呉の歴代丞相

 丞相の移り変わりをみると、呉という国が破綻していく過程が見えて興味深い。顧雍陸遜歩騭までは、納得の人選のように思える。しかし孫権の晩年空位となり、死後は孫峻孫綝コンビによる乗っ取りで最悪の状況に。その後は濮陽興万彧など帝の権利争いに纏わるコネっぽい人事が続き、陸凱は国の内部からの崩壊を食い止めるべく尽力したものの成果は上がらず、最後の張悌もこの期に及んで任命されるには役者不足の感があった。

孫邵そんしょう 字:長緒ちょうしょ (163-225) 在 222-225.5

222年、実質上の呉の成立とともに任命された初代丞相。にも拘わらず『呉書』に立伝されなかったために知名度は低い。
北海郡の人で、孔融に用いられ、劉繇に仕えた後、孫権に従った。

顧雍こよう 字:元歎げんたん (168-243) 在 225.6-243.11

225年、前任者の死去に伴い任命され、二十年近くにわたって丞相を務めた。呉郡呉の人。

陸遜りくそん 字:伯言はくげん (183-245) 在 244.1-245.2

244年、前任者の死去に伴い任命される。呉郡呉の人。
しかし孫権の後継者争いに関連して、一年後に死去。

歩騭ほしつ 字:子山しざん (?-247) 在 245.9-247.5

245年、前任者の死去に伴い任命される。
二年後に死去。

空位?

やがて孫権が崩御し幼帝の孫亮が即位するが、その前後、丞相は空位であり、実権は太傅の諸葛恪しょかつかく(203-253)に移った。
※『建康実録』では諸葛恪は神鳳元年(252年)12月には丞相になったとされる。諸葛恪は253年、孫峻に殺される。

孫峻そんしゅん 字:子遠しえん (219-256) 在 253.10-256.9

253年、諸葛恪誅殺の功績により任命される。といってもこの頃は幼帝・孫亮に実権もなく、孫峻が実権を駆使すべく、強引に丞相になったのかと。
二年後に死去し、再び内紛が深刻化。

孫綝そんちん 字:子通しつう (231-258) 在 258.10-258.12

258年、内乱を勝ち抜いてきた孫綝孫休を即位させ、ついに丞相に。
当初孫綝孫休にも怖れられ好き勝手にしていたが、いよいよクーデターを画策していると疑われ、誅殺される。

保身のためとはいえ、孫綝の処刑は孫休の数少ない偉業のような気がする。しかし孫休に積極性がみられたのはこのあたりまでだった。そしてまたその後しばらく丞相は空位か。

濮陽興ぼくようこう 字:子元しげん (?-264) 在 262.10-264.11

262年、任命される。
二年後、孫休が崩御。濮陽興らは孫晧を即位させる。
しかし一年も経たないうちに孫晧を擁立したことを後悔していると万彧に讒言され、孫晧に誅殺される。

陸凱りくがい 字:敬風けいふう (198-269) 在 266.8-269.11

万彧ばんいく 字:文彬ぶんひん (?-272) 在 266.8-272

266年、陸凱が左丞相、万彧が右丞相に任命される。
突然、孫晧はこれまで一人だった丞相を左右に置いた。陸凱の権勢を畏れた孫晧による、権力を分散させる計画だろうか。
陸凱は三年後に死去。万彧は六年後に孫晧の恨みをかって自害する。

えん 字:? (?-?) 在 ?-?

276年ごろの謎の丞相。
「封禅国山碑」に名が記されているが、姓は不明。

張悌ちょうてい 字:巨先きょせん (?-280) 在 279.8-280.3

279年、任命される。
しかし僅か半年ほどの後、晋による侵攻戦において戦死。呉は滅亡した。