張悌 - 忠義のセンチメンタリスト

 三国志最後の戦いである、西暦280年の晋による伐呉の役で奮戦したとされる、孫呉最後の丞相、張悌ちょうてい

「今日は私が死ぬべき日なのだ」

 晋軍は、各方面から押し寄せて着々と要所を陥落させ、ついに呉の都近くまで迫り来つつあった。軍師(現代でいう参謀の意味ではなく、軍の総帥)であり、丞相に就任したばかりだった張悌は、大司馬・副軍師の諸葛靚しょかつせいをはじめ、孫震沈瑩しんえいといった配下の将とともに、都の精鋭兵を率い、最後の希望を託されてこれを迎え撃つことになる。

 しかし、孫晧伝の注に引く『襄陽記』によれば、この最後の望みをかけた決戦をどこで行うべきかについて、指揮下の沈瑩と意見が対立する。敵軍はもはや必ず都の近くまで到達すると考えた沈瑩は、自軍は長江の南岸にとどまって力を蓄え、敵が都の近くまでやってくるのを待って戦うべきだと進言した。しかし、張悌はこの作戦を退け、長江を渡って北上し、敵軍に挑むことを決断する。

 こうして張悌率いる呉軍は長江を渡って北上し、『晋記』等によれば、まず少数で守りを固めていた張喬率いる晋軍を攻めた。しかし、この張喬の軍勢が、降伏を申し入れてくる。副軍師の諸葛靚は、この降伏は偽りに違いないから、皆殺しにすべきだと進言した。しかし張悌はこの意見を拒絶し、降伏を受け入れる。しかし、張喬軍の降伏はまさに、窮地を逃れるための偽りだった。さらに進軍し、新たに王渾周浚らの晋軍と相対した呉軍は、背後に回った張喬軍によって挟み撃ちされる格好となり、惨敗する。張悌孫震沈瑩は討ち死にし、諸葛靚はやっとのことで数百人の残兵をまとめて撤退した。

 沈瑩の主張した、長江南岸で力を蓄え、敵を引きずり込んで迎え撃つという作戦の方が、合理的だったのかもしれない。だが張悌は、彼なりの信念に基づいて、長江を渡り、積極的に北上して決戦を挑む道を選んだ。彼の言い分によれば、都の近くまでも敵軍がやって来るとなれば、兵士らは不安にかられ、収集がつかなくなってしまう、という。しかし、続く言動に鑑みて、張悌はもはや、敗けることを覚悟しているとも感じられる。もしも勝てばその勢いで逆転できるし、勝てなかったとしても「社稷の滅亡とともに死ぬのであれば、何の恨むところもない。」というのである。

 最後に張悌は、沈瑩に告げる。「もしおまえの計りごとのようにするならば、おそらく時とともに兵士たちはばらばらになり、互いになすすべもないまま敵の到来を待って、君臣ともども敵に降伏することになろう。国家の危機に命をささげる者が一人もいないというのでは、恥かしいことではないか。

 すでに呉の敗北を覚悟していた張悌は、その上で、国の心臓部を甘んじて穢すという選択はしたくなかった。どのみち滅びるのならば、形は滅びてもその精神だけは護りぬき、果敢に敵軍に立ち向かって死んでいきたかった。彼の策は、そういった情緒的な理由に基づく選択だったのではないか。

 結果として、沈瑩の作戦の方が良かった(ましであった)のか否かは、見解の分かれるところかもしれない。しかし、少なくとも諸葛靚の忠告を退けて偽りの降伏を受け容れてしまったのは、明らかな張悌の判断ミスだった。しかし彼は、その理由の一つとして、「降伏してきた者を殺すのは不祥なことだ」と説く。この判断もまた、実利よりも感情を優先してしまう、その性格ゆえだったのかもしれない。

 こうして呉軍は大敗したが、諸葛靚は辛うじて残る兵をまとめて撤退を試み、張悌にも共に退却するよう使者を送った。しかし、張悌は応じようとしない。ついに諸葛靚は自ら張悌の元へ駆けつけて手をひき、ともに退くようにと諭した。しかし張悌は「今日は私が死ぬべき日なのだ。[……]いま身をもって国家に殉じるのであれば、どうしてこれを避けたりしよう。そんなふうに私を引っぱったりしないでくれ。」とこれを拒絶。諸葛靚は涙を流しながら手を放して去るが、ほどなく張悌が討たれるさまが目に入ったという。(このやりとりについては「諸葛靚と張悌」も参照)

 自身の精神的な理想を貫こうとするあまりに、配下の将らの現実的な進言をも一蹴し、結果として大敗を招いてしまった張悌。一人の人間としては立派な人物であった一方で、国の存亡をかけた決戦の総司令官としては無能だった。本来、戦の場には向かない人物だったのではないかと思えてならない。

 もっとも、状況から考えて、たとえこれが張悌でなくもっと実際的で有能な司令官であったとしても、最終的に呉が敗北しなかったとは思いづらい。結局のところ、呉は滅ぶべくして滅んだのだろう。

張悌のキャリア

 孫呉最後の丞相となった張悌だが、『三国志』本文にはほとんど記述がなく、具体的なキャリアには謎が多い(張悌だけではなく、呉最末期の人物のほとんどに言えることだが)。彼は、丞相になる前は何をしていたのか。

 孫晧伝の注に引く『襄陽記』によれば、「孫休の時代には屯騎校尉となった」とあり、これが唯一判明しているキャリアだと思われる。孫休の時代とは258年〜264年ごろ。最終的に丞相になるのが、天紀三年(278年)夏のことである。

 天璽元年(276)に孫晧の命によって建てられた「封禅国山碑」(参考:文字拓本 魏晋 呉禪國山碑)の中には、「屯騎校尉悌」という人物の名がある。姓は不明だが、これはおそらく張悌のことだろう。しかし、そうなると彼は丞相になるほんの数年前までは、そのまま屯騎校尉だったということになる。

 屯騎校尉というのは近衛軍の武官のようである。魏では四品官の、宿衛の兵を司る官職であり、そこから丞相に昇進するような官ではなさそうなのだが、呉では制度が違うのかもしれない。

天紀三年[……]八月、軍師の張悌を丞相に任じ、牛渚都督の何植を司徒に任じた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.220

 とあるので、ともかくも彼は丞相になる以前から「軍師」であった。「軍師」とは「丞相」のような官職名ではなく、例えば「都督」のような軍の指揮権限の名称で、歴代の軍師は武官の最上位の「大司馬」が任命されており、呉軍総司令官としての位(権限)だと思われる。

 丞相になる前の張悌は、何らかの別の官職(おそらくは武官だろう)かつ軍師であり、丞相になってからも引き続き軍師だった。最終戦において張悌が呉軍総司令官だったのは、丞相だからというよりは、軍師としてなのだろう。

 張悌は襄陽の人で、諸葛靚に「あなたの家の丞相どのの抜擢をお受けした」と言っている。しかし、呉では諸葛一族で丞相となった人物はいないことから、これは元の同盟国・蜀漢の丞相である諸葛亮のことで、彼に推挙されたものと推測されている。

 追記:『建康実録』では諸葛恪が東興の戦いからの凱旋後、丞相の位についたとされていることから、この丞相は諸葛恪を指すとする意見もある。年代などを考えても、こちらの方が辻褄が合う。

神鳳元年[……]十二月[……]都督中外諸軍事、二州牧、丞相、陽都侯

許嵩撰、張忱石点校《建康實録 上》(中華書局,1986年) 卷第三 廢帝 pp.69-70

 こうして、名門の出身でこそないものの、実力を認められた張悌は、さらにときの帝に取り入って高位に上り、批判もものともせず、ついには丞相の位にまで至るという、意外にも器用な世渡りを見せる。

『呉録』にいう。張悌は若くしてその名を知られた。大官に任ぜられるようになると、積極的に時流に迎合し、帝の側近たちの利益を計ろうとしたので、知識人たちの間の評価は彼に批判的であった。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.230

 この『呉録』の記述は、『襄陽記』で強調される高潔な忠臣像とはやや異なる印象を受ける。忠誠心は厚いが、それゆえに帝に追従するような面もあったのを、それぞれの書が別の立場で記した結果かもしれない。しかし、帝に対しては従順であり、個人としての名声はあれども権力の後ろ楯はないというのは、まさに孫晧に重用されやすいタイプだろう。

 いずれにせよ張悌のキャリアは、武官とはいえ前線で外敵と交戦するようなポジションではなく、都で帝の護衛兵をまとめているような立場が中心だったのではないか。おそらくは実戦経験もなく、軍事的才能があるとも言い難い彼が、最後には呉の国の命運を一身に担って出陣することになってしまったのは、当人にとっても国にとっても、悲運だった。

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