司馬昭の性格と人物像 2 - 司馬昭は、他人の「負の心」が読めない

 「司馬昭の性格と人物像・1」の続編として、表題のような司馬昭しばしょうの性格の「欠点」を考える。

目次

司馬昭は、孫綝の行動を過大評価した

 司馬昭が敬愛し支えていた兄・司馬師しばしが、毌丘倹かんきゅうけん文欽ぶんきんの乱の征伐に赴いた先で急逝する。司馬昭はその後を継いで政権を取ることになったが、数年後、今度は諸葛誕が呉と結託して反乱を起こす(詳細は「諸葛誕の乱」参照)。司馬昭の敵となった呉軍の総大将・孫綝そんちんは、元より才徳を評価される人物とは言い難く、最後には命令を拒否された怒りから、現場の総司令官である朱異しゅいを殺害してしまう。

朱異以軍士乏食引還,大怒,九月朔己巳,殺鑊里

陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) p.1154

朱異は、軍士たちの食料が欠乏してきたことから、軍を纏めて帰還した。孫綝はこれに激怒し、九月の朔、己巳の日に、朱異を鑊里で殺した。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫亮伝 pp.174-175

授兵三萬人使死戰,不從,斬之於鑊里,而遣弟救,會敗引還。旣不能拔出,而喪敗士衆,自戮名將,莫不怨之。

陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) p.1447

孫綝は、兵三万を授けて朱異に決死の攻撃をかけさせようとしたが、朱異がその命令を拒否した。孫綝は鑊里において朱異を斬罪に処し、かわりに弟の孫恩を救援におもむかせた。[……]孫綝が、諸葛誕を包囲の中から救い出すことができなかったのみならず、兵士たちを戦いの中で多数失い、みずから声望のある部将を誅殺したりしたため、人々はみな彼に不満を懐いた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 8 呉書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 孫綝伝 p.137

 呉でも内紛が起きたばかりだったが、朱異は本来孫綝派の人物であり、ここで出撃命令を拒んだのは、呉軍に勝機がなく損害を増やすだけだと判断したからだろう。しかし短気な孫綝は、その場の怒りに任せて味方を殺してしまった。こうした孫綝の行動は横暴として呉の人々に批判され、やがてその滅亡に繋がっていくことになるが、敵として孫綝の行動を観察していた司馬昭の見解は少し異なっていた。

帝曰:「不得至壽春,非其罪也,而人殺之,適以謝壽春而堅意,使其猶望救耳。若其不爾,彼當突圍,決一旦之命。或謂大軍不能久,省食減口,冀有他變。料賊之情,不出此三者。今當多方以亂之,備其越逸,此勝計也。」

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 文帝紀 p.34

 帝(司馬昭)は言った、「朱異は寿春に到達できず、罪があったわけではないが、呉の人は彼を殺した、これは寿春に謝意を示して諸葛誕の意を堅くさせ、なお救援の望みを持たせるためであろう。そうしなければ、彼(諸葛誕)は包囲を突破し、命を決してしまった。大軍は長くは持ちこたえられず、糧食を節約し人数を減らし、他の変事を待ち望むという。敵軍の実情を推測するに、この三点を超えない。今多方面からこれを乱させ、その挫きに備えるべきであり、これこそ勝利の計である。」

 司馬昭はこうした孫綝の行動を、呉軍の策略と考えた。そこから敵の切羽詰まった状況を推察し、勝利の機会に繋げる。

 孫綝とは対照的に、司馬昭は気長で鷹揚な性格であり、私情で味方を殺すようなことは滅多にしない。そんな司馬昭には、最大の味方のはずの朱異を罪もないのに殺すという孫綝の行動はいかにも非合理に映り、策略に違いない、と考えたのだろうか。

 逆にいえば司馬昭孫綝の、結果として自軍の損害を招こうとも怒りに任せて行動してしまう、ある意味では人間らしい弱さからくる心境を、推し量ることはできなかったのである。

司馬昭は、曹髦の憎悪を理解できなかった

 やがて、司馬昭にとって生涯最悪の事件が起きる。長らく続く司馬氏政権下で実権を失っていた皇帝・曹髦そうぼうが、権力を取り戻すべく、自ら武器をとって司馬昭を殺害しようと挙兵したのである(詳細は「高貴郷公の変」参照)。曹髦は、皇帝をも恐れず立ち向かった賈充かじゅうの指揮下で返り討ちにされ、司馬昭らは曹髦に皇太后襲撃の罪を着せて皇帝の名を剥奪した。この事件の結果、司馬昭の悪名は後世に語り継がれることになってしまった。

 果たして、司馬昭はこの事件を未然に防ぐことはできなかったのだろうか。兄・司馬師は、素行に問題のあった前皇帝・曹芳そうほうを、皇帝に相応しくないと上奏し、廃位するに至っている。皇帝が臣下に「不徳」と見なされその座を追われるという時代だった。一説には曹芳は、許允きょいんによる司馬昭を殺害しその指揮下の兵を奪って司馬師を廃除する計画に協同しており、それを知った司馬師が廃位を計画したともされる(斉王紀注『世語』『魏氏春秋』)。このときの司馬師同様に、曹髦の治世下で司馬昭が身の危険を感じていたとすれば、理由をつけて曹髦を廃位することで、事件を回避できた可能性はあった。

 許允のクーデターは、曹芳が怖じ気づいて未遂に終わったが、曹髦曹芳とは異なり勇敢で自尊心が高く、かつ日頃から短気な傾向を見せる人物である。それでも、曹芳の時代に比べ司馬氏一族の権力も盤石となり、敵なしといった状況も手伝ってか、司馬昭はさほど曹髦を警戒していなかったようで、ついには皇帝自ら剣をとって襲撃してくる事態にまで発展してしまったのである。

 事件の少し前、曹髦が自分の境遇を諷した詩を読み、司馬昭がそれを不快に思ったという逸話がある(高貴郷公紀注『漢晋春秋』)。自分の存在が快く思われていないことは当然、司馬昭も承知していただろう。それでもなお、「この手で殺してやる」とまで思われているとは、察することができなかったのだろうか。

 挙兵した曹髦の手勢は僅かで、武装も不十分だった。皇帝を傷つけることを憚った司馬昭側の軍勢は積極的に剣を交えることができず、一時は曹髦が優勢に立つに至った(賈充伝)とはいえ、敗北することも覚悟での決起だったことは、曹髦本人の言葉からうかがえる。

 皇帝の権力を取り戻すため、敗北も覚悟で、自ら臣下を討伐する。そんな過激ともいえる曹髦の心境、そこに至るまでの鬱屈した心理、そして自分に向けられる巨大な憎悪を、司馬昭は充分に察知できなかった。これもまた、司馬昭自身の寛容でポジティブな性格が、悪く作用した結果なのかもしれない。

司馬昭は、陳泰の自殺願望を察知できなかった

 曹髦の事件に絡み、さらに後世、司馬昭の悪評を高めた大きな要素は、襲撃してきた曹髦を返り討ちにした張本人である、賈充の罪を問わなかったことだろう。司馬昭の親友でもある配下の陳泰ちんたいは、賈充を処刑するよう進言したが、司馬昭賈充を殺すことはできないとして拒否した(陳泰伝注『晋紀』『魏氏春秋』ほか)

 司馬昭にとって、賈充もまた信頼厚い腹心の一人であった。かつ、実質上の主である司馬昭の命を守るため、皇帝にすら立ち向かう決断をした唯一の人物なのである(賈充の前に、司馬昭の弟である司馬伷曹髦を迎え撃つも、結局は皇帝を憚って撤退している)。皇帝を討ったといえども、そんな人物を切り捨てることはできない。この判断は、司馬昭の甘さから来たものかもしれない。

 一方、賈充の処刑を却下された陳泰は、司馬昭との密議の場を去り、自殺を選んだ。陳泰の進言は、曹髦を殺したとして司馬昭が天下の人々に批判されないように、という意図で行われている(世説新語注『漢晋春秋』)司馬昭を不利にすまいとする政治的な判断に基づく進言を、いわば「私情」で却下された陳泰は、司馬昭が皇帝殺しの汚名を着せられる予感に絶望したのだろうか。詳細な理由は不明だが、司馬昭の元を去る時点で、心は決まっていたかもしれない。少なくとも、最終的には死に至るほどの感情がそこにあったはずである。

 次策を問う言葉を拒絶された司馬昭は沈黙し、陳泰はその場を去り、命を絶つことになった。だが、司馬昭はなぜ引き止めなかったのか。司馬昭にとって、賈充が大罪をもってしても処刑できない大切な味方であったのと同様、陳泰もまた失いたくない味方である。もしも陳泰がその場で死をほのめかせば、事態は違っていたかもしれない。だが司馬昭は、目の前の陳泰の死を選ぶほどの負の感情に満ちた心に、気づくことができなかったのではないだろうか。結果として司馬昭は、この親友を永遠に失うことになってしまった。

司馬昭は、善意を信じ、悪意を信じない

 曹髦の一件は結局、魏の朝臣の司馬氏支持を揺るがすことはなく、やがて司馬昭は蜀を滅ぼし呉へも圧力をかけ、魏の天下統一に向けて着実に道を進めていく。そんな中、司馬昭に寵愛され、蜀討伐にも貢献した鍾会しょうかいが裏切って反乱を起こし、自滅するという事件が起きていた。

 鍾会は才能を評価される一方、その利己的な性格から、司馬昭の妻の王元姫おうげんき鍾会の外甥の荀勖じゅんきょく、果ては実兄の鍾毓しょういくにまで危険視されていた人物だったが、司馬昭は彼らの忠告をとりあわずにいた。

 配下の邵悌しょうていは、蜀への出陣に際して鍾会の起用に反対し、司馬昭に直訴したが、たとえ鍾会が反乱を起こしても成功はしないとして退けられていた。鄧艾とうがい鍾会らが蜀を平定した後、鍾会鄧艾の不法行為を告発する事態が起き、これに対して司馬昭は、鄧艾を捕らえるのに協力すると称して自ら遠征に赴くが、その真意を怪しんだ邵悌と再び問答が起きる。

復曰:「鍾會所統,五六倍于鄧艾,但可敕,不足自行。」文王曰:「卿忘前時所言邪,而更云可不須行乎?雖爾,此言不可宣也。我要自當以信義待人,但人不當負我,我豈可先人生心哉![……]

陳壽撰、裴松之注《三國志 三 魏書〔三〕》(中華書局,1982年) p.794

邵悌はふたたび具申した、「鍾会が統率している軍勢は、鄧艾の五、六倍ございます。ただ鍾会に鄧艾を捕えよとお命じになればよろしいので、ご自身出かけられるほどのことはありますまい。」文王はいった、「卿はこの前の発言を忘れたのか。前とちがって行く必要はないだろうなどというのか。とはいうものの〔わしの〕この言を表沙汰にしてはならぬぞ。わしは信義をもって人を扱おうと決心している。ただ他人にわしをうらぎらせぬというだけではないのだ。それを人より先にわしのほうから疑ってよいものか。[……]

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4 魏書Ⅳ』(ちくま学芸文庫、1993年) 鍾会伝 p.309

 司馬昭は、鍾会が裏切る気配を察知していた。それでも先ずは、人を信じてみせることを重んじていたのである。

 やがて鍾会の反乱の報が齎されるが、その際、鍾会の身内だということで、今度は荀勖が周囲に疑いの目を向けられることになった。

鍾會謀反,審問未至,而外人先告之。帝待素厚,未之信也。曰:「雖受恩,然其性未可許以見得思義,不可不速爲之備。」帝卽出鎭長安,主簿郭奕、參軍王深從甥,少長舅氏,勸帝斥出之。帝不納,而使陪乘,待之如初。

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 荀勖伝 p.1153

 鍾会が謀反を起こしたとき、まだ確かな情報がもたらされないうちに、外部の人間が先んじて報告してきた。帝(司馬昭)は鍾会を平素から厚遇していたので、これを信じなかった。荀勖は言った、「鍾会は恩を受けていたといえども、その性格はおよそ『利を見れば道義を考える』ということができません。速やかに備えないのはよろしくないでしょう。」帝は直ちに長安に赴いて守備したが、主簿の郭奕かくえき・参軍の王深おうしん荀勖鍾会の従甥であり、母方のおじの家(鍾氏)で育ったことから、帝に彼を排斥するよう勧めた。帝は〔この意見を〕採用せず、荀勖を車に供として乗せ、以前と変わらぬ待遇をした。

 こちらでは、司馬昭鍾会の反乱の報を疑っており、荀勖の進言によって遠征したとされる。鍾会伝とは時系列の矛盾もあるが、少なくとも司馬昭は一貫して、表面的には鍾会の反意を信じないという態度をとった。一方で、荀勖の忠誠については信じていた。実際に荀勖は以降も忠実な腹心として活躍するが、司馬昭は基本的に人の善意を信じることを選ぶのである。

司馬昭は、司馬炎の不安を察知できなかった

 蜀を平定した後、晋王となった司馬昭は、その太子として、長男の司馬炎しばえんではなく、その弟の司馬攸しばゆうを立てたいと考えていた。

 この意向に臣下らは批判的だった。しかし司馬昭にはむしろ、司馬攸こそが正統な晋王の後継者であると考える根拠があった。司馬攸は幼少期から、実子がいなかった司馬師の嗣子となっており、司馬師の死後はその家を継いでいたのである。

初,文帝景帝宣帝之嫡,早世無後,以帝弟爲嗣,特加愛異,自謂攝居相位,百年之後,大業宜歸。每曰:「此景王之天下也,吾何與焉。」將議立世子,屬意於何曾等固爭曰:「中撫軍聰明神武,有超世之才。髮委地,手過膝,此非人臣之相也。」由是遂定。

房玄齡等撰《晉書 一 紀》(中華書局,1974年) 武帝紀 p.49

 そのはじめ、文帝(司馬昭)は、景帝司馬師)は宣帝(司馬懿しばい)の嫡子であるが、早世して跡継がなく、帝(司馬炎)の弟の司馬攸を跡継としていたため、とりわけ〔司馬攸を〕可愛がり、自分は〔景帝に〕代わって宰相の位にいるが、自分の死後には、大業は司馬攸に返すのが当然だと考えていた。常に「これは景王の天下なのだ、どうして私が関与できようか。」と言っていた。太子について議論しようとしたとき、意向は司馬攸に集まっていた。何曾かそうらは厳しく諫めて「中撫軍(司馬炎)は聡明で神のごとく勇武であり、世にならぶものがない才を持っています。髪は地につき、手は膝を超えており、これは人臣の相ではありません。」と言った。このためついに〔太子は司馬炎と〕決定した。

 司馬昭は、あくまで司馬氏の嫡流は亡兄・司馬師の家であり、自分は代わりを務めているにすぎないと考えていた。兄に、父と同等の王位を追贈したのも、この姿勢からくるものだろう。よって司馬師の跡継である司馬攸が国を継ぐべきである。司馬昭の心の中では筋が通っていたとしても、現に晋王の位を授かったのは司馬昭で、その長男司馬炎にとっては理不尽な話である。

 司馬炎に相談された何曾らは司馬昭を諫め、結局は司馬炎が太子に立てられた。やがて、その司馬炎は晋王朝の初代皇帝の座に就くことになるが、今度は司馬炎の後継者問題が勃発する。

 晋の朝臣の多くが、皇太子の司馬衷しばちゅうが暗愚であるとして、皇帝の弟である司馬攸に心を寄せるようになっていた。これを危険視した荀勖らの進言により、司馬攸は封国へ赴かせる形で都から遠ざけられることになった。司馬炎は、これに反対した臣下らを左遷するなど強硬な態度をとり、司馬攸は憤怒から病を発して死去するという悲劇的な結末に終わる。

 司馬攸の名望が高まった背景には、景帝・司馬師の後継という立場もあっただろう。司馬炎は自身が太子となった際に引き続き、またもこの弟に本来盤石なはずの立場を脅かされることになった。その不安を招いた一つの因は、父である司馬昭の「景王(司馬師)の天下」を望む意向と態度だったともいえる。

 司馬昭は、自身の兄を敬愛してあくまでも立て続け、その兄にも最後まで信頼されていた。それゆえ、兄が弟を死に至らしめるような、古今存在した悲劇への懸念が薄かったのだろうか。同時に司馬昭は、嫡男たる自分をさしおいて弟を寵愛する父を見つめて育った司馬炎の心中に長らく燻っていたであろう不安の火種に、気づくことができなかったのかもしれない。死の間際になって初めて子らの将来に不安を抱いたようだが、些か遅すぎたようである。

司馬昭は、他人の「負の心」が読めない

 孫綝の不条理な怒り、曹髦の鬱屈と憎悪、陳泰の自殺願望、我が子司馬炎の不信と不安、といったネガティブな思い、負(マイナス)の心情を、司馬昭は悉く察することができなかった。それは、常に人の善意を、ポジティブなプラスの心を信じようとした姿勢の裏返しともいえる。

 司馬昭自身は、滅多と何かに激怒することもなく、鬱々と他人を内心で憎悪することもなく、死のうとしたりすることもない、寛大で穏やかで前向きな人間であった。そんな自分自身の感情を基準に、人の心は基本的にそういうものだと、無意識に思ってしまったところもあるのかもしれない。司馬昭の善き性質の裏面が、往々にして、予期せぬ悲劇を招いてもいったのである。

2017.01.29

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