陸抗の本拠地、楽郷について

楽郷の位置

 陸抗は晩年、信陵西陵夷道楽郷公安の各軍を統括し、その本拠地を楽郷に置いた。楽郷城は南郡松滋県、現代の湖北省荊州区松滋市付近にあった。

楽郷城について

胡三省曰:「樂鄉城在松滋縣東。樂郷城北中有沙磧,對岸踏淺可渡,江津要害之地也。方輿紀要:「樂鄉城今松滋縣東七十里,三國所築朱然嘗鎮此。陸抗改築,屯兵於此。」

陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理《三國志集解 柒》(上海古籍出版社,2012年) 吳書三 三嗣主傳第三 pp.3033-3034

江水又逕南平郡孱陵縣之樂鄉城北,吳陸抗所築,後王濬攻之,獲吳水軍督陸景于此渚也。

『水經注』卷三十五 江水(中國哲學書電子化計劃)

樂鄉、吳孫皓建衡三年,陸抗所築樂鄉城,後朱然修之成焉.

『通典』州郡典(中央研究院 漢籍電子文獻)

 楽郷城は陸抗が築いたとされるが、それ以前から朱然が築いた拠点があったようである。『通典』の記述は人物が逆のようだが、時系列が合わない。陸抗以前には、朱然の子である施績楽郷督を務めていた。(陸抗は「楽郷都督」、施績は「楽郷督」)

 建衡三年(271年)の前年、建衡二年に陸抗は付近の総司令官として楽郷駐屯となった。その際、かつて朱然が築いた城を改築して本拠地としたと思われる。

楽郷の読み方

 この地名を日本語読みすると、「がくきょう」なのか「らくきょう」なのか。「楽」の文字は中国語で「yuè」と読む場合は音楽などの「ガク」、「lè」と読む場合は楽しいという意味の「ラク」、さらに「yào」と読む場合は好む・望むなどの意味で「ゴウ」(呉音では「ギョウ」)となる。(参考『新漢語林 第二版』大修館書店など)

 が、現代には既にこの地名がなく、どう読むのが正しいか確認できなかった。個人的には「がくきょう」がかっこいい気がするのだが、地名としては「らくきょう」がそれらしいだろうか……? ということで、仮に「らくきょう」と読んでおく。(情報求)

楽郷を本拠地にするメリット

 おそらく陸抗赴任以前には、この長江沿岸の軍をまとめる総司令本部は、北岸の江陵城であった。それが、この時代から楽郷に変わった。任命時の記録では都督西陵夷道楽郷公安諸軍事とあるものの、歩闡の乱(西陵の戦い)の際の記述から江陵軍も陸抗の指揮下にあったことがわかる。仮に、陸抗が自分の意志で敢えて楽郷を本拠地に選んだとすると、その理由はなんだったのか。

陸抗の管轄範囲と本拠地(270年〜)

 楽郷が本拠地であったことは、歩闡の乱において晋救援軍の羊祜に勝利する要因のひとつとなったのではないか? と個人的には思っている。詳しい流れは「歩闡の乱」などで書いたが、歩闡の乱のころ、江陵軍は張咸という将軍が率いており、羊祜が侵攻してきた際、陸抗はこの張咸に命じて江陵城を堅守させた。

 遡って、蜀滅亡直後に呉が永安に侵攻した時代には、陸抗西陵都督だった。当初、永安には直接赴かずに歩協歩騭の子)らを送り込んだものの、歩協らが早々に城攻めを開始したところ勝てず、陸抗も援軍として赴き、しかし敵援軍が西陵を衝いてきたために敗けてしまった……と、いう可能性がある(とりあえずここではそういうことで。詳しくは永安の戦いについての推測1推測2で。少なくとも西陵、または江陵が当時の総司令本部であったことは、呉軍が永安で敗北する一因にはなったと推測)。

 このことから陸抗は、自軍本拠地を従来の江陵においていた場合、同様のケースに対処しづらいと考え、敢えて長江南岸に変更したのではないだろうか。また、西陵は山に囲まれた地形によって守備力があるのに対し、江陵は平野に通じており、地形に頼って守備するということはできないようだ。しかし楽郷江陵に近いため、江陵の危機に際しては自ら駆けつけるということもできる。さらに南の公安の軍も陸抗の管轄下であるため、すぐに連携することができ、たとえ軍の主力が出払っていたとしても、楽郷は陥とされにくい。こうしたことから、楽郷は総司令本部として最適だったのではないか。

 実際には、その地形によって守備に有利なはずの西陵で反乱が起きてしまった。しかし陸抗は慌てず、今度は自ら西陵に急行することで反乱軍と救援軍に勝利、一方で江陵軍には十全の備えを残したまま城を堅守させ、さらには公安の軍を北上させて、羊祜の大軍から江陵と、本拠地・楽郷を護ることに成功した。

公開:2011.07.18 更新:2019.06.25

※Googleマップのリンクおよび一部本文を修正

Tags: 三国志の人物 陸抗 地理