朱異 - 不器用な俺様

 朱桓の息子、朱異は呉の後期に武将として活躍するが、父親譲りの激しい気性と高いプライドを持っていた。

 朱異伝の注に引く『呉書』によれば、合肥新城での戦の折、諸葛恪に献策を却下された朱異は、

諸葛恪は手紙を送ってその作戦が不可である理由を説明したが、朱異はその手紙を床にたたきつけていった、「おれの建策を用いず、前科者の意見などを聴きやがって。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P189

 ……。この俺様な訳を読んで、一気に朱異が好きになりました! おかげで諸葛恪を怒らせてしまった朱異は兵を取り上げられ、この場はクビに。とはいえ、諸葛恪のこの出兵は、彼の後の失脚に繋がる無茶なものであった。朱異としては、なんとかしようとまともな意見を述べたつもりが却下され、頭に来てしまったのだろう。

 そんな朱異の末路は、諸葛誕の乱の際に援軍に赴くも勝てずに、ときの独裁者・孫綝そんちんの恨みを買い、殺されてしまうというものだった。

 朱異の率いる援軍は大敗し、撤退する。しかし十分な備えもないままに、孫綝は再び決死の出撃を命じた。これを拒否したために、孫綝の逆鱗に触れたようである。(※追記:詳細は諸葛誕の乱参照)

 このとき孫綝に召喚された朱異を、(おそらく朱異の配下の将であった)陸抗が、もしものことがあってはと案じて行くのを止めようとした。しかし朱異はこれに反論してのこのこ出かけてしまい、案の定、殺されてしまったのである。

『呉書』にいう。孫綝が朱異に会いたいと申し入れてきて、朱異が会見の場に赴こうとしているとき、〔不測の事態の起ることを〕心配した陸抗がそれを止めたが、朱異はいった、「子通どのは、身内の者だ。なんで疑ったりする必要があろう。」そして、そのまま出かけて行った。孫綝は力の強い者に命じて会見の場で朱異を捕えさせた。朱異がいった、「私は呉の国にとっての忠臣だ。何の罪があるというのか。」その場で朱異をしめ殺させた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P189〜190

 孫綝朱異を殺したのは帝の許可も得ない独裁で、明らかに不当なものだったが、結果的には陸抗の危惧したとおりになってしまった。陸抗は、忠告を聞かないせいで、と遺憾に思ったに違いない。

 果たして朱異は、危険を察知しつつも持ち前のプライドで引き下がれなかっただけなのか。当時、呉では孫峻の後を継いでにわかに権力を手中にした孫綝と、それをよしとしない反孫綝派との間で内乱が起きていたが、ちょうど諸葛誕の乱が勃発した頃、朱異孫綝の政敵である孫壱を暗殺しようと動いていた。結局この行動には失敗するが、朱異は少なくとも反孫綝ではなかった。孫綝を疑う陸抗に対しては、孫綝は「家人(邦訳「身内の者」)」なのになぜ疑うのか、と反論している。朱異の一族と孫氏一族とは縁戚関係にあるが(なお陸抗自身も孫氏の血縁である)、この言い方からすると、朱異孫綝の個人間に近しい血縁・婚姻関係などがあったのだろうか。上官・それも事実上の呉軍トップである孫綝を「子通」とあざなで呼んでいることから、私的にも親しい間柄のようである。慎重な性格の陸抗はそれでもなお疑いを持ったが、朱異にとってみれば、さすがに殺されるとは予見できない状況だったのかもしれない。

 そもそも孫綝の命令には客観的に見て勝算がなく、朱異が拒否したのは妥当だった。しかし、諸葛恪のときの逸話から想像してみるに、必要以上に孫綝の感情を逆撫でする言い方をしてしまった可能性はある。

 判断そのものは決して間違ってはいないのに、どうにも巧くいかなかった悲運の武将、朱異。まっすぐで剛胆だが、やや慎重さを欠き、さらに他人にへつらえない俺様な性格のせいで、世渡りが下手だった。

 なお、『三国志』著者の陳寿朱異には同情的で、彼の不幸は時代のせいだとしている。

評にいう。(中略)呂範と朱桓とが思い上がって偏狭なところがありながらもその終りを完うできたのに対し、呂拠と朱異とは、そうした欠点もなかったのに禍いを被って〔命をおとすことになったのは〕、彼らが生きた時代の間に変化があったからなのだ。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7』ちくま学芸文庫、1993年、P190

 父に比べて性格上の欠点がなかったかどうかについては疑問の余地もあるが、確かに父に比べれば、常識人ではあったかもしれない。

公開:2007.03.08 更新:2011.07.18