永安の戦い 3 - 永安侵略の理由:呉軍は火事場泥棒ではない

 この蜀漢滅亡直後に起きた永安の戦い(仮称)について、三国志ファンの間では呉を蜀の滅亡に乗じた火事場泥棒かのように評する風潮があり、「だから呉が嫌いだ」という主張を少なからず見かける。その最大の原因は、おそらく羅憲の発言によるイメージだろう。

「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のごとき密接な関係にありながら、わが国の危難に同情することなく、利益を追求して、盟約に違反した。それにわが漢王朝が滅亡したあと、呉がどうして長く存続しえようか。呉の降虜になどなれるものか」

陳寿、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志 5 蜀書』(ちくま学芸文庫、1993年) p.306

 羅憲はこう言って、魏に帰順を表明し、永安に籠城する。呉は同盟国だったくせに、滅亡したら侵略してくるとは何事か。蜀側からすれば、このように感じるのはやむを得ない面もある。

 しかしそもそも同盟というのは、相互に利益があるからこそ成り立つ。現に、蜀としても、内心では帝を称した孫氏に不満を抱きながら、魏に対抗するために長年呉を利用していたわけである。そして『襄陽記』では羅憲に都合よく書かれているために、「表向きは救援にかこつけ」などとなっているが、当初は本当に、呉は蜀を救援するつもりだった。そのつもりで東西とも軍を編成し、出兵しようとしていた。呉としては、蜀方面が敵領土となっては大いにまずいから、「危難に同情」しようとすまいと、むしろ自国のために救援せざるを得ない。

 魏方面からの侵攻と同時に、蜀の方面から長江の流れに乗って敵が攻めてくる、それは呉存亡の危機である。これは、陸抗が一貫して主張していることでもある。後に陸抗は、荊州の防衛に兵力を割いてくれない孫晧に対してこう警告することになる。

西陵と建平との二郡は、わが国の外に対する垣根なのでございますが、敵がその上流をおさえておりますため、二つの方向から敵の勢力の進出を受けとめねばなりません。もし敵が軍船を浮べて流れに乗り、千里にもわたる艦隊を連ね、流星のごとく進み、稲妻のごとく走せて、急遽おしよせてまいりますれば、この絶体絶命の危機を救うべく他の郡からの救援をあてにすることは不可能なのでございます。そうした事態に至ったとき、それは社稷存亡の分れ目であり、単に領土に侵攻を受けたという小さな損害にはとどまりません。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 7 呉書Ⅱ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.309

 蜀が同盟関係にあった間は、この「二つの方向から〜」という危険は回避されていた。そんなわけで呉は決して「表向きは救援にかこつけ」というわけではなく、実際に救援に向かった。同盟国を守ることによって、間接的に自国を守るためにである。しかし現実にはその途上、蜀が敗けて滅亡してしまった。

 この時点ですでに巴東は同盟国の領土ではなくなり、さらに遠からず敵国領土として守備を整えられてしまうのは確実となった。そうなると呉にとって残る選択肢は、自国の領土としてしまうしかない。城の防衛が崩れているはずのこの隙に、奪い取るしかなかった。

 強調しておきたいが、決して、呉は同盟国を裏切って攻撃したわけではない。呉が侵略しようとしたのは「同盟国・蜀の領土である永安」ではなく、「敵国・魏の領土となった永安」である。それも積極的な領土の拡大を試みての侵攻ですらなく、自国までも滅亡する危機を回避するための侵攻だったのである。果たしてこれをして「危難に同情することなく、利益を追求して、盟約に違反した」とまで言われなければならないものだろうか。

 ともかく陸抗は、蜀漢滅亡の報を受けて、孫休に上表をした。

しかるに思いがけなくも、陸抗よりの上表があり、成都は陥落し、蜀の君臣たちは流亡し、その社稷はくつがえったと伝えてきたとのことでございます。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 8 呉書Ⅲ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.180

 その後、当初の蜀(蜀漢)救援軍は、蜀(魏領蜀)攻略軍に変身した。

 それぞれの関連性は特に書かれていないし、ただの時系列の出来事ではある。しかし、考えれば考えるほどこの出兵は、今ここで巴東を攻略しなければ呉の未来は絶たれると考えた、陸抗の積極的な発案でもあったのではないか、と思えてならない。だが結局、呉の侵攻は失敗に終わる。永安での敗戦は、呉滅亡への第一歩だった。そして羅憲は、はからずも魏(実質的には晋)の立場から、晋による三国統一への第一歩を切り開いた名将となった。

公開:- 更新:2012.02.04

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