永安の戦い 2 - 敗戦はやはり陸抗のせいかもしれない

 蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)で陸抗羅憲に敗北したと言われていることについて、個人的には、敗戦は総司令官がむやみと援軍を送ったせいで、そして総司令官は少なくとも陸抗ではない、という結論に一度は達してみた。が。

蜀漢滅亡の報と『建康実録』による微妙な異説

 蜀が滅亡したという報せを呉の都にもたらしたのは、華覈伝によれば、陸抗だった。

近ごろ聞きましたところ、賊の軍勢は蟻のごとく集まって西方の土地におし寄せたとのことでございましたが、西方の土地は険阻であるゆえ、きっと心配はあるまいと考えておりました。しかるに思いがけなくも、陸抗よりの上表があり、成都は陥落し、蜀の君臣たちは流亡し、その社稷はくつがえったと伝えてきたとのことでございます。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 8 呉書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) 華覈伝 p.180

 このころ陸抗は、孫休伝によると「鎮軍(将軍)」だった。陸抗伝にもこの数年前の段階で鎮軍将軍になったとある。が、呉ファンの間で近年人気の(?)『建康実録』によれば、ここで蜀滅亡を上表したときの陸抗は「大将軍」だった。

冬十月,大將軍陸抗上表言成都不守,蜀主劉禪降,帝聞,深憶張悌之言,不樂。詔丁奉等還軍。

許嵩撰、張忱石点校《建康實録 上》(中華書局,1986年) 巻第三 景皇帝 p.84

 また、『建康実録』は陸抗は51歳で死去したとする。

秋七月,[……]大司馬,荆州牧陸抗薨。
幼節,丞相嗣子,桓王外孫。[……]至秋,遂薨,時年五十一。

許嵩撰、張忱石点校《建康實録 上》(中華書局,1986年) 巻第四 後主 pp.104-105

 『三国志』には陸抗の没年齢の記載はない。父の死後20歳で爵位を継いだということから49歳で死去とされているが、51歳というのはかなり具体的なのに対し、爵位を継いだのは20歳くらいのころ、ともとれる。大差ないといえばないが、『三国志』から推定されているよりも陸抗が多少、年長だった可能性はある。

 ともかく、西陵を護っていた将軍の陸抗が、なぜ蜀の滅亡を報告する運びになったのか。

 陸抗はすでに40過ぎであり、大将軍かどうかはともかく(『三国志』の記述では、当時の大将軍は丁奉のはず)それなりに上大将軍・施績に次ぐほど上位の将軍で、西陵の軍を直轄しつつ、かつ西陵以西の軍勢の総司令官でもあった、とすると辻褄が合う。

 この時点で西陵施績の管轄下かどうかも、その前段階ではそうであったというだけで実は特に明記されていないし、かつては西陵を西の端として施績の管轄だったのが、この当時は西陵を東の端として陸抗の管轄だったのかもしれない。

 魏が蜀に攻めてきた頃、永安西陵方面の総司令官である陸抗は、永安方面に盛曼を救援軍として派遣したものの、途中で蜀が敗けたため都に報告し、そして歩協を派遣して永安の戦いになった。しかし歩協がなかなか勝てないため、自ら援軍に赴いた。

 建平太守である盛曼西陵の将軍である歩協が、陸抗の指揮下にあり、それぞれ自分の配下の兵だけを引き連れて行ったとすると、当初の呉軍はさほどの大軍ではない可能性も高く、少数精鋭の羅憲にあしらわれてしまったとしても納得できる。

 なぜ施績の元にいた留平まで出撃しているのか、その謎だけは残るものの、こうなるとそれ以外はもう全面的に、陸抗の責任である。こうなるとやはりこれは陸抗のキャリアの中でかなりの汚点であり、そのせいで陸抗伝などでは完全スルーされている。……ということになる。

 しかし、仮にそうだとすると、陸抗はなぜ最終的に自ら援軍に行ったのか。なんらかの勝算があったものが、どこかで狂ってしまって巧くいかなかった、というこじつけ考察をしたくもなってくる……が、まだ思いついていない。

 私は陸抗ファンではあるが、陸抗が完璧な人物だなどとは思っていない。ただ、漠然としたイメージのみで「羅憲の方が陸抗より強い」のように言われているのは納得できない。それなりの根拠がほしいのである。

永安侵略の理由

 それよりも、世の風潮に抗議したいのは、この永安の戦いについて、呉がまるで蜀滅亡に乗じた火事場泥棒かのように評されている点である。それについては、長くなったので次のページで。

歩闡の乱との類似と対照、陸抗の得た教訓

 ところで、この永安の戦い(264年)と、逆に陸抗が名将とされる所以である歩闡の乱(272年)を考えると、陸抗が城攻めに向かったということ以外にも、共通点が見えてくる。

 籠城軍に対する救援軍が、遠征中の包囲軍の本拠地方面を攻撃してきて、間接的に包囲を解こうと図った点がそっくりである。(歩闡の乱の際はさらに包囲軍自体にも同時に攻撃してきたが)。もしかすると、攻城戦の常套手段なのかもしれないが、非常によく似ている。

 よく似ていながら、それに対する呉軍の対処はかなり真逆である。

 永安の戦いでは籠城する敵に包囲を突破され、敵援軍を招き寄せてしまったが、歩闡の乱の際には西陵城を包囲する堅固な陣地の建設に注力し、徹底的に敵軍の連絡を絶った。

 味方援軍に関しても、永安の戦いでは二度にわたって増援を送り込むも、効果がないどころか逆に本拠地が手薄になって、撤退せざるを得なくなった。一方歩闡の乱では、味方軍勢は増やさず、陣地を頼りに少数の軍勢のみで対処。さらにこのときは包囲陣の外からも敵が攻めてきたが、これを防ぐことにも成功した。

 そして永安の戦いでは、敵援軍の胡烈が自軍本拠地の西陵に攻めてきた際、西陵の守備が手薄だったことが最大の敗因となったと思われるが、歩闡の乱の際は、敵軍総司令官の羊祜が大軍で自軍本拠地方面の江陵に攻め寄せるも、予め対策を講じて江陵には籠城を徹底させ、さらに近隣の味方援軍とも連携させていたために、勝つことができた。

 あまりにすべての対処が対照的すぎて、陸抗総司令官説を取った場合、永安での敗北を教訓として、驚きの大成長! としか思えない。しかし、総司令官であったとしても、一援軍の将だったとしても、陸抗はこの戦を手痛い教訓としたのには違いない。それによって、歩闡の乱の際には麾下の将らの反対を頑なに退けても的確な判断を下し、勝利することができたのではないだろうか。

公開:2011.07.18 更新:2012.02.04

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