諸葛靚と父と司馬炎 - 友情と孝道の狭間で

諸葛靚と父・諸葛誕

 諸葛靚しょかつせいは、諸葛誕しょかつたんの末子である。

 諸葛誕は、呉の諸葛瑾・蜀の諸葛亮らと同じ琅邪の諸葛氏の一族で、魏に仕えていた。だが魏王朝の末期、司馬氏の専横に対して反旗を翻すことになる。諸葛誕は呉に帰順して救援を要請するべく、子の諸葛靚を人質として呉に送った。

 だが、一年近く続いた籠城戦の結果、諸葛誕と呉軍は司馬昭率いる魏軍に敗れ、諸葛誕は戦死する(追記:詳細は諸葛誕の乱参照)。謀叛に対しては「夷三族」(三族を夷らぐ、三族の定義は父・子・孫、父母・兄弟・妻子など諸説ある)として子も死刑となるのが常だが、呉に送られていた諸葛靚は生き延びることとなった。

 こうして呉に仕えた諸葛靚は、丞相・孫綝そんちんの専横から最後の帝・孫晧そんこうの暴政に至る激動の時代の中、右将軍に任じられ、やがては最高位の武官である大司馬にまで上り、晋がついに呉を滅ぼした決戦においては副総司令官として都の軍を率い、最後まで健闘することになる。

諸葛靚と晋の武帝・司馬炎

 諸葛靚と、司馬昭の長子であり後に西晋の初代皇帝となる司馬炎とは、竹馬の友であった。

 やがて呉を滅ぼし天下統一を成し遂げた司馬炎は、彼を晋で高位に迎えようとしたが、司馬氏を父の仇としている諸葛靚はこれを拒んで隠居してしまった、という逸話が、説話集『世説新語』の方正篇などに残る。

諸葛靚後入晉、除大司馬召不起。以與晉室有讎、常背洛水而坐。與武帝有舊、帝欲見之而無由。乃靚諸葛妃呼靚。旣來、帝就太妃閒相見。禮畢、酒酣、帝曰、卿故復憶竹馬之好不。靚曰、臣不能吞炭漆身。今日復覩聖顏。因涕泗百行。帝於是慙悔而出。

通釈 諸葛靚は呉の滅亡後、晋にきて大司馬に任ぜられたが、出仕しなかった。晋の王室に恨みがあったので、いつも洛水に背を向けて坐っていた。武帝(司馬炎)とは昔なじみの間柄であり、武帝は彼に会いたいと思ったが、そのすべがなかった。そこで、諸葛妃に靚を呼んでくれるように頼んだ。やがてくると、帝は太妃のところに行って、彼と会見した。挨拶が終わり、酒宴がたけなわになったころ、帝はいった、「君は、もちろん竹馬の友情を忘れはしまいね。」靚は答えた、「炭を呑み、体に漆を塗って仇をうつこともできず、ふたたび今日、お目にかかることになりましょうとは。」そして、とめどなく涙をこぼした。帝は恥じ入って退出した。

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 方正第五 p.367

 炭を呑み身に漆を塗ることもできず、という言葉は、春秋戦国時代の予譲が執念で主君の仇を討とうとした故事を引いたもの。暗に、父の仇討ちができずにいるという身の上を告げられ、さすがの司馬炎もようやく自分の無神経に気づいた。

 とはいえ諸葛靚としても、司馬炎本人に直接の恨みがあったわけではない。司馬炎としてはごく純粋に、生き別れの幼なじみを側近として迎え入れたいとの思いから、懸命に会見を取り付けたのだろう。それを涙ながらに拒絶する諸葛靚の姿からは、友情を犠牲にしても「孝」の道を選ぶ、頑なさも感じる。

 ちなみに「竹馬の友」という言葉は『晋書』殷浩伝由来らしく、それより前の時代の司馬炎が「竹馬之好」などという発言をするのかというのは、つっこんではいけないところだろう。

 なお、ここで出てくる諸葛太妃とは諸葛靚の姉にあたり、司馬炎の叔父にあたる司馬伷しばちゅうの妃だった。注に引く傅暢『晋諸公賛』によれば、

世祖の叔母の琅邪王(司馬伷)の妃は、諸葛靚の姉である。その後、帝は靚が姉のところに来ていたときに、出かけていって会おうとした。靚はかわやの中に逃げこんでしまった。そこで至孝の名がたかまった。

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』(明治書院、1976年) 方正第五 p.368

 実家の親族が重大な罪で一族処刑された場合、既に他家に嫁いでいた女性も離縁されるケースが多いようだが、司馬伷は彼女を離縁するようなことはしなかった。愛妻だったのかもしれない。しかし諸葛太妃としては、父の仇の縁戚として魏・晋で孤独に生きていくのは、ある意味では呉に亡命した諸葛靚以上に、辛いことだったのではないだろうか。 ※追記:と思いきや、彼女は実子にいじめられつつも年老いるまで逞しく生き抜いていた。詳細は「諸葛靚の兄弟姉妹」にて。

 なお、諸葛靚自身は頑として司馬氏に仕えなかったことで孝の人とされたが、彼の二人の息子は後に晋朝に仕えており、次男・諸葛恢しょかつかいは東晋の重鎮となっている。

公開:2007.03.08 更新:2011.07.18

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