令官の病という重大な機密をばらすとは、なんたることか。

 ところが、むしろ『漢晋春秋』によれば「羊祜によい薬がないかと尋ねてやった」、つまり陸抗が自ら進んで明かしているのである。陸抗は何を思ってそうしたのだろうか。果たしてどういう応えがあるか、陸抗羊祜の力量を測ろうと、挑戦を投げかけたのかもしれない。司令官の病という軍事機密が伝わってしまうことは、覚悟の上の代償だった。

 そして羊祜は、自分のために調合した特効薬(『漢晋春秋』では、自分のためという建前でわざわざ作った特効薬)を躊躇いなく送る。「徳」を武器としたこの冷戦において、これは陸抗の命がけの挑戦に対する、鮮やかな反撃だった。ここでもしも陸抗が毒かと疑えば、この反撃は勝ちだった。しかし陸抗は、内心に迷いがなかったかどうかはともかくとして表面上は全く疑うことなく、部将らの諫めも無視して、その薬を飲んでみせたのである。

 彼らの交流は、私的な友情によるものではなかった。だがそれでは、単なる策略上のパフォーマンスだったのか。

 羊祜の返礼は「薬」という、本来なら敵としてむしろ奪わねばならないはずの命を、逆に救おうとする、どこか象徴的な品である。深層心理では、陸抗羊祜を信頼したかったのかもしれない。滅びへ向かうばかりの絶望的な情勢と、帝にも周囲の味方にも理解されない孤独、そして近づく自身の死の予感の中で、陸抗にもどこかに救いを求める無意識の思いがあったのかもしれない。その結果として、羊祜に「よい薬がないかと尋ねてやった」のかもしれない。

 しかし、その羊祜もまた、決して周囲の理解を得ているとは言い難かった。公明正大な人柄が逆に災いして、自国の帝に阿る臣下らにも疎まれている。彼もまた無意識下で、本来は敵であるはずの「友」を救いたい、それによって精神的な部分では救われたい、と思っていたかもしれない。

 『三国志演義』の羊祜は、陸抗の使者にこう答える。

「それは多分、わしの持病と同じものであろう。ここにわしの調合した薬があるゆえ、差し上げてくれい」

羅貫中作、立間祥介訳『三国志演義 下』平凡社、1972年、P505

 二人の抱える同じ病とは何だったのか。互いに本当は孤独であり、唯一の理解者は敵その人であるという、この目に見えない戦の状況の暗示のようにも思えてくる。

国境の対峙

 『三国志演義』のエピソードのせいか、二人は荊州の国境を挟んで間近に対峙していた、という印象で語られがちだが、羊祜襄陽に、陸抗江陵南岸の楽郷に本拠地を置いていたため、結構な遠距離である。晋・呉両軍の総司令官として戦った歩闡の乱では、羊祜江陵に、陸抗西陵に赴いたため、直接対決してはいない。彼らは使者のやりとりはしても、実際に顔を合わせたことはなかったかもしれない。

そもそも、実は冷戦ではなかった

 『晋陽秋』や『漢晋春秋』の記述(いずれも『三国志』呉書陸抗伝の注に引かれる)では一見、このとき晋呉の国境は表面的には平穏であり、戦は起きていなかった、という印象を受ける。だが、『晋書』羊祜伝によると、実は両軍はこの間も普通に交戦していた。

孟獻武牢人懼,晏弱東陽萊子服,乃進據險要,開建五城,收膏腴之地,奪人之資,石城以西,盡爲有。自是前後降者不絕,乃增修德信,以懷柔初附,慨然有吞幷之心。每與人交兵,剋日方戰,不爲掩襲之計。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年 列傳第四 羊祜 P1016

羊祜は孟献子が武牢に陣取ると鄭の人々がこれを懼れ、晏弱が東陽に城を築くと莱子が彼を恐れた故事にならい、進軍して険しい要害の地に拠り、五つの城を築き、肥沃な土地を手に入れ、呉の食糧を奪ったので、石城より西は、ことごとく晋の領有するところとなった。この前後より降伏してくるものが絶えなかったので、いっそう仁徳と信義にみがきをかけ、帰服したばかりのものたちをなつけたが、それでもやはり〔呉を〕併呑しようという志を強く持っていた。呉の人と兵を戦わせるときはいつも、期日を定めて正々堂々と戦い、敵の不意を突くような謀計をなすことはなかった。

「解體晉書」『晉書』 巻三十四 列伝第四 羊祜

 両軍は停戦していたわけではないが、奇襲などはせずに(と、晋は称している)正面から戦っていた。その上、どうやら呉は少しずつ羊祜に領土を取られ、石城以西を攻略されていた。

 羊祜伝によれば、石城襄陽から七百里余りの場所にあった。詳細は不明だが、いずれにせよ陸抗羊祜の対峙していた国境は、平穏どころではなかった。

 陸抗も死の間際に、自分の管轄下で敵と対陣している箇所が四箇所ある、と言っている。つまり陸抗羊祜は国境に陣を張って対峙しており、実際に直接衝突する局面があった可能性はある。しかしこのころ陸抗は既に病が重く、直接に陣頭に立って兵を率いることはなかったかもしれない。

 この当時、陸抗の治めていた地域全体の兵力は、数万人に減っていた。八万人増員してほしいと孫晧に訴えていることからしても、実情はあまりにも兵力が足りなかったのだろう。しかし、それほどの絶望的な状況の中においても陸抗はなお、羊祜に完全に呉に攻め込ませる隙は与えなかったのである。

 鳳皇三年(晋の泰始十年・西暦274年)秋、陸抗の死によって、宿敵の国境での対峙は終わる。そして羊祜は、呉を討伐すべしと積極的に意見しはじめる。これは羊祜が「咸寧初」に征南大将軍になったころであり(泰始十年の翌年が咸寧元年)、まさに陸抗が死去した直後だと思われる。陸抗という最後の砦が除かれた今、ついに羊祜は呉の平定を決断したのかもしれない。二人のファンとしては、そう思いたいところである。

公開:2007.03.17 更新:2014.03.05