陸抗の病弱疑惑を考える

 多くの三国志解説本の類で、陸抗りくこうは病弱であったとされる。しかし、具体的な出典があるわけではない。その根拠は何なのか。

羊祜の薬

 おそらく、羊祜ようことの有名なエピソードによるイメージが最も大きい。陸抗が病気になったとき、敵である羊祜が薬を作って送ってきたが、陸抗は疑うことなくそれを飲んだ、という逸話である。

 『晋陽秋』にいう。陸抗と羊祜とは、〔古の〕子産と季札が結んだのと同様の厚い交わりを結んでいた。陸抗があるとき羊祜に酒を贈ったところ、羊祜は〔毒が入っていないかなど〕いささかも懸念することなく、それを飲んだ。陸抗が病気になったとき、羊祜が薬を贈ってきたが、陸抗も心から感謝してそれを服んだ。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝注引『晋陽秋』 P301

 『漢晋春秋』にいう。……陸抗が病気になったとき、羊祜によい薬がないかと尋ねてやった。羊祜は薬を調合すると使者に渡して次のように伝えるよういった、「これは特効薬です。近ごろはじめて自分のために調合したのであるが、まだ服んではいません。あなたの病気が重いとのことで、これをお贈りする。」陸抗は、使者が持ってきた薬をそのまま服んだ。部将の中にはそれを諫めて止めようとする者もあったが、陸抗は、そうした意見には返事もしなかった。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝注引『漢晋春秋』 P302

 なお、陸抗羊祜と相対していたのは、かなり晩年のことである。『三国志演義』(『三国演義』)では、羊祜の薬で快復するという展開だが、この部分はフィクションであり、実際にはこの出来事は、陸抗が病死する直前のことかもしれない。

都で療養する

 もうひとつ手がかりになるエピソードに、基本的に地方駐在だった陸抗が、二十六歳のころに都に出て病気の療養をした、というものがある。

 病気になっても任地で任務を継続する人も多い中(逆に仮病で欠勤・引退を決め込む方が多いが)、都で療養を許されたというのは、二十代半ばにして長期に亘って任務が不可能となるような重病になったらしい。

 この話が特筆されているのは、呉帝・孫権陸抗の父である陸遜への不義を詫びるという、重要なやりとりがあったためである。

太元元年,就都治病。病差當還,涕泣與別,謂曰:「吾前聽用讒言,與汝父大義不篤,以此負汝。前後所問,一焚滅之,莫令人見也。」

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 陸抗傳 P1354

太元元年(二五一)、陸抗は都に出て病気の治療にあたった。病気がいえて任地にもどることになったとき、孫権は涙を流して別れをおしみ、彼にむかっていった、「私はさきに讒言を信用して、あなたの父上に対し大義にそむくようなことをなし、そのことであなたに申し訳なく思っておる。幾度も送った詰問の書状は、すべて焚いてしまって、他人には見せないでほしい。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝 P294

 陸遜を責めて死に追いやった証拠を隠滅してほしい、という頼みにも見えるのはさておき。孫権は、陸抗を懐柔しておこうと画策し、療養にかこつけて都に呼び戻したのではないかという気もする。

陸抗の死去

 陸抗は、数え年四十九歳で病死した。

二年春,就拜大司馬、荆州牧。三年夏,疾病,上疏曰:……
秋遂卒,子嗣。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 陸抗傳 P1359〜1360

鳳皇二年(二七三)春、陸抗は、任地において、大司馬、荊州の牧の職を授けられた。
同三年の夏、病気が重くなったとき、上疏をしていった、……
この秋に、陸抗は死去し、息子の陸晏がそのあとを嗣いだ。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年 陸抗伝 P309〜311

 調査した範囲で三国志の人物の平均没年齢は五十五歳くらいで、中には九十や百まで健在な人もいる。陸抗は決して長生きしてはいないが、没年齢をもって病弱な印象になるとまでは言い難い。が、「やまいへいなり」は病が重くなるという意味で、急病による死去ではないと考えると、以前から病気がちであったところ、悪化して死去したとも考えられる。

まとめ

 陸抗が病気になったエピソードは少なくとも二回、羊祜の薬の話を死去直前でないとすれば三回ある。また、平均より若年齢で病死した。

 病弱説は、これらの逸話を元に、内に暴君や異民族の問題を抱えながらも、強大な敵国から斜陽の国を護りぬいた悲運の名将、というイメージに相応しく誇張されたものだろう。

2007.03.17