晋呉決戦にて・諸葛靚と張悌

 三国志最後の決戦といえる、晋による伐呉の役に際し、ときの呉の大司馬・副軍師であった諸葛靚しょかつせいは、丞相・軍師であった張悌ちょうていの指揮下で出陣するが、結果、呉軍は大敗した。(詳細は「張悌 - 忠義のセンチメンタリスト」参照)

 孫晧そんこう伝の注に引く習鑿歯しゅうさくし『襄陽記』によると、諸葛靚は残る兵をまとめて撤退を試み、張悌にも退くよう進言したが、張悌は応じようとしない。諸葛靚はついに自ら張悌の元に赴き、その手を引いてまで逃げようと諭すが、張悌はあくまでもそれを拒否し、呉の国に殉じる道を選んだという。

 この諸葛靚張悌のエピソードは、滅びゆく呉に殉じた張悌の忠義を賞賛する逸話として語られる。必然、ここで討ち死にせずに撤退する道を選んだ諸葛靚は、比較して不忠な印象にされがちだ。実際、『三国志演義(三国演義)』やそれを下敷きとした作品において、諸葛靚張悌に降伏をすすめるも拒絶される役回りとなり、忠義を貫いて討ち死にする張悌の引き立て役にされてしまう。物語上の脚色はやむを得ないが、実際には諸葛靚は、決して降伏を促すようなことはしなかったし(一族の仇敵である晋に降るのは、彼の選択として最もあり得ないものである)、撤退の判断は、決して臆病や不忠ゆえではなかった。

 そもそも、元はといえば総司令官たる張悌が、諸葛靚や、配下の沈瑩しんえいの現実的な意見や諌言を悉く受け容れず、情に流されて敵に騙された結果、危機に陥ったのである。

 『襄陽記』によれば、諸葛靚張悌の手を引き、撤退させようと諭す。

諸葛靚與五六百人退走,使過迎不肯去,自往牽之,謂曰:「(且夫)〔巨先〕,天下存亡有大數,豈卿一人所知,如何故自取死爲?」

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年、P1175

諸葛靚は五、六百人を纏めて退却しようとし、使者を張悌のもとにやっていっしょに逃げるよう告げさせた。張悌がそこを動こうとしないので、諸葛靚がみずから行って張悌の手を引っぱっていった、「巨先(張悌)どの、国家の存亡には大きな命運があるのであって、どうしてあなた一人でどうにかできるようなものであろう。なぜすすんでみずから死を選ぼうとされるのか。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6』ちくま学芸文庫、1993年 孫晧伝注『襄陽記』 P229

 これが冷徹な、ある意味では現実的な諸葛靚の考え方である。これに対して張悌は、涙を流しながら答える。

仲思,今日是我死日也。且我作兒童時,便爲卿家丞相所拔,常恐不得其死,負名賢知顧。今以身徇社稷,復何遁邪?莫牽曳之如是。」

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年、P1175

「仲思(諸葛靚)どの、今日は私が死ぬべき日なのだ。それに加え、私が子供であったとき、あなたの家の丞相(諸葛亮)どのの抜擢をお受けしたが、つねづね、死に場所を得ずして賢者の知遇にそむくことになるのではないかと恐れてきた。いま身をもって国家に殉じるのであれば、どうしてこれを避けたりしよう。そんなふうに私を引っぱったりしないでくれ。」

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6』ちくま学芸文庫、1993年 孫晧伝注『襄陽記』 P229

 もしも諸葛靚張悌のこの言葉に共感し、納得したならば、ともに死ぬ道を選ぶこともできた。しかし、彼はただ涙を落としてその手を放す。

流涕放之,去百餘步,已見爲軍所殺。

陳壽撰、裴松之注『三國志 五 吳書』中華書局、1982年、P1175

諸葛靚は涕を流しつつ手を放した。百余歩ばかり行ったとき、はやくも張悌が晋の軍に殺されるのが目に入った。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6』ちくま学芸文庫、1993年 孫晧伝注『襄陽記』 P229

 諸葛靚は元来、敵国たる魏の人間であった。父である諸葛誕の乱によって人質という立場で降ってきた彼は、呉から見れば余所者であり、自らの所属すべき国家・忠誠を向ける対象が、やむを得ず変わってしまうこともある、と身をもって知っている立場でもある。その諸葛靚にとって、ここで張悌の語る、一つの国に忠義を捧げて死ぬべきであるという純粋なまでの思いは、厳しい言葉として響いたかもしれない。諸葛靚には、張悌の思いは真には理解できなかったか、あるいは理解してなお、異なる道を選んだがゆえの涙だったのか。

 厳しい状況の中、諸葛靚は、なおも現実を見つめていた。

 張悌の、軍師(総司令官)という立場でありながら、まだ撤退が可能な状況で自ら死を選ぶことは、見方を変えれば将としての責任放棄である。残された副軍師・諸葛靚には、残った兵をとりまとめて生き延びさせなければならないという、司令官としての責任感も生じただろう。

 張悌が一臣下として心の「忠」を重んじて死を選ぼうとするのに対し、諸葛靚は可能な範囲でこれ以上の被害を食い止め、司令官としての「忠」を全うしようとした。どちらがより忠義であったのか、比べることはできない。それぞれの価値観や理想の差であり、それぞれの正しい選択だったのだろう。

 『晋書』によれば、このとき同じく出撃した孫震沈瑩も、張悌とともに戦死した。

王渾周浚丞相張悌戰于版橋,大破之,斬及其將孫震沈瑩,傳首洛陽

房玄齡等撰『晉書 一 紀』中華書局、1974年 武帝紀 P71

王渾周浚は呉の丞相の張悌と版橋で戦うと、大いに撃ち破り、張悌とその配下の将軍孫震沈瑩を斬って、その首を洛陽に送った。

 その中で唯一、諸葛靚だけが残った兵をまとめて撤退したのである。つまり諸葛靚の判断と選択の結果、呉軍は壊滅を免れた。

 逸話のドラマ的な誇張もあろうが、総司令官が討たれる現場が目に見えるほどの場所にいながらも軍の退却に成功している諸葛靚は、優秀な指揮官といえるだろう。実際、ここに至るまでも諸葛靚の判断の方が正しかったのに、張悌がその意見を容れなかったために、事態は悪化の一途を辿ったのである。

 諸葛靚の、明記される戦勝の功は民衆反乱の鎮圧くらいだが、当時の直属の先輩格と思われる丁奉とともに晋軍と戦ったこともあり、おそらく戦に関しては張悌より経験を積んでいた。逆に主に近衛軍に携わっていた張悌は、このときはじめて外敵との実戦の司令官になった可能性が高い。

 歴代の大司馬が軍師の権限を持っていることから、状況が少し違えばこのときの呉軍総司令官が諸葛靚だった可能性もあっただろう。だが、この時期に限っては丞相の張悌が軍師だったために、彼は副軍師の立場であり、張悌の決定には従わざるを得なかった。

 いずれにせよ、彼ら自身も自覚していたように、呉はもはや滅亡するしかない状況にあった。たとえ張悌でなく諸葛靚が総司令官であったとしても、結果に大差はなかったかもしれない。しかし、国に殉じることで後世に名を残した張悌らの陰で、一人最後まで冷徹に司令官であり続けようとした諸葛靚の健闘は、もっと評価されてもいいのではないだろうか。

 こうして撤退した後の諸葛靚については、「晋呉決戦にて・諸葛靚と司馬伷」にて。