施績(朱績)の経歴
施績(朱績)、字は公緒。孫権から孫晧に至るまで歴代の帝に仕え、最後は左大司馬の位に上った。父は呉の重鎮で同じく左大司馬の朱然。
※『三国志』の本伝(父の伝に付属)では「朱績」。呉後期には父の本姓施姓に戻っていることと、本人も施姓を希望していたことから、当サイトでは「施績」表記をメインにしています。
西暦 | 年 | 月 | 官職等 | 出来事 | 帝 |
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郎 | 父・朱然が高位にあったことから、朱績は郎(宮中の職務を担当する幹部候補生)に任ぜられる。 | 孫権 |
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健忠校尉 |
朱績は健忠校尉となる。 | ||||
〃 | 叔父の朱才(朱治の実子)が死去。朱績はその兵を預かる。 | ||||
234 | 嘉禾3 |
11月 |
〃 | 朱績は潘濬(太常)の配下として武陵郡の異民族を討伐する。 | |
偏将軍・ 営下督 |
朱績は偏将軍府の営下督の官(?)となり、盗賊を取り締まる(「遷偏將軍營下督,領盜賊事,…」)。 この官職は名称の区切り・内容がよくわからない。訳では「偏将軍府の営下督の官」となっている。 このころ、魯王の孫覇が親しい交わりを求めてきたが、朱績は畏れ多いとして断った。 後に孫権の後継者問題で分裂した際、朱績は孫覇ではなく孫和に与している。 |
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249 | 赤烏12 |
3月 |
平魏将軍・ 楽郷督 |
父・朱然(左大司馬)が死去。 朱績は父の仕事を継ぎ、平魏将軍・楽郷督となる。 |
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250 | 赤烏13 |
8月 |
平魏将軍?・ 楽郷督・ 大都督 |
孫権は皇太子の孫和を廃して魯王の孫覇を自害させる。 | |
11月 |
孫権は孫亮を皇太子とする。この騒動で重臣たちも派閥に分かれていたが、大都督の朱績は孫和派だった。 | ||||
12月 |
平魏将軍?・ 楽郷督 |
魏の王昶らが呉の各所へ侵攻するが、朱績ら呉軍がそれぞれ防衛する。 詳細:王昶(魏:征南将軍・仮節都督荊豫諸軍事)は、孫権の後継者争いで呉が混乱しているのに乗じて呉・蜀の制圧を提案。 王昶は江陵に侵攻し、州泰(魏:新城太守)は巫・秭帰・房陵に侵攻。王基(魏:揚烈将軍・荊州刺史)は西陵に侵攻したが、歩協が籠城して防いだ。また、戴烈(将軍)・陸凱(健武校尉?)もこれらの魏軍を防いだ。 朱績は江陵付近で王昶を迎え撃った。 戴烈という人はここにしか登場せず詳細不明だが、孫の戴淵の伝(『晋書』戴若思伝)によれば、広陵の人で、官位は左将軍まで上った。 王昶の軍は渡河して攻めてきたため、朱績の軍は一旦南岸へ逃げたが、王昶の追撃を受けながらも、夜陰に紛れて江陵城に入ることに成功。王昶は撤退を装い、討ち取った敵の首を侮辱するなどして、朱績を誘い出した。怒った朱績は、諸葛融(奮威将軍・公安督)に協同するよう連絡し、城から出て王昶を追撃する。緒戦では勝利を収めたが、王昶の伏兵に遭い、また諸葛融は了解しておきながら兵を出さなかったため、結局は追撃に失敗。朱績配下の鍾離茂と許旻は王昶軍に討たれ戦死した。 朱績と諸葛恪・諸葛融兄弟は元より仲が悪かったが、この事件により、さらに険悪になった。 王昶は「戦利品の鎧をつけた馬と甲をかぶせた首に、城の周囲を駆けまわらせて」など結構グロい作戦で朱績を怒らせて追撃させ、伏兵で打ち破った。この話は王昶伝にあり、王昶の計略を讃える記述のはずが、朱績の潔癖さがクローズアップされているのは気のせいか……。 結局、朱績は王昶を追撃して打ち破ろうとしたが、諸葛融が協力しなかったせいもあって果たせず、逆に王昶軍により損害を被ってしまった。とはいえ総合的に見れば、侵攻を防いだ呉軍の勝利だろう。 諸葛融は失態にも拘わらず、兄・諸葛恪のコネで助かる。諸葛融は、父・諸葛瑾の死去(241年)後、爵位を継いで(兄の諸葛恪は既に自身で爵位を得ていたため)公安に駐屯していた。 |
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252 | 神鳳1・ 建興1 |
4月 |
〃 | 孫権が崩御し、孫亮が即位する。 | 孫亮 |
建興1 |
鎮東将軍・ 楽郷督? |
朱績は(孫亮の即位に伴う昇進により?)鎮東将軍となる。 | |||
253 | 建興2 |
3〜8月 |
〃 | 諸葛恪が合肥新城に侵攻するが、失敗。この際に諸葛恪は、朱績に共同作戦を要請しておきながら進軍させず、諸葛融に代行させるなどした。 | |
10月 |
〃 |
孫峻がクーデターを起こし、諸葛恪を殺害する。施寛(無難督)が、朱績・孫壱(鎮南将軍)・全熙を率いて諸葛融(公安督)を攻め、諸葛融は自殺した。その後、朱績は楽郷に戻って仮節を授かった。 朱績はこのころ江陵にいたが、本拠地に戻ったのだろう。かつて父・朱然が城を築いた楽郷は、長江を挟んで江陵の南岸にあり、両軍は頻繁に連携している。 |
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254 〜 256 |
五鳳1年1月 〜五鳳3年10月 |
鎮東将軍?・ 仮節・ 楽郷督? |
朱績は、帝・孫亮の許可を得て、施績と改姓する。 父・朱然は施家の子だったが、母方の叔父である朱治の養子として朱家を継いでいた。朱然も、父の喪が明けた際に施姓に戻りたいと願い出たが、孫権の許可を得られなかった。 |
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255 | 五鳳2 |
1月〜 |
〃 | 毌丘倹・文欽の乱が起きる。 | |
256 | 五鳳3 |
9月 |
〃 | 孫峻が死去。以降、孫綝が呉を牛耳るようになるが、反対派閥との間で内乱が勃発する。施績はこの混乱に乗じて魏が侵略してくるであろうと案じ、ひそかに蜀と連絡をとり、共同して守備を固めた。 | |
257 | 太平2 |
驃騎将軍 |
施績は驃騎将軍となる。 | ||
257 〜258 |
太平2年5月 〜太平3年1月 |
驃騎将軍? |
諸葛誕の乱が起きる。魏の王昶が江陵に圧力を加えて来たため、施績・全熙は東へ(寿春への援軍として?)向かうことができなかった。 施績伝によると呉は太平2年に施績を驃騎将軍に任じたが、同5月には帰順を表明してきた諸葛誕を驃騎将軍に任じた。諸葛誕の存命中に施績が新たに任命されるのは不自然なので、先に施績が驃騎将軍になったが、5月までに別の官職になったのだろうか? |
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258 | 太平3・ 永安1 |
9月 |
〃 | 孫亮が廃され、孫休が即位する。 | 孫休 |
258 〜 |
永安初 |
上大将軍・ 都護 |
永安(元年10月〜7年7月)の初年、施績は上大将軍・都護となり、巴丘〜西陵の軍を統率する。 「永安初,遷上大將軍、都護督,自巴丘上迄西陵。」とあるが「遷上大將軍、都護,督自巴丘上迄西陵」の誤り? なお、このころ、後に施績と同時に昇進する丁奉が、孫綝排除の功により「大将軍・左右都護」となる(遷大將軍,加左右都護)。丁奉は、左都護・右都護のどちらかになった? |
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263 〜264 |
永安6年10月 〜永安7年7月 |
〃 |
魏が蜀を滅ぼし、呉は蜀地方に出兵するが、魏軍に防がれ敗退する。 詳細:10月に魏軍の侵攻が報され、11月には魏を牽制し蜀を援護するため、丁奉(大将軍)が寿春に進軍。 留平(征西将軍)には南郡の施績の元に赴いてどの方向に軍を出すか検討させ、丁封(将軍)、孫異(将軍)は沔中に進軍した。 途上で蜀が敗れたため、陸抗(鎮軍将軍)、歩協(撫軍将軍)、留平(征西将軍)、盛曼(建平太守)は魏領となった永安に侵攻しようとしたが、元蜀軍の羅憲に阻まれる。やがて胡烈(魏:荊州刺史)が(歩協らの本拠地である)西陵に侵攻してきたため、呉軍は撤退した。 この際の施績軍の行動は記載がない。留平を蜀方面に遣ったため、自身は出陣せず江陵方面を守備していたものか。 |
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264 | 永安7・ 元興1 |
7月 |
〃 | 孫休が崩御し、孫晧が即位する。 | 孫晧 |
264 | 元興1 |
8月 |
左大司馬 |
孫晧は、上大将軍の施績を左大司馬に、大将軍の丁奉を右大司馬に任命。 これ以降の施績の指揮権限(?)は記載がなく不明。大将軍・都護だった丁奉がこのとき右大司馬・左軍師になっていること、歴代の大司馬が軍師になっていることから、施績は右軍師になったのではないか。 |
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10月 |
〃 | 魏帝・曹奐が咸熙元年(呉の元興元年)10月1日に出した詔勅の中では、孫休から孫晧に代替わりした呉の状況について「敵将の施(朱)績は、賊国の名臣であるが、猜疑心を抱きみずからあれこれ推量し、〔主君に〕たいそう嫌悪されている」と評し、臣下の心が離れていることを述べている。 | |||
265 | 甘露1 |
9月 |
〃 | 孫晧は建業から武昌に遷都する。 | |
12月 |
〃 | 魏の禅譲を受けて晋が成立する。 | |||
266 | 宝鼎1 |
12月 |
〃 | 孫晧は都を武昌から建業に戻す。 | |
268 | 宝鼎3 |
9〜11月 |
〃 |
施績らを含む呉が晋の各所に侵攻するが、敗退する。 詳細:9月、孫晧は東関へ出陣し、丁奉(右大司馬)・諸葛靚は合肥に進軍した。 10月、施績(左大司馬)は(晋の)江夏に進軍したが、司馬望(晋:太尉)・胡烈(晋:荊州刺史)に敗れた。万彧(右丞相)は襄陽に侵攻したが、胡烈に敗れた。 11月、丁奉は芍陂(合肥から寿春への途上にある湖)まで進軍したが、司馬望・司馬駿(晋:安東将軍)に防がれたため撤退した。 よほど散々な結果だったのか、施績と万彧の出陣は呉書には記載がない。晋書によれば江夏に向かった施績は司馬望・胡烈に敗れたが、同時期に襄陽に向かった万彧も胡烈に敗れており、時系列が不明。この人どこにでも出現するよね……。 丁奉が攻めた方面は元々石苞が守備していたが、丁奉が計略を用いて石苞を更迭させたため、司馬望が代わって守備したようである。が、結局呉軍は勝利を収めることはできなかった。 なお、このころ呉は交趾(呉領だったが、263年5月に反乱が起きて離反していた)にも出兵したが、やはり晋軍に敗れた。 |
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270 | 建衡2 |
4月 |
〃 | 施績が死去する。 |
その他
後々、鍾離牧の息子の鍾離徇が偏将軍として西陵の守備をしていたころ、宜城と信陵に城を築いておくべきだと言った際、施績や留平のような名将も築いていなかったのだから不要であるとして却下された。しかし、やがて晋が信陵にやってきて城を築かれてしまった。この鍾離徇は晋による伐呉の役の際、水軍を率いていたが、戦死している。
施績は左大司馬という軍事の最高位まで上っており、呉においてのみならず、敵国である魏でも高名であった。実戦経験もかなり多いが、明記される功績は王昶の侵攻を防いだ程度で、その際も敵の計略につられて追撃しようとして失敗(諸葛融のせいもあるとはいえ)するなど、完全ではない。全体としてなんとなく惜しい人である。
荊州国境の総司令官
258年ごろ、上大将軍となった施績は、同時に荊州国境防衛の総司令官(具体的な名称が特にないか、不明)となった。長江沿いの各軍はそれぞれの都督がとりまとめていたが、それらをさらに施績が統括していた。本拠地は江陵もしくは楽郷のようである。
施績の死後、この総司令官としての権限は陸抗が引き継いだように書かれているが、
施績:巴丘〜西陵
陸抗:公安〜信陵
と、守備範囲は少し異なり、完全な後任というわけでもない。しかも、施績の存命時にもすでに陸抗は西陵〜建平を統括していたような記述もあり、不明な点もある。
さらにその陸抗の死後は、この総司令権限が廃止されて荊州国境の軍はまとまりを欠き、晋による攻略に繋がった、というのが一般的な見方のようである。しかし呉末の記録はかなり重要な内容についても抜けが多く、記されていないからといって存在しなかったとは言えないことが多い。
もっとも孫晧は、地方駐屯の司令官が兵力を高めてクーデターを起こすことを怖れており、施績・陸抗の後に大司馬になった諸葛靚は都を護っている。やはり実際、呉最末期の荊州の軍は、県レベルの各都督によって小規模に統括されるに留まっていたのかもしれない。