呉の歴代大司馬

大司馬は軍事の最高役職。書かれていないだけで、他にもいる可能性大。皆して在任期間が短い。若造が任命されることはまずないので、在任のまま死去する人が多いせいだとしても、一ヶ月未満〜最長で七年弱である。滕胤に至っては、陰謀に利用されただけという感じ。

呂範りょはん 字:子衡しこう (?-228) 在 228-228.5?

多分、彼が初代大司馬。228年に任じられたが、ほぼ同時に死去。
というわけなので、実際には大司馬としては何もしていない。

その後は長らく不明で記述発見できず。

朱然しゅぜん 字:義封ぎほう (182-249) 在 246.9-249.3

全琮ぜんそう 字:子璜しこう (?-247) 在 246.9-247.1

246年に大人事異動があり、朱然が左大司馬、全琮が右大司馬となる。
しかし全琮は四ヵ月後に死去、朱然も二年半ほどで死去。

呂岱りょたい 字:定公ていこう (161-256) 在 252-256.9

252年、孫亮の即位に伴い、呂岱が大司馬に任命される。
しかし、呂岱はこの時点でなんと九十二歳(数え年)。
さすがに四年後に死去。しかし折しもこのとき内紛が勃発しかけており、彼の死は非常にタイミングの悪いこととなってしまった。

滕胤とういん 字:承嗣しょうし (203-257) 在 256.9-256.9

呂岱の後任が、一応はこの人。
256年、丞相の孫峻が死去し、孫綝が後を継ぐことを危惧した呂拠らは名声のあった滕胤を丞相に推挙。しかし孫綝の画策によって滕胤は丞相ではなく、折しも呂岱の死去によって空位となった大司馬に任命され(て武昌駐屯の身となり中央政権から遠ざけられ)てしまった。呂拠と滕胤は孫綝を討とうと図ったが敗れ、結果として滕胤は大司馬就任から一月も経たずして刑死する。

施績しせき 字:公緒こうしょ (?-270) 在 264.8-270.4

丁奉ていほう 字:承淵しょうえん (?-271) 在 264.8-271

264年、孫晧の即位に伴い、施績が左大司馬、丁奉が右大司馬となる。
施績(朱績)は朱然の息子なので、親子二代で大司馬に就いていることになる。
施績は六年後に死去。丁奉も七年後には死去。

陸抗りくこう 字:幼節ようせつ (226-274) 在 273.3-274.7

273年、任命される。一年後に死去。
彼は四十八歳(数え年)で任命されているので、年齢の不明な人もいるものの、一番若い部類ではないかと推測。

諸葛靚しょかつせい 字:仲思ちゅうし (?-?) 在 ?-280

伝もなく、任命時期は不明だが、晋書の息子の伝によれば呉の大司馬だった。
晋との決戦に際しては、丞相・張悌の指揮下で戦うものの敗戦し、呉は滅亡して三国時代は終焉を迎えた。

2007.03.08

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