孫権 - 苦悩の三代目

 呉の初代皇帝・孫権。三国志の英雄としては、魏の曹操や蜀の劉備と並ぶ立場ながら、孫堅孫策ときて三代目イメージの強い孫権には、愉快なエピソードが多い。若かりし頃、呂範に金をせびってみたり。酒宴で周泰を脱がせたり。壁の穴から呂蒙をこっそり見舞ったり。張昭と喧嘩した揚げ句、放火しようとしたり。ときどき酒宴での問題行動も見受けられるものの、基本的に若いころの孫権は、臣下に対して献身的。臣下が死のうものなら大いに嘆き悲しんで、その遺族にもよくとり計らってやる。一見、呉はアットホームだな、と微笑ましい。

 だが孫権は、やみくもに臣下を可愛がっていたわけではない。裴松之の毒舌にかかると、こうしたことはつまらない小人物的なご機嫌取りらしいが、孫権は、このように非常に献身的な姿勢を取らざるを得ない立場でもあった。

 長を失った一族と国(当時はまだ国とはいえないかもしれないけれど)を年若くしてまとめる立場となってしまった孫権。実力で成り上がった孫氏だが、その存続のためには、新興者に対して侮蔑的な有力者をも苦心して取り込まなければならなかった。

 当時の呉の軍事力は豪族の私兵に依存していたといい、内政面でも対外的にも、呉のトップは単純に権力を振りかざせる立場ではなく、あくまで巧くバランスを取って、持ちつ持たれつの関係を維持していかなければならなかったようだ。こうしてみると、張昭とのエピソードなど、孫権の苦悩が垣間見える気がする。

孫氏と陸氏、孫権と陸遜

 孫氏と、地元の名門である陸氏の関係性は興味深い。

 ことは袁術の将であった孫策と、袁術と対立することになった陸康との戦に端を発する。幼少時に父を亡くした陸遜は、一族の長である陸康の元で育ったが、袁術との戦に際して、一族の者をまとめて故郷の呉郡に帰されていた。三国志解説本などでは、陸康孫策に敗れた結果、陸氏が孫氏を敵視することになり、呉の基盤を築く上での穴を作ったとして孫策が非難されていることがあるが、戦そのものは、任務を全うした結果の成り行きだろう。ただ、かねてより陸康孫策を見下した態度をとっており、孫策はこれを恨んでいた。また独立して以降の孫策のやり方には、多少乱暴なところがあるようにも思え、それが生んだマイナス要素が結局、孫権の代に持ち越されてしまった面はあるのかもしれない。

 孫権孫策の後を継いで後、陸康の後を継いだ陸遜の出仕に至って、陸氏は孫氏に臣下の礼をとる運びとなり、孫氏と陸氏は、和解した。だがこれは、あくまで表面上の和解ではないかと思う。もはや孫氏の実力は止め難いものとなり、陸氏は生き残りのためにやむを得ず折れた。もちろん孫氏も喜んでこれを受け容れるものの、心から臣下として信頼しているとはとても言えないはずである。お互いに苦々しい思いを内に抱えながらの、契約的な共存関係だったのではないか。

 孫権陸遜は、各々の一族や勢力のため、自尊心に傷を負いながら結びついた者同士だったのかもしれない。だが次第にその絆は、強い信頼関係へと変化していく。夷陵の戦いにて総司令官に抜擢され大功を挙げた陸遜に、やがて孫権は、蜀との外交文書を添削させ、自らの印璽と同じものを持たせておいてそのまま決定を下させるほどの信頼を置くようになった。

 そうして陸遜は、孫呉の丞相となる。だが、ほどなくこの君臣関係は、破綻を迎えることとなった。後継者争いにおいて臣下が対立し、対抗派閥の讒言を信じた(とされる)孫権は再三陸遜に詰問の使者を送り続け、ついには憤死させる悲劇となる。

 本当に、孫権は讒言を信じたのか? そして陸遜を死に追いやったのは、ただ単純な憤りだったのか? このあたりの心情は計り知れないものがある。孫権の、陸遜(陸氏)に対する心情には結局、最後までぬぐい去れない何らか闇の部分があったのではないか。……と、いう方向に私は物語的に考えがちだけど、実際のところどうだったかはわからない。しかし、私情を押し殺し公益で結びついたきわどい関係、その中で生まれる虚とも実ともしれないつかのまの信頼関係、やがて迎えるすれ違いと破綻。そんな彼らの像に心惹かれるのである。

孫氏と陸氏、孫権と陸抗

 孫氏と陸氏が結びついた際に、孫権は自身の姪(孫策の娘)を陸遜に妻として与えた。その間に生まれた陸抗は、存在そのものがこの孫氏と陸氏のきわどい絆の象徴のようでもある。結局、破綻しかけた陸氏と孫氏の関係性は、陸抗の時代に至ってふたたび修復され、以降も婚姻関係を重ねて絆を強め、ときには猜疑しあいながらも、呉の滅亡に至るまで強固に続いた。ある意味、再三の被害を被っているにも拘わらず、代々孫氏に忠誠を尽くし続けた陸氏。疑いながらも代々陸氏を重要な地位に置き続けた孫氏。互いに本音はどうだったのか、とは気になる。

2007.03.08

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