建平太守、吾彦の駐屯地の謎
吾彦は呉の最末期、西の国境である建平郡の太守となった。
このころ、晋の王濬は、やがて晋が天下統一を果たすことになる伐呉の役(279〜280年)に備え、蜀の地で船の建造にあたっていた。その木屑が、長江の流れに乗って呉の方まで辿り着いた。このため吾彦は晋がいよいよ水軍で攻めてこようとしていると気づき、増兵を要請したが、かねてより中央集権化を進めていた呉帝・孫晧は地方の軍が力を増すことを厭っており、対策を取ろうとしない。
干寶晉紀曰:王濬治船於蜀,吾彥取其流柹以呈孫晧,曰:「晉必有攻吳之計,宜增建平兵。建平不下,終不敢渡江。」晧弗從。
陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) 三嗣主傳第三 孫晧 p.1178
干宝の『晋紀』にいう。王濬が蜀で船を建造していたころ、吾彦は、流れてきた木くずを拾い、孫晧にさし出していった、「晋は呉の攻略をもくろんでいるに違いありません。建平郡の兵員を増やされますように。建平が陥落しないかぎり、長江を渡ったりはいたしますまい。」孫晧はこの進言に従わなかった。
陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫晧伝 p.236
『晋書』吾彦伝によると、増兵を孫晧に退けられた吾彦は、晋の水軍の進攻を妨害すべく、独自に長江に鉄鎖による罠を建設して備えた。
稍遷建平太守。時王濬將伐吳,造船於蜀,彥覺之,請增兵爲備,晧不從,彥乃輒爲鐵鎖,橫斷江路。及師臨境,緣江諸城皆望風降附,或見攻而拔,唯彥堅守,大衆攻之不能克,乃退舍禮之。
房玄齡等撰《晉書 五 傳》(中華書局,1974年) 列傳第二十七 吾彥 p.1562
しかし、王濬伝(後述)によると、この罠は残念ながら羊祜に捕らえられた呉の間諜によって晋軍に察知されてしまった。このため王濬は予め船に鉄鎖を焼き切る仕組みを設け、結局、呉軍はその侵攻を食い止めることはできなかった。
しかし吾彦はなおも健闘した。長江沿いの呉の拠点を次々陥落させていくことになる王濬も、吾彦の護る城だけはついに陥とすことができなかった。
このとき吾彦は、建平郡の郡都(?)であった巫城を守備していた……のかと長らく思い込んでいた(手持ちの解説本でもそうなっていた)が、実はこの時代には既に巫は呉の領土ではなかった。
『三国志』蜀書霍弋伝の注に引く『襄陽記』によれば、蜀滅亡直後(264年)に魏領となった永安城を守備して呉軍を敗退させた元・蜀将の羅憲は、魏の巴東監軍として呉に対し、晋の成立(265年)から数年後には入朝(267年)したが、268年以降にまた「任地に戻ると、呉の巫城を攻撃し奪い取った。」268年以降とはいっても、羅憲は泰始六年(270年)には亡くなっているため、巫城を攻略したのは268年〜270年の間のことである。
晋では269年に羊祜が都督荊州諸軍事(荊州軍の総司令官)となったが、羊祜伝によるとその後、詳細は不明ながら呉の領土を後略している。おそらく、羅憲はこのころ、羊祜の指揮下で巫城を攻略したのだろう。いずれにせよ、実に呉滅亡(280年)の10年も前から、巫は晋の領土だった。これは西からの水軍を怖れる呉にとってかなりの痛手ではないのだろうか。
280年時点において、晋呉の西の国境はどこだったのだろうか? 最低限、建平太守の吾彦が護った防衛拠点があるはず。
會稽典錄曰:[……]徇領兵爲將,拜偏將軍,戍西陵,與監軍使者唐盛論地形勢,謂宜城、信陵爲建平援,若不先城,敵將先入。盛以施績、留平,智略名將,屢經於彼,無云當城之者,不然徇計。後半年,晉果遣將脩信陵城。晉軍平吳,徇領水軍督,臨陳戰死。
陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) p.1395
『会稽典録』にいう。[……]鍾離徇は、兵をあずかって部将となり、偏将軍の官を授けられて、西陵の守備にあたった。監軍使者の唐盛と〔西陵一帯の〕土地の形勢を論じた際に、鍾離徇は、宜城と信陵とは建平郡の後ろ楯となる地点であるから、前もってそこに城を築いておかねば、敵が先にそこにのりこむことになるであろう、との意見を述べた。唐盛は、施績や留平といった知略を備えた名称たちがしばしばその地を通りながら、誰もそこに城を築くべきだといった者がないことから、鍾離徇の意見を取り上げなかった。それから半年が経って、晋は果たせるかな部将を遣って来て信陵に城を築かせた。晋の軍が呉の平定に向かって来たとき、鍾離徇は水軍の指揮官をつとめ、戦いの中で死んだ。
陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7 呉書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.398
この記述では、最終的に晋の水軍が攻めてくるよりも以前に、信陵が攻略されているようにもとれる。しかし、信陵は建平郡で最も東の県であり、こうなると建平郡に呉の領土が存在しなくなる。
とはいえ吾彦が建平太守だったのは、あくまで王濬が蜀の地で船を建造していたころ、それも278年には亡くなる羊祜が存命だったころのことで、いよいよ晋軍が攻めてきた時点でもなお建平太守だったかどうかは厳密にはわからない。建平郡の拠点は事前に攻略されており、吾彦が護った城は実は別の郡だったという可能性もあるだろうか?
三月壬寅,王濬以舟師至于建鄴之石頭,孫晧大懼,面縳輿櫬,降于軍門。濬杖節解縛焚櫬,送于京都。收其圖籍,克州四,郡四十三,縣三百一十三,戶五十二萬三千,吏三萬二千,兵二十三萬,男女口二百三十萬。其牧守已下皆因吳所置,除其苛政,示之簡易,吳人大悅。
房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 帝紀第三 武帝 p.71
吳亡,彥始歸降,武帝以爲金城太守。
房玄齡等撰《晉書 五 傳》(中華書局,1974年) 列傳第二十七 吾彥 p.1562
呉を平定した後、司馬炎は、呉が任じていた牧や太守などをそのまま晋のそれとして任じた。吾彦が建平太守だったとすると、そのまま務めると思われるのに、実際に彼が任じられたのは金城太守だった。しかし、
建平郡 吳、晉各有建平郡,太康元年合。統縣八,戶一萬三千二百。
巫 北井 秦昌 信陵 興山 建始 秭歸 故楚子國。 沙渠
房玄齡等撰《晉書 二 志》(中華書局,1974年) 志第五 地理下 p.456
建平郡は呉と晋の両国にそれぞれ存在していたが、太康元年(280年)に、呉の滅亡にともない、統合された。
つまり、少なくとも滅亡直前まで、呉の建平郡は存在していた。ということは、やはり吾彦は呉においては最後まで建平太守だったが、平定後には重複して不要となり、異動になったと考えた方がよさそう。
建平郡には巫、北井、秦昌、信陵、興山、建始、秭帰、沙渠の各県があった。
王濬による建平攻略
太康元年正月,濬發自成都,率巴東監軍、廣武將軍唐彬攻吳丹楊,克之,擒其丹楊監盛紀。吳人於江險磧要害之處,並以鐵鎖橫截之,又作鐵錐長丈餘,暗置江中,以逆距船。先是,羊祜獲吳間諜,具知情狀。濬乃作大筏數十,亦方百餘步,縛草爲人,被甲持杖,令善水者以筏先行,筏遇鐵錐,錐輒著筏去。又作火炬,長十餘丈,大數十圍,灌以麻油,在船前,遇鎖,然炬燒之,須臾,融液斷絕,於是船無所礙。二月庚申,克吳西陵,獲其鎭南將軍留憲、征南將軍成據、宜都太守虞忠。壬戌,克荊門、夷道二城,獲監軍陸晏。乙丑,克樂鄉,獲水軍督陸景。平西將軍施洪等來降。乙亥,詔進濬爲平東將軍、假節、都督益梁諸軍事。
房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 列傳第十二 王濬 p.1209
太康元年(280年)一月、王濬は成都を出発し、巴東監軍の唐彬を率いて呉の「丹楊」を攻め、陥落させた。ということは、この当時、呉の西端の防衛拠点は「丹楊」にあったのだろうか。しかし丹楊とはどこなのか? どう考えても揚州の丹陽郡とは別だし……。
『中國歴史地圖集』(地圖出版社)によると、西晋時代には秭帰の付近(微妙に東)に丹陽という場所がある。また下記によると巫山の東にある丹山という場所が、丹陽にあった?
郭景純雲:丹山在丹陽,屬巴。丹山西即巫山者也。
とりあえずこの丹陽=丹楊とすると、呉の建平郡内・秭帰〜信陵間にあり、ここは王濬が攻めてくる時点までは、呉の領土だった。
さて、建平太守・吾彦の所在地だが、巫以西はこの時点で元々晋領土なのでそのあたりではない。丹楊は陥落させられているので丹楊でもない。信陵には城を築いていなかったことから信陵でもない。それ以外で建平郡の長江沿いに城があったとすれば、秭帰ではないだろうか。
王濬が秭帰を陥落させていれば、記されていそうな気もする。しかし丹楊の次に王濬が攻略したことが明記されているのは宜都郡の西陵である。王濬は、蜀方面から長江を下ってやってきて、まず秭帰を攻めたが吾彦に阻まれ陥とせなかったため、そのまま丹楊に向かってそこを攻略、信陵に何らかの拠点を作り、さらに西に進んで西陵城を攻略したのだろうか。
先述の「それから半年が経って、晋は果たせるかな部将を遣って来て信陵に城を築かせた」というのが、王濬が攻めてきたときのことなのかもしれない。そして、その半年前の時点で信陵が国境であれば、城を築こうという意見が退けられるのも不自然な気がするので、秭帰あたりが国境最前線だったのだろう。
しかし、王濬は出陣してから一ヶ月以内に西陵までも陥落させている。さすがに、領土として確立して城壁などを作る時間はないから、戦の途上で一時的に陣地を築いたということなのかも。(それにしても非常な早業に思えるが……)
仮の結論
建平太守の吾彦が王濬率いる晋軍から護った城は、秭帰であり、当時の晋呉の国境であった。(あくまで推測)
公開:2011.11.09 更新:2011.11.13