淩統の没年齢について

 淩統りょうとう(189年〜237年?)の没年齢「49歳」というのは「29歳」の誤りだ、という話が随所でみられる。これは大変。29で没してしまっては夷陵の戦いに参加できない。

 父親の淩操黄祖討伐戦で死んだとき(建安8年、203年)には15歳であったということから、淩統の生年は189年と思われる。

〔建安〕八年,西伐黃祖……

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 吳主傳 P1116

年十五,左右多稱述者,亦以死國事,拜別部司馬,行破賊都尉,使攝父兵。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 淩統傳 P1296

淩統は、このとき年が十五であったが、……淩統を別部司馬に任じ、破賊都尉を代行して、父親の兵をそのまま指揮させた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P142

 淩統が活躍する合肥の戦いは、建安20年(215年)8月に起きる。

〔建安〕二十年……八月,孫權合肥張遼李典擊破之。

陳壽撰、裴松之注『三國志 一 魏書〔一〕』中華書局、1982年 武帝紀 P45

反自益陽,從往合肥,為右部督。……拜偏將軍,倍給本兵。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 淩統傳 P1296〜1297

益陽から帰還すると、合肥への出兵に加わって、右部督に任ぜられた。……偏将軍の位を授かり、これまでに倍する兵士を与えられた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P144

 淩統27歳。この活躍により孫権の信頼を得、偏将軍となる。しかしその後は、特に名のある戦での活躍は書かれず、昇進の記述もない。当然、222年の夷陵の戦いには従軍したとは書かれていない。演義では登場しているが、創作と思われる。異民族の討伐などを行っていたが、突然、49歳で死去した記述となる。

事畢當出,會病卒,時年四十九。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 淩統傳 P1297

役目が終って任地を離れようとしているやさき、淩統は病気のため死去した。ときに年は四十九。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P144

 確かにこの空白の20年間は謎である。合肥の戦いではひどい傷を負ったが死なずに済んだとあることからも、あくまでここでは死なずに済んだものの、それが間接的原因となり、数年後に病を得て死んだのかもしれない。

 淩統が死去したとき、遺された子はまだ幼かったので、孫権が養育した。

二子,年各數歲,內養於宮,愛待與諸子同,……

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 淩統傳 P1297

二人の息子、淩烈と淩封とがいて、年はそれぞれ数歳であったが、孫権は彼らを宮中に引き取って養育し、自分の息子たちと変わりなくいつくしんだ。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P146

 49歳にして数歳の幼子しかいないというのも、この時代にしてはやや不自然である。しかし陸遜などの例に鑑みて、あり得なくはない。

 さらに、死去したとき、淩統の配下の兵は駱統の指揮下に入った。

淩統死,復領其兵。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 駱統傳 P1335

淩統が死んだあとには、淩統の配下にあった兵士たちの指揮をもまかされた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P246

 具体的にいつのことかは不明だが、20歳(建安17年、212年)で仕官した駱統伝の最初の方に出てくることから、そんなに後々のことではないという気もする。その駱統は夷陵の戦い(222年)に従軍しているが、黄武7年(228年)には死去する。

年三十六,黃武七年卒。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年 駱統傳 P1336

 となると、淩統が没したのは確実に黄武7年(228年)以前ということになる。合肥の戦いの215年以降、おそらく222年以前、確実に228年以前。222年には34歳、228年でもまだ40歳なので、少なくとも49歳は誤りである。

適当な結論

 淩統が死去したのはおそらく34歳以下、確実に40歳以下である。十の位が誤記されて「49」になったとすれば、「29」というのも信憑性がある。

追記

 『建康実録』では「年二十九卒」と具体的に記されており(なお「淩統」でなく「凌統」になっている)、いよいよ29歳没説が濃厚に。北方三国志ファンとしては遺憾ながら、淩統の没年は217年が正しいのではないかと思われる。

二十二年春,……是歲,偏將軍、都亭侯凌統卒。
……
為人性好接物,親賢愛士,輕財重義,有國士風。年二十九卒。聞之驚起,哀不自勝,使張承作誄致祭。

許嵩撰、張忱石点校『建康實録 上』中華書局、1986年 卷第一 太祖上 P16

※追記2:各記述の引用を追加しました。