呉の大司馬の権力

 陸抗諸葛靚の最終官職である、呉の「大司馬」。軍事の最高位というくらいだから、さぞ絶大な軍事権限を持っているのだろう! と勝手に思い込んでいた。が、調べてみるとどうも、官位と実際の指揮権は別のようである。

 少なくとも武官として実働している大司馬のほとんどが、下記のようになんらかの総指揮権らしき役職を別途与えられている。(なお呂範滕胤は任命直後に死んで実働していない)これは、将軍が△△都督だったりするようなものだろう。軍師、都護、護軍、などがあるが最上位は「軍師」のようだ。

呂範大司馬
朱然左大司馬右軍師
全琮右大司馬左軍師
呂岱大司馬
滕胤大司馬
施績左大司馬都護? *注1
丁奉右大司馬左軍師
陸抗大司馬都護
諸葛靚大司馬副軍師

*注1 施績については、記載が発見できなかったが、左軍師の丁奉(元・都護)と同時に昇進していること、大司馬になる以前に都護だったことから「左大司馬・右軍師」だった可能性が非常に高いと思う。

 なお諸葛靚のケースのみ、大司馬は「軍師」ではなく「副軍師」だった。このときは張悌(丞相・軍師)を総司令官とし、諸葛靚(大司馬・副軍師)や孫震(大将軍・護軍)などがその配下として出陣している。厳密には張悌は丞相だから総司令官だったわけではなく、軍師だから総司令官だったのだろう。

 陸抗は270年には都督信陵西陵夷道楽郷公安諸軍事となり、273に都護を加官され、その後に大司馬となった、という流れからしても、この都護や軍師などは官職とセットというわけでもなく、別の扱いのよう。とはいえ、他の例を見る限り大司馬は軍師になるのが通例のようなので、陸抗も軍師だった可能性はあるかもしれない。

公開:2011.07.18 更新:2011.08.16