孫晧 - 無垢なる暴君

 『三国志』きっての暴君として知られる、呉の最後の帝・孫晧そんこう(*注1)は、初代皇帝・孫権の孫にあたる。後世に残された暴虐の逸話には、亡国の君主ゆえの誇張もありそうだが、事実無根というわけでもないだろう。

 だがこの孫晧、「無垢な病んだ暴君」という奇妙な印象を受ける人物でもある。

 孫晧が、根本的に無能な君主だったとはどうも思えない。といってその行動は、単なる野心や私欲によるものとも見えない。彼の常軌を逸した行動の数々は、非常にピュアな動機であるような気がする。孫晧自身は果たして自分の心の壊れた部分に気が付いていたのか、いなかったのか。

*注1 名は「孫皓」とも。追記:「『孫晧』なのか『孫皓』なのか」参照。

生育環境の問題

 孫晧は、孫権の皇太子であった孫和そんか(長男ではないが、兄たちの死後に立てられた)の息子として生まれた。この孫和の一派と、弟の孫覇そんはを皇太子にしようとする一派とが対立した所謂「二宮の変」の結末は、孫和を廃嫡して孫覇を自害させ、末子の孫亮そんりょうを改めて皇太子に、というものだった。孫和は本来は正統な皇太子であったはずが、陰謀によってその地位を追われ、揚げ句に姉妹である孫魯班に讒言され、幽閉されてしまう。さらに孫権の死後、やがて政を牛耳った孫峻によって、孫和は正妻(孫晧の母ではない)とともに自害させられたのである。

 こうした陰鬱な環境の元、配流先に押し込められて育った孫晧だが、運命が巡り巡って、結局は帝の座を手にする。前皇帝である孫休の崩御は、折しも魏によって蜀漢が滅ぼされた直後であり、幼帝では国の危機に対応できないということから、実力を見込まれて帝位についたとされる。結局は臣下の政権争いに都合の良い存在として担ぎ出された人選ととれなくもないが、ともかくも表向き、当初は困難な国を託すに値する優秀な人物と見られていた。ところが次第に奇行や横暴が目立ち初め、擁立した臣下を失望させることになる。

 だが孫晧の特異さは、己の野心や欲望のために暴政を敷く、一般的にイメージされるところの「暴君」ではない、というところにある。その人格的な危うさゆえに、極端に人を恐れたり非現実を見たりした結果、無謀なこと、残酷なことをも無意識にやってしまうのである。こうした心の闇が形成された一因には、幼少時の家庭環境があるのではないだろうか。

二重人格

 孫晧の逸話を追っていると、暴虐な面と、奇妙に優しい面とが混在していることに気付く。善行エピソードとしては「御苑で飼われている鳥獣をにがしてやった」などというものもあり、数々の人間不信エピソードとは対照的な顔を見せる。悪行エピソードにせよ、孫晧に取り入る佞臣が犬を献上しまくった結果、一匹につき一人の兵士がついていた、などというものもあり、動物好きなようだ。

 ほかにも、やたらに大赦を実施したり、いよいよ晋に降る際には、臣下に自分の不徳を詫び、「乱れた国を去り治まった王朝に仕えるのは、不忠ではないのである。王朝が改まり文物制度が変わったからといって〔新王朝への出仕をこばんで〕みずからの志を十分に伸ばさぬことがあってはならない。諸君の今後のいっそうの努力と発展とを祝し、自愛を祈る」なんて言ったりしている。

 大赦の乱発はご機嫌取りという見方もできるが、孫晧にそんな打算はない。なぜだかわからないけれど、人心が離れちゃってどうしよう……よしとりあえず大赦だ! という感じ。正負・善悪、ともに孫晧の真実の面だと思える。そして善悪いずれにせよ、その概念が少々壊れ気味で極端で、常識からは外れている。

孫晧と張姉妹

 孫晧の、壊れた魅力(?)を印象づけられる話に、妃の一人美人とのエピソードがある。彼女の父である張布は、孫晧を帝にと擁立した一人だったが、孫晧が暴君となったのを後悔し、それが発覚して殺されてしまった。

 孫晧は張布のむすめを美人(皇妃の位の一つ)となして、寵愛した。〔あるとき〕孫晧が尋ねた、「おまえの父親はどこにおるのか」。答えていった、「悪者に殺されました。」孫晧はひどく腹を立てて、彼女を棒で打ち殺した。のちになって彼女の容貌がなつかしくなり、上手な工人に命じて木を彫って張美人の人形を作らせ、いつも座の傍に置いていた。側近の者に「張布には彼女以外にもむすめがおるのか」と尋ね、答えて「張布の大女あねむすめは、もとの衛尉の馮朝ふうちょうの息子の馮じゅんのもとにとついでおります」というと、すぐさま馮純の妻を奪って後宮に入れた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫和何姫伝注『江表伝』 pp.302-303

 寵妃に自分が殺した父のことを聞いてみたら詰られたので、カッとなって殴り殺してしまったけれど、やっぱり寂しくなってしまいました。そこでそっくりの人形など作らせて愛してみました。でもやっぱり人形は人形だし、似た子はいないかな。姉がいますよ、人妻だけど。じゃあ奪おう!……というお話。あらゆる意味で常軌を逸した理屈である。

 この逸話を読んで、孫晧の残虐さというのは、至極ピュアなそれなのだと思うに至った。常識人がこれを聞くと、その理屈の破綻ぶりに眉をひそめそうだが、彼の中では、一体どこがどう破綻なのか、全然わからないのに違いない。「おまえの父親はどこにおるのか」と尋ねたのも、わざと意地悪をしたわけではなく、本気で自分が殺したことを忘れていたのではないか、とも思えてくる。

 なお孫晧はこの姉の氏を、妹にも増して寵愛し、彼女が死去すると豪奢な葬儀のあと長らく引きこもって姿を見せなくなり、孫晧自身が死んだというデマまで生まれることになった。

孫氏遺伝子

 この孫晧の人格的危うさは、孫氏の血筋でもあるように思える。一般的には、孫堅孫策孫権らは優秀な君主(孫権は晩年以外)であり、孫休らもそこそこ無難で、孫晧だけが突然変異的な危険人物だったかのように記述されていることが多い。しかし孫策孫権らにも、顕著ではないが人格的な危うさはあった。ことに孫策は、その危うさがカリスマと表裏一体で、その結果として周囲ではなく己を滅ぼしてしまったのかもしれない。孫権のそれは細かなエピソードの端々に垣間見えるし、結局のところ、後世批判されることになる晩年の後継者問題にも繋がっているとも思える。孫晧が突出していたとはいえ、彼ひとりが特殊だったというわけではない気がするのである。

 孫晧を帝に推挙した万彧ばんいくは、その才智は孫策にも劣らないと賞賛した。なぜ敢えて、孫策の名が出されたのか。万彧孫策と実際の面識がある世代ではないと思われるが、若き孫晧の危うさと紙一重のカリスマが、語り継がれる像にどこか似ていたのかもしれない。なおこの万彧も、後に孫晧に疑われて悲劇的な死を遂げることになる。

信じるということ

 結果的に、彼は国を滅ぼした暗君という立場になってしまった。

 国境を守備していた陸抗吾彦ごげんらは、再三に渡って防衛のため中央から兵を派遣するよう嘆願したが、孫晧は頑なに聞き入れなかった。しかし、これは単なる見通しのない我儘とも言いきれない。孫晧は、謀反を起こされることを怖れるあまり、地方の高官に大きな兵力を与えることを躊躇していた。結果として西域の防衛力を低下させ続け、最後にはほとんど無抵抗なまま晋に攻略を許すことになる。病的な疑心暗鬼が、国を、自らを滅ぼしてしまった。結果を客観的に見れば、陸抗はたとえより大きな兵力を有したとしても、裏切るなどということはしなかったのではないかと思える。その一方で歩闡ほせんなど実際に裏切った重臣もいるわけで、孫晧にはやはり、信じられなかった。

 孫晧は元々、極端なまでに人間不信である。視線恐怖症で、臣下と目も合わせられない。本音を探ろうと、泥酔させては罪を暴き立て、近しい者にすら猜疑を募らせる。

 この性質に、圧倒的な国力を有する晋に対して弱小な自国という絶望が重なる。孫晧はほんとうはその理性的な部分では現実をよく理解していながら、対人面に病的な欠陥があったがために、現実的な対処に踏み出せなかったのではないか。

 孫晧の時代に晋に投降してしまった人たちの一人に、孫晧のはとこの孫秀という人物がいる。孫晧は、孫秀の権力に不安を抱いており、孫秀のほうでもそれを知り、陥れられるのではないかと危惧していた。そしてついには、家族と数百人の兵だけを連れて晋に亡命してしまった。疑心暗鬼のすれ違いである。

 人を信じられない孫晧が信じていたものは、というと、瑞祥や占いである。古代のことであるから、こうしたオカルトも現実的な政の一環ではある。しかし、孫晧の占い頼み具合は少々度を超していた。各地の瑞祥を報告させては、たとえそれが捏造であっても信じ込み、それらに因んで毎年のように改元。占いで良い結果が出ると、滅びかかっている自国の現実などまるで顧みず、逆に、天下を狙える! とまで思いこんでしまい、ついには封禅の儀式を行ったりする。一種の現実逃避なのかもしれないが、おそらくその場では、本気でそう思いこむのではないか。

 逆に占いで悪い結果が出ようものなら、その怯えようは半端ではない。暴君のお約束的行動であろう、民衆を酷使しての豪華宮殿建設も、孫晧の場合、元の宮殿の縁起の悪さが怖いから、という理由で行われる。おそらく、欲望のための周到な言い訳などではないのである。臣下に諫められても「じゃあ縁起の悪いところに住めって言うのか!」と本人は大真面目に悲劇の主人公。

 しかし最後には、自分の不徳から生じた凶兆をも吉兆だと信じた自分が愚かだった、と後悔して、母方の叔父何植かしょくに泣きついたりもしてしまう。結果として暴君であったのは事実だが、必ずしも本人の性格にのみ問題があったわけではなく、現代の概念から言えば孫晧には、なんらかの人格障害の診断が下るのではないだろうか。

再び、生育環境の問題

 『三国志』の著者陳寿は、孫権の廃嫡問題が呉の滅亡の遠因になったと評しているが、注を付けた裴松之はいしょうしは、それに反論する。

臣裴松之が思うに、孫権は、罪もない息子を勝手に廃して、乱の兆をつくったとはいえ、国の滅亡は、もちろん暴虐な孫晧にその原因があったのである。もし孫権が孫和を廃さなかったなら、孫晧が正式の世継ぎとなって、結局は滅亡にいたったのであって、事態に何の違いがあったであろう。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 呉主伝 第二 pp.161-162

 しかし、父孫和が廃嫡されることなく、順当に世継ぎとなるような健全な環境であったなら、孫晧の、これほどまでに人の心を信じられない、病的な性格が形成されることはなかったのではないか。呉が滅亡しなかったかどうかはともかく、暴君と呼ばれるような存在にはならなかったのではないか、と思えてならず、この裴松之の意見には賛同しかねる。

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