永安の戦い 1 - 永安の敗戦は陸抗のせいではない

 陸抗の敗戦経歴として知られる、対羅憲の攻城戦、永安の戦い(264年2〜7月)について。なお「永安の戦い」という名前はここでの仮称。

 陸抗伝には、この戦に関する記述は皆無である。結果として敗戦であろうとも、何らか部分的な活躍があれば記されることもある中(陸抗の例でいえば諸葛誕の乱の際の活躍)、完全スルーということは、この戦は呉軍が敗けた上、陸抗には何も功績がありませんでした、ということだろう。

 しかし、活躍こそしていないが、陸抗がこの敗戦における責任者というわけでもないのである。

 『三国志』呉書孫休伝によれば、

二月,鎭軍〔將軍〕陸抗、撫軍〔將軍〕步協、征西將軍留平建平太守盛曼,率衆圍巴東守將羅憲[……]秋七月,[……]魏使將軍胡烈步騎二萬侵西陵,以救羅憲陸抗等引軍退。

陳壽撰、裴松之注《三國志 五 吳書》(中華書局,1982年) pp.1161-1162

 二月、鎮軍将軍の陸抗、撫軍将軍の歩協、征西将軍の留平、建平太守の盛曼らは、軍勢をひきいて蜀の巴東の守備隊長の羅憲を包囲した。
[……]
 秋七月、[……]
 魏は、将軍の胡烈に命じ、歩兵と騎兵二万をもって西陵に侵入して羅憲を救援させた。〔西陵を包囲していた〕陸抗らは軍をまとめて引き上げた。

陳寿、裴松之注、小南一郎訳『正史 三国志 6 呉書Ⅰ』(ちくま学芸文庫、1993年) p.192

 *注:呉軍が包囲していたのは永安で、『正史 三国志』の〔西陵を包囲していた〕という訳注は誤り。

 こう書かれてしまうと、一見、陸抗が総大将として歩協などを率いていったかのような錯覚に陥る。そのうえ「三国志ジャンル」的に歩協留平もマイナーな人物であるため、「陸抗羅憲に敗けた」と言われがち。

 しかし、『晋書』や蜀書の注に引く『襄陽記』の記述により、実は陸抗歩協らを率いて行ったわけではない、ということがわかる。長いので引用は省略するが、経緯のまとめ。

登場人物

呉軍

  • 盛曼せいまん建平太守)
    ※『晋書』では「盛憲
  • 歩協ほきょう(撫軍将軍)
  • 陸抗りくこう(鎮軍将軍)
  • 留平りゅうへい(征西将軍)

呉上層部

  • 孫休そんきゅう(呉帝)

旧蜀軍魏軍(永安城)

  • 羅憲らけん巴東太守)
  • 楊宗ようしゅう(参軍)

魏軍(救援)

  • 胡烈これつ荊州刺史)

魏上層部など

  • 司馬昭しばしょう(相国)
  • 陳騫ちんけん(安東将軍)

背景事情

  • 羅憲は蜀の尚書吏部郎だったが、黄皓に阿らなかったために左遷されて巴東太守となり、閻宇(右大将軍・巴東都督)の副将となっていた。
  • 魏が蜀に侵攻。
  • 呉は蜀救援のため、各方面に進軍。
  • 閻宇は召喚され、羅憲閻宇配下の二千を率いて永安城を護っていた。
  • 蜀が魏に敗北し、滅亡。呉も撤退した。
  • 呉は改めて、蜀方面への侵略を計画する。

経緯

  • 呉の盛曼が蜀方面に侵攻するが、永安の守備に阻まれる。
  • 呉は、さらに歩協永安に侵攻させる。
  • 羅憲歩協に弓で攻撃をかけるが、撤退させられず。
  • 羅憲楊宗に包囲を突破させ、魏の陳騫に救援を依頼。
  • 歩協は城を攻撃するが、羅憲は城を出て交戦、歩協軍を大いに破る。
  • 呉帝・孫休がキレました。
  • 呉は、さらに援軍として陸抗らの軍三万を永安に派遣。
  • 救援依頼を受けた陳騫司馬昭(実質上の魏支配者)に言上し、魏は援軍として胡烈の軍二万を西陵に侵攻させる。
  • 呉軍は永安攻略を諦め、撤退した。

永安の戦い・地図1(進行順)
※図中の番号はおよその進行順

推測と私見

 最初の方の経緯について。「吳聞蜀敗,遣將軍盛憲西上,外托救援,內欲襲憲。(中略)及鐘會、鄧艾死,百城無主,吳又使步協西征,憲大破其軍。」(『晋書』羅憲伝)、「巴東の守りが固くて、兵を通過させることができず、歩協に軍勢を率いて西へ赴かせた。」(『襄陽記』)ということから、最初は地理的に近い盛曼盛憲とも。建平軍)が救援を装って突破しようとしたが、羅憲に阻まれたため、ひき続き歩協西陵軍)を送ったようである。

 盛曼の様子は記載がないので、歩協に関して。羅憲の軍勢は城に残っていた二千人のみであった。にも拘わらず歩協は、包囲を突破され救援依頼を許してしまい、さらに城を攻撃しても陥とせず、出てきた軍と戦っては逆に兵を失う。羅憲の伝なので彼を美化してはあろうが、歩協のヘタレ感は否めない。

 羅憲の二千人の兵に対して、歩協軍はどのくらいの軍勢だったのか。攻める側ということから、それなりの人数ではあるだろう。歩協西陵都督だとすると、万単位で率いることも可能だろうか。が、現場には当初の盛曼建平軍も残留しているはずで、が、二千人対数万人で包囲を突破され、正面衝突してなお大いに破られたとなると、さすがに不自然なこと、歩協西陵都督かどうかは定かでないため(後述)、この時点での呉軍はもっと少規模だと思われる。

 しかし具体的な人数はともかく、増援してなお劣勢となれば、孫休(死ぬ直前のことであり、実際に本人が関わっているは疑わしいが)が怒るのも無理はない。そこで「陸抗等」が援軍として派遣された。「等」とは、具体的に誰なのか。呉側の記述と照らし合わせると、留平のことだろう。留平もそれなりに高名な将軍で、しかも陸抗より年上・格上(後述)なのにその他大勢扱いもどうかと思うが、この援軍は正直何もしておらず、かつ戦当時はともかく記録が書かれた時点では、陸抗が最も高名だったせいだろうか?

 陸抗留平の率いていた軍勢はどこからやってきたのか。留平はこの前年、蜀救援の出兵の際に、郡の施績(=朱績)の元に赴いた。そのままであれば留平郡・おそらく具体的には江陵の軍である。陸抗は、陸抗伝によればこの当時は西陵都督だった。これには矛盾も生じる(後述)が、仮に西陵軍ということにしておく。というわけで西陵江陵から計三万の援軍が追加された。

 一方の羅憲は、頼みの救援も来ない中、逃亡しようとの進言に対し、民を見捨てて逃げることはできないと退け、まさに孤立無援で耐え抜く。

 羅憲は、その呉の大軍から二千の兵士で半年も(『晋書』では年単位で)城を護りぬいた……というイメージがあるが、「攻撃されてから六ヶ月も経ったのに救援は到着せず」というのは、最初に盛曼が到達した時点か、少なくとも歩協が攻撃してきてから半年経過ということで、当初から呉がそこまで大軍だったかどうかは疑わしい。さらに呉書によると、具体的に二月に侵攻して七月に撤退しているので、半年以内に戦は終結しており、一年以上も守ったというのは嘘である。羅憲が健闘したのは確かだが、誇張はある。

 具体的にいつ陸抗らの援軍が到着したのかは不明ながら、孫休が憤怒して大軍を投じたこと、その大軍をもってしても少数の敵に敗退していることから、かなり長期にわたって歩協らが城を包囲するも勝てず、そこに増援が送られたものの、胡烈の侵攻によりすぐに断念したのかとも思われる。いずれにせよ、陸抗が大軍で半年から一年以上も城を攻めたのに勝てなかった、というイメージは誤解である。陸抗は劣勢の中、やむを得ず送り込まれた最後の援軍であり、全体の指揮権があったわけでもなければ、当初から攻め込んでいたわけでもない。少なくとも、陸抗より明らかに問題なのは歩協である。

 だが、では呉の敗戦は歩協の責任なのだろうか。

 羅憲が孤軍奮闘し続けてかなり経ってから、ようやく魏が救援軍を送ってきた。「攻撃されてから六ヶ月も経ったのに救援は到着せず」と、まるで羅憲が救援を要請したのに無視され、長期にわたって見捨てられていたかのように書かれているが、先述のように「六ヶ月」は戦の開始から終了までの期間に相当し、その途中で送った使者が陳騫の元へ到着し、陳騫司馬昭に言上し、おそらくは司馬昭が形式上に魏帝の承認を得て、実際に援軍を編成、遠征して呉の領土に迫る……というのには、それなりの日数がかかるだろうし、多少の遅延はあったのかもしれないが(魏領西陵間のルートが難路であることは、後の歩闡の乱の記述でわかる)、魏側の対応に特に問題があったとは思えない。羅憲の健闘を強調した結果としてこうした表現になってしまったのだろう。それはともかくとして、呉書によると、この援軍は永安ではなく西陵にやってきた。

 魏の援軍(胡烈)はなぜ西陵に攻めてきたのか、そして呉軍はなぜ敗退したのか。

 包囲軍の主力(歩協陸抗)が西陵軍であることからも、胡烈の目的は敵本拠地の西陵を攻撃して遠征を妨害しようということだろう。そもそもこの時点(蜀滅亡直後)において、魏から永安に直接(西陵などを通らずして)救援に来ることは地形上、困難そうにも思える。

 このとき、西陵軍のトップは歩協もしくは陸抗であったが(後述)、陸抗は援軍を命じられるまでは、西陵を守備していたはずである。しかしその陸抗までが援軍にかり出されてしまった結果、西陵の防備は完全に手薄で、結果、胡烈を怖れた呉軍は永安から兵を退かざるを得なくなった。

 思うに呉は、ヤケのように陸抗を援軍で送ったりしなければよかった。せめても、留平だけを派遣していればよかった。そうすれば陸抗の軍は西陵にあって胡烈を防げる可能性が高まり、一方の羅憲軍はもはや無理という状況を奇跡的に持ち堪えているわけで、さすがの歩協もそのうちには力押しで勝てた……という可能性はないのだろうか。

 一方、留守状態の西陵胡烈から護れる人は誰かいなかったのか。

 さらに東の江陵には、当時巴丘西陵(下図の範囲A)の総司令官であった施績がいる。呉の長江沿岸の各地域の軍は、それぞれの都督がとりまとめている(魏晋の都督と呉の都督とは権限の範囲が違うようだ)が、さらにそれら一帯の軍をとりまとめる上位権限を持つ人がいる場合がある。

永安の戦い・地図2(施績の指揮範囲)

 都督不在の西陵襲撃に際しては、この上位権限を持つ施績が対処したのではないかと思われる。というか、対処しないとまずいだろう。なのに、彼の名前はどこにも出てこない。結果的には胡烈西陵に達する前に、呉軍が永安から撤退してしまい、施績がなにか記載されるほどの行動を起こすまでには至らなかったのかもしれない。

 留平江陵の軍勢だとすると、施績としても平常より兵力が不足している中、かつ西陵より攻められやすい地形の江陵を守備しつつ、西陵まで護るというのは厳しいだろう。しかし、羅憲配下に包囲を突破された時点で、救援軍が遠からずやってくることも、そしてそれが西陵方面に攻めてくる可能性も、呉軍(施績)には想定できなかったのだろうか?

 結局、呉軍で一番まずかったのは、援軍派遣を決定した総司令官だと思える。文面どおりに読めば帝の孫休ということになるが、孫休は病床にある上に、永安と都の建業は遠く、短期間で状況に対応した指示を出せるとは思い難い。「孫休……」というのは表現上のもので、施績西陵を含む地域の総司令官としての権限によって、西陵歩協軍を派遣したのかもしれない。

歩協について

 歩協は、かつて呉の丞相であった歩騭の長男だが、『三国志』に彼に関する記述は数えるほどしかない。

 歩協はどうやら、永安での敗戦(264年7月)から一年ほどの間には死去した。というのも、死後には弟の歩闡が後を継いで西陵督になったとあるが、265年9月には西陵督の歩闡武昌遷都を進言する記述があり、264年7月〜265年9月の間には死去していることになる。

 死因は不明だが、それほど高齢とも思われず、特筆されていないということは病死だろうか。偶然か、敗戦の責を問われてショックで病気になったのか、そもそも冴えない采配が病気のせいだったのか。極端な話、歩協は戦の途中で死に、結果として敗退した呉軍の表現が「陸抗らが」みたいな扱いになったって可能性も!……さすがにそれなら一言書かれるかな。

盛曼(盛憲)について

 この部分にしか出てこず、詳細不明の人物。『三国志』では「盛曼」、『晋書』では「盛憲」とされ、どちらが正しいのかもわからない。『三国志』にも「盛憲」という人はいるが、明らかに時代が違う。

留平について

 留平は、留賛の次男である。(留賛は呉の左将軍で、無敗の強さを誇った(自称)が、ついに73歳にして戦の途中で病気になり実力が発揮できず、諸葛誕の配下に討たれている)

 留平自身に関する記述は、孫晧の治世になって多少出てくるものの、いずれも戦関連の話ではない。

 数年後の266年、晋に使者に発った丁忠が戻ってきた頃にはまだ征西将軍であり、孫晧に無実の罪で惨殺されてしまった王蕃の助命をしようとしたりしている。

 266年12月の陸凱丁奉丁固によるクーデター計画(があったという説もある)のころには、左将軍だった。一味は、孫晧を護衛する係を丁奉にして事を起こそうと企てたものの、孫晧が嫌がって留平に変えてしまった。留平は企てを拒否した(もしくはいかにも非協力的だった)ので失敗に終わったとされる。

 しかし、やがて孫晧が無謀な晋への侵攻を行いかけた際には、留平万彧丁奉とともに新たな帝を立てようと企みた(とされる、266年の計画とは別件)。事は未遂に終わったが、以降孫晧に警戒されていた留平は、272年、宴で毒殺されかけた挙げ句に憤死する。

 他に留平は、施績とともに「知略を備えた名将」と評される箇所がある。が、これは結果的には不備があったという話の中なので、実力のほどは施績ともども疑わしいが、当時の呉の人々には、名将という評価を受けていた。

呉軍の上下関係

位による推測

 呉の官職のランクが仮に魏のそれと同じと考えると、呉軍の将軍の上下関係は以下のようになり(「三国官職表」)、歩協留平陸抗より格上と思われる。

  • 施績(上大将軍:一品官)
  • 留平(征西将軍:二品官)
  • 歩協(撫軍将軍:二品官?)※魏の撫軍大将軍に相当?
  • 陸抗(鎮軍将軍:三品官)
  • 盛曼建平太守:五品官)

追記:位による推測・2

 根拠が不明だが、ネット上で呉における将軍号の序列を推定している人がおり、それによると以下のようになる。

  • 施績(上大将軍)
  • 陸抗(鎮軍将軍)
  • 留平(征西将軍)
  • 歩協(撫軍将軍)

年齢による推測

 陸抗以外は見事に年齢不詳。陸抗は、このころ数え年39歳である。

 留平の父・留賛と、陸抗の父・陸遜はちょうど同い年であり、陸抗留平も次男である。となると同年代かと思うところだが、陸抗は父の年齢に対してかなり若い(平均を調べたわけではないが、たとえば陸抗自身の次男より20歳ほど若い)ので、素直に考えると留平陸抗より年上の可能性が高い。

 歩協の父・歩騭は、生年不詳だが、諸葛瑾と同年代であるとすると、陸遜留賛より少し上だろうか。ということで、歩騭の長男である歩協は、やはり陸抗より年上のはずで、もしかするとかなり年上かもしれない。

 とりあえず歩協留平は、陸抗より少し〜かなり年上の可能性が高い。

指揮権による推測

 陸抗は、永安二年(259)年に「拜鎮軍將軍,都督西陵,自關羽至白帝」とあり、これは邦訳では「西陵の関羽瀬から白帝城までの地域の軍事の総指揮にあたった」となっている。さらに260年には假節を授けられる。となるとこのとき陸抗は、假節・西陵都督であり、さらに都督より上位の、下図Bの範囲の指揮権限まで(+名目上は永安までも)持っているということに。

永安の戦い・地図3(指揮権の範囲)

 これを信じるとすれば、まさにこの戦に関わる永安西陵はことごとく陸抗の指揮下ということになり、陸抗羅憲に敗けた戦、という説明もあながち誤解ではない。

 陸抗が総司令官でありかつ本拠地が西陵だったのであれば、当初は歩協の軍で勝てると判断して送り込んだのに勝てず、かつ自ら援軍に行った結果みすみす西陵を空けて負けたということになり、正直、残念である。後の活躍を考えても、性格を考察してみても、陸抗がそれほど無計画な人だとは思いづらい。

 この当時、西陵都督より上の立場としては、西陵巴丘(図A)を担当しているはずの施績がいる。西陵を境に総司令権限が施績陸抗に分かれているのかもしれないが、施績はこの当時、丁奉と並び呉の軍事の頂点に位置する人物で、後年、施績の死去にともない、陸抗がこのあたりの総司令官に任じられた記述もある。キャリアの差から考えても、どうもこの陸抗伝の記述は不自然で、時系列の間違いがあるかもしれない。

 そして陸抗西陵都督だとすると、同じ西陵の将軍である歩協より権限が上ということになってしまうが、果たして、陸抗歩協より上位だったのだろうか。歩協陸抗は、どちらも有力な家の当主であり丞相の次男だが、位の上では歩協陸抗より上らしく、年齢も上なのにである。さらに陸抗が総司令官である場合、施績の元にいたはずの、かつ陸抗より格上と思われる留平が出撃しているのも、不自然な気がする。

 とりあえず、陸抗が総司令官という説は、私としては「辻褄が合わないことが多い」という理由で、却下したい。

 追記:位による推測・2のケースでは序列が陸抗留平歩協であり、年齢はともかく、官位と指揮権については辻褄が合うかもしれない。

 陸抗西陵都督でないとすると、陸抗西陵軍という確証もないが……歩協らが代々西陵にいるのに比べ、陸抗の任地は何度も変わっており、真偽はともかく『世説新語』の逸話では孫晧時代(この戦の直後から孫晧の治世になる)には江陵都督だったりもするので、この援軍「陸抗ら」=留平陸抗というのが全体的に江陵軍だったりする可能性も? 江陵の軍は施績の直轄かもしれないが、彼はときにより南岸の楽郷都督だったりもするので、このとき確実に江陵が本拠地かどうかはわからない。

 ただ確かに、歩協についても、彼が西陵都督というのは私の思い込みであって、明記されている箇所はない。

  • 229年に歩協の父である歩騭西陵都督になった。(「是歲,都督西陵,代陸遜撫二境,……」)
  • 247年に歩騭が死去し、歩協がその配下の兵を指揮した。※歩騭は丞相だったが、引き続き西陵にいた。
  • 250年12月に魏が攻めてきたときに歩協西陵城を守備していた。
  • 歩協の死後は、弟の歩闡が軍の仕事を継いで西陵督になった。(「協卒,子璣嗣侯。協弟闡,繼業爲西陵督,……」)

 「都督西陵」と「西陵督」は異なる権限かもしれない。さらに、歩闡のくだりから、歩協が「西陵督」であったように読めるが、それは勘違いで、歩協は単に西陵軍の将軍で、トップではなかったのかも。そのため当初率いていたのは父から受け継いだ自分の配下の兵のみで、それほど大軍ではなかったこともあって、羅憲に惨敗した、ということに?

煮え切らない推測のまとめ

  • 呉軍の敗因は、むやみと援軍を送って西陵方面の守備を手薄にしたことである。
  • 責任はそれを決定した呉軍総司令官にある。
  • 呉軍総司令官は、施績の可能性が高い。
  • 元はといえば歩協の力量不足も原因である。
  • 陸抗留平は、特に功績もないが失態もない。
  • 羅憲胡烈の行動は的確で、呉軍が敗けたのは納得の結果である。
  •  つまり結局施績のせい?

     確かに、施績は地位や名声こそあるものの、軍事上の功績は冴えない。時代やタイミングが悪かったとはいえ、もしかすると単に、実はそれほど有能な人ではなかった可能性はある。

     とはいえ建平の方面は施績の管轄外であり、記述どおりに孫休歩協のせいと考えるのが、一番落ち着く。とりあえずここで言いたかったのは、陸抗のせいではない。ということだったが、諸々の疑惑のせいで断言もできず、結局煮え切らないのだった……

     追記:考え直した結果、むしろ陸抗が総司令官の可能性も高いのではないかと思えてきた。詳しくは次のページで。

    公開:2007.03.17 更新:2011.07.26

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