諸葛靚の兄弟姉妹

諸葛靚の兄

 諸葛誕しょかつたんの乱の際の記述等によれば、諸葛靚しょかつせい諸葛誕の末子である。

遣長史吳綱將小子請救。

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年、P770

長史の呉綱に末子の諸葛靚をつれて呉に行き、救援を要請するよう命じた。

陳寿、裴松之注、今鷹真・小南一郎訳『正史 三国志 4』ちくま学芸文庫、1993年、P257

晉諸公贊曰、靚字仲思、琅邪人、司空誕少子也。雅正有才望。誕以壽陽叛、遣靚入質於吳、以靚爲右將軍、大司馬。

『晋諸公賛』にいう、「諸葛靚、字は仲思、琅邪の人、司空誕の末子であった。人がらは雅正で、才たけ、人望があった。誕は寿陽で叛し、靚を呉に人質として遣った。呉は靚をむかえて右将軍、大司馬とした。」

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』明治書院、1975年 言語第二 P109〜110

 また、あざなが「仲思ちゅうし」であることから次男だと推察されるが、長男についての記述は発見できなかった。仮に乱のときに父に従っていたとすると、記されていてもおかしくないことから、長男はそれ以前に若くして亡くなったのかもしれない。もし生きていたとしても、父の敗北とともに処刑されただろう。

 諸葛靚が次男かつ末子ということから、諸葛誕には男子は二人しかいなかったと思われる。

諸葛靚の姉・諸葛太妃(司馬伷夫人)

 諸葛靚の姉妹には、まず司馬伷しばちゅうに嫁いだ姉がおり、司馬炎諸葛靚を召し出そうとする『世説新語』の逸話にも登場する。以下はその注に引く『晋諸公賛』より。

世祖叔母琅邪王妃、靚之姊也。帝後因靚在姊閒、往就見焉。靚逃於廁中。於是以至孝發名。

世祖の叔母の琅邪王(司馬伷)の妃は、諸葛靚の姉である。その後、帝は靚が姉のところに来ていたときに、出かけていって会おうとした。靚はかわやの中に逃げこんでしまった。そこで至孝の名がたかまった。

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』明治書院、1976年、P368

 司馬伷は、司馬懿の四男で、司馬師司馬昭らの異母弟である。諸葛誕は司馬氏に抗おうとして討たれたが、その娘である彼女はよりによって、司馬氏に嫁いでいた。

 何夔かき伝の注に引く『晋紀』等によれば、毌丘倹かんきゅうけんの乱の後に何曾かそうの提案によって法が改正され、他家に嫁いだ女性は生家の罪には連座せずとも良いことになった。そのため彼女は、父の反乱による三族誅殺の対象にはならなかったのだろう。とはいえどもやはり周りの心情としては反逆者の娘ということからか、離縁されるなども常のようだが、司馬伷が親切だったのか愛妻家だったのか、そうした害を被ることはなく、次男・司馬澹しばたんの伝によると、結構長生きしたことがわかる。

齊王輔政,諸葛太妃不孝,乞還,由是與妻子徙遼東……陳訴歴年,太妃薨,被害,然後得還。

房玄齡等撰『晉書 四 傳』中華書局、1974年 列傳第八 琅邪王伷 P1122〜1123

 諸葛太妃は少なくとも300年ごろには健在で、最長で304年くらいまで存命だった可能性がある。なお司馬伷の長男・司馬覲しばきんは、東晋の元帝となる司馬睿しばえいの父である。彼の母もこの諸葛太妃だとすると、巡り巡って皇帝の祖母にまでなっていることに。魏の時代に敗れ去った諸葛誕だが、密かにその血脈は後世に受け継がれていた。

諸葛靚の姉・王広夫人

 姉妹は少なくとももう一人いる(女子は明記されないことが多いため、さらにいる可能性はある)。こちらは王淩の子の王広に嫁いでおり、こんな逸話がある。

王公淵(王広)は諸葛誕の娘をめとった。部屋に入って、始めて言葉をかわすや、王は妻に向かっていった。「お前の顔は品が悪い。少しも父の公休(諸葛誕)殿に似ていないな。」妻は答えた。「立派な男子でありながらお父上の彦雲(王陵)さまに似ることもできないくせに、女の身を英傑に似させようとなさるのですか。」〔一〕

[一]『魏氏春秋』にいう、「王広、字は公淵、王陵の子である。器量・才智があり、当時、名声が高かった。傳嘏らと才性同異を論じ、世に行われた。」
『魏志』にいう、「王広は志が高く、学問・徳行があった。父の王陵が誅殺されると、ともに殺された。」
私が思うには、王広は名士であり、どうして妻の父を引きあいに出してたわむれましょう。この言葉は誤りであります。

目加田誠『新釈漢文大系 第78巻 世説新語(下)』明治書院、1978年 賢媛第十九 P849

 ※『世説新語』は「王淩」を「王陵」とする。

 逸話の真偽はともかく、鋭い切り返しで夫を言い負かしつつ父を誇るあたり、実に諸葛靚の姉妹らしい性格をしている印象。

 しかし、王淩曹彪そうひゅうを擁立するクーデターを計画するも司馬懿に敗れた際に、三族が誅殺されてしまった(王淩本人は自害)。王淩伝注に引く習鑿歯『漢晋春秋』によれば、王広自身は計画に反対で父を諫めたが、聞き入れられなかった(ただし裴松之は、この発言は習鑿歯の捏造ではないかと疑っている)。いずれにせよ、この諸葛氏も、夫とともに誅殺されてしまったことだろう。

 嫁いでいたために、義父のクーデター失敗に巻き込まれ、殺されてしまった諸葛氏。それも、夫自身は計画に反対していたかもしれないのに。姉妹である諸葛太妃が逆に嫁いでいたために実父の処刑に巻き込まれるのを免れ、子孫もある意味繁栄したのとは対照的である。

 この王広夫人の諸葛氏は、司馬伷夫人の諸葛氏(諸葛太妃)諸葛靚の姉なのか妹なのか。姉妹なら姉の方が先に嫁がされるのが自然と思われるが、王広司馬伷は、どちらが先に妻を娶ったのか。王広自身は生年不明だが、王淩は自害したときにおよそ80歳ということで、司馬懿より10歳近く年上。かつ司馬伷は長兄より20も年下の四男であることを考えると、王広司馬伷よりかなり年長と思われ、おそらく王広夫人の諸葛氏の方が姉だろう。

 余談だが、父に似ず品の悪い顔、と貶されるということは、諸葛誕は品の良い顔だったことになる。諸葛靚が父親似であれば良いのだが、果たして……

公開:2014.01.08 更新:2014.04.11