丁固(丁密)の経歴
孫呉末期の重臣、丁固(丁密)について。
若い頃に父が死去したため、母親と二人暮らしだったが、闞沢や虞翻に評価され、孫晧の時代には司徒の位に上る。陸凱と同い年。子の丁彌や孫の丁潭は、晋に仕えた。丁潭は『晋書』に伝がある。
元の名は丁密といった。しかし滕密の名を避けて、丁固と改名(滕密の方でも同様の理由で滕牧と改名した)。あざなは子賤。改名前後で同じなのかどうかはわからず。
西暦 | 年 | 月 | 出来事 | 齢 | 官職 | 呉帝 |
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198 | 建安3 |
丁密が生まれる。闞沢は、赤子の頃の丁密を「必ずや位人臣を極めるであろう」と評する。 | 1 | - | ||
? | ? | 父の丁覧が死去したため、丁密は母や一族の身寄りのない子らを支えながら暮らす。 | - | |||
? | ? | 丁密は官に就く。父の友人であった虞翻は、丁密の同僚に宛てた手紙で彼を高く評価する。 | ? | |||
? | ? | 虞翻が交州に配流となる。 | ? | |||
229 | 黄武8・ 黄龍1 |
4月 |
孫権が帝位に即き、呉王朝が成立する。 | 32 | ? | 孫権 |
239頃 | 赤烏2 |
虞翻が配流先で死去する。 | 41 | ? | ||
243 | 赤烏6 |
11月 |
闞沢が死去する。 | 46 | ? | |
250 | 赤烏13 |
〜 11月 |
孫権の皇太子の孫和と弟の孫覇の間に後継者争いが起こり、結果、孫和を廃嫡して孫覇を自害させ、孫亮を皇太子とする。一連の騒動で重臣たちはそれぞれの派閥に分かれていたが、丁密(尚書)は孫和派だった。 | 53 | 尚書 |
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丁密は松の木が腹に生える夢を見て、18年後、三公の位に上ることを予言する。 | ||||||
252 | 神鳳1・ 建興1 |
4月 |
孫権が崩御し、孫亮が即位する。 | 55 | 孫亮 |
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257 | 太平2 |
8月 |
会稽南部で反乱があり治めていた都尉が殺される。鄱陽と新都の民衆が反乱を起こし、丁密(廷尉)、鄭冑(歩兵校尉)、鍾離牧(将軍)が軍を率いて討伐する。※この当時は、諸葛誕の乱の最中。 | 60 | 廷尉 |
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258 | 太平3・ 永安1 |
9月 |
孫亮が廃位され、孫休が即位する。 | 61 | 孫休 |
|
262 | 永安5 |
10月 |
孫休は衛将軍の濮陽興を丞相に、廷尉の丁密を左御史大夫に、光禄勲の孟宗を右御史大夫に任じる。 | 65 | 左御史大夫 |
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263 | 永安6 |
11月 |
魏が蜀漢を滅ぼす。 | 66 | ||
264 | 永安7・ 元興1 |
7月 |
孫休が崩御し、孫晧が即位する。 | 67 | 孫晧 |
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265 | 甘露1 |
9月 |
孫晧は建業から武昌に遷都する。 丁固(左御史大夫)、諸葛靚(右将軍)が建業の守備にあたる。 |
68 | ||
266 | 12月 |
司馬炎が魏から禅譲を受け、晋王朝が成立する。 | ||||
宝鼎1 |
10月 |
永安の山賊の施但らが反乱を起こし、孫晧の異母弟の孫謙を脅して新たな帝として擁立し、建業まで攻めてくる。丁固(左御史大夫)、諸葛靚(右将軍)はこれと牛屯で戦い、鎮圧する。 | 69 | |||
267 | 12月 |
孫晧は都を武昌から建業に戻す。 一説にはこの頃、陸凱(左丞相)、丁奉(右大司馬)、丁固(左御史大夫)は孫晧を廃位して孫休の子を新たな帝に立てるクーデターを企てたが、未遂に終わる。 |
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268 | 宝鼎3 |
2月 |
孫晧は左御史大夫の丁固を司徒に、右御史大夫の孟仁(孟宗)を司空に任じる。 | 71 | 司徒 |
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271 | 建衡3 |
9月 |
孟仁(司空)が死去する。 | 74 | ||
273 | 鳳皇2 |
3月 |
丁固(司徒)が76歳で死去する。 | 76 | ||
280 | 天紀4 |
3月 |
晋が呉を滅ぼし、中国を統一する。 | - |
※一部では「御史大夫」としか書かれていないが、前後を参照し「左御史大夫」で統一した。
御史大夫とは?
前漢時代の三公の一だが、呉の御史大夫とはどういった役職なのだろうか。孫峻伝の注には「孫峻を丞相とし、〔その副官である〕御史大夫は置かぬことに決められたが〜」という訳注があり、丞相の副官として置かれることがあるらしい。丞相は、262〜264年は濮陽興、266年からは左丞相・陸凱、右丞相・万彧。
丁固と「十八公」の夢
丁固の逸話として有名なのが、松の夢占いの話。
吳書曰:初,固爲尙書,夢松樹生其腹上,謂人曰:「松字十八公也,後十八歲,吾其爲公乎!」卒如夢焉。
陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) p.1167
『呉書』にいう。丁固が尚書であったころのこと、松の木が腹の上に生えるのを夢に見て、人にいった、「松の字は十八公からなる。十八年あと、私は三公となるであろう」と。結局、夢のとおりになった。
陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.207
自ら夢を分析し、自分は三公になるに違いない、と公言して憚らない丁固は、かなりポジティブな自信家だったのかもしれない。孫権による建国期から、歴代の帝に仕えて動乱の中を生き抜いてきた丁固は、最後の帝となる孫晧の時代、果たして三公の一である司徒の位に上った。それより十八年前といえば、ちょうど孫権の後継者争い(二宮の変)の頃であり、確かに丁固は尚書として名前が出てくる。
このことから、松の異名を「十八公」というようになった。また、この故事を元にした「丁固」という謡曲があるらしい。三国志ファンの間ではおそらく相当にマイナーな丁固だが、意外な方面に名を残していた。
ちなみに丁固とともに御史大夫を務め、やがて同時に三公の位に就くことになる同僚が、筍の故事で知られる孟宗(孫晧の即位後はそのあざな「元宗」の文字を避けて孟仁と改名)であった。
2011.07.18