陳泰キャリア年表
※出来事は陳泰に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。
西暦 | 年 | 月 | 出来事 | 官職等 | 帝 |
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226 | 黄初7 |
5月 |
曹丕が崩御し、曹叡が即位する。 | 曹叡 |
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12月 |
父の陳羣が司空となる。 | ||||
233 〜 237 |
青龍1年2月 〜青龍5年2月 |
この頃、陳泰が散騎侍郎となる。 | 散騎侍郎〔五〕 |
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237 | 青龍4 |
12月 |
青龍四年十二月癸巳(24日、西暦237年2月7日)父の陳羣(司空)が死去し、陳泰が後を継ぐ。 | ||
239 | 景初3 |
1月 |
曹叡が崩御し、曹芳が即位する。 | 曹芳 |
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240 〜 |
正始中 |
この頃、陳泰が游撃将軍となる。幷州刺史となる。振威将軍を加官される。使持節・護匈奴中郎将となる。*注1 | 游撃将軍〔四〕 幷州刺史? |
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使持節? 振威将軍〔四〕 幷州刺史 |
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使持節 護匈奴中郎将〔四〕 幷州刺史 |
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249 | 正始10 |
1月 |
司馬懿(太傅)が曹爽(大将軍)の罪状をあげて挙兵し、曹爽が罷免される。この際、陳泰は許允(侍中)とともに司馬懿の使者となり、曹爽を説得して自首させた。 曹爽・何晏(尚書)らの一同はクーデター画策の罪により誅殺される。 |
尚書〔三〕 |
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嘉平1 |
4月以降 |
郭淮が征西将軍、都督雍涼諸軍事となる。 陳泰が郭淮に代わって雍州刺史となり、奮威将軍を加官される。 |
奮威将軍〔四〕 雍州刺史 |
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7〜8月頃 |
蜀の姜維(蜀:衛将軍)が隴右に進攻、麴山に二城を築くが、郭淮(征西将軍・都督雍涼諸軍事)指揮下の陳泰・徐質(討蜀護軍)・鄧艾(南安太守・参征西将軍事)が城を陥とし、守備していた蜀の将兵を降伏させる。陳泰は郭淮・司馬昭(安西将軍)と協力し、姜維を撤退させる。※詳細は「姜維の北伐 249年」参照。 | ||||
250 | 嘉平2 |
〜5月 |
郭淮(征西将軍)が羌族の討伐を計画、鄧艾(南安太守・参征西将軍事)は蜀軍の再来に備える。姜維(蜀:衛将軍)が西平に進攻するが、鄧艾に阻まれ、撤退する。※詳細は「姜維の北伐 250年」参照。 | ||
5月 |
郭淮が車騎将軍・儀同三司(・都督雍涼諸軍事)となる。 | ||||
251 | 12月 |
王昶(征南将軍)が呉の江陵に進攻するが、戴烈・陸凱らに防衛される。 | |||
嘉平3 |
1月 |
州泰(新城太守)*注2 が呉の巫・秭帰に、王基(荊州刺史)が西陵に進攻し、数千人を降服させる。 | |||
4〜5月 |
王淩(太尉)が曹彪を擁立しクーデターを企てるが失敗し、自殺する。 | ||||
8月 |
司馬懿(太傅)が死去し、司馬師(衛将軍)が撫軍大将軍・録尚書事となる。 | ||||
252 | 嘉平4 |
1月 |
司馬師(撫軍大将軍)が大将軍・都督中外諸軍事(・録尚書事)となる。 | ||
4月 |
呉の孫権が崩御し、孫亮が即位する。 | ||||
10月 〜翌1月 |
呉の諸葛恪(呉:太傅・大将軍)が東興に城を築く。諸葛誕(鎮東将軍)・胡遵(征東将軍)が東興に、王昶(征南大将軍)が南郡に、毌丘倹(鎮南将軍)が武昌に進攻するが、諸葛恪・丁奉(呉:冠軍将軍)らに敗れる。 | ||||
? | この年、陳泰(雍州刺史)は幷州と協力して異民族を討伐しようとしたが、遠征計画に動揺した雁門郡・新興郡で反乱が起こり、失敗する。 | ||||
253 | 嘉平5 |
3月 |
呉の諸葛恪(呉:太傅)が合肥新城に進攻するが、司馬孚(太尉)・毌丘倹らが防衛する。(呉軍は7〜8月に撤退、10月に諸葛恪が誅殺され孫峻が丞相となる) | ||
4月 |
蜀の姜維(蜀:衛将軍)が南安を包囲、陳泰がこれを攻め、姜維は撤退する。 | ||||
夏頃 |
姜維が狄道を包囲、郭淮(車騎将軍)・陳泰は関中の軍を率いて急行、姜維は撤退する。※斉王紀の注に引く『漢晋春秋』。上記の戦と同一の件だろうか。詳細は「姜維の北伐 253年」参照。 | ||||
姜維が狄道に進攻するとの報を受けた陳泰は先んじて攻めようとするが、司馬昭(行征西将軍)が姜維の虚報であると見抜き、取りやめさせる。 | |||||
254 | 嘉平6 |
2月 |
李豊(中書令)・張緝(光禄大夫)らが司馬師(大将軍)を失脚させて夏侯玄(太常)に代えるクーデターを画策するが発覚し、関係者一同が誅殺される。 | ||
6月 〜冬 |
李簡(狄道県長)が蜀に寝返り、蜀の姜維(蜀:衛将軍)らが狄道を拠に隴西に進攻、姜維は狄道・河関・臨洮の三県を陥とす。※詳細は「姜維の北伐 254年」参照。 | ||||
正元1 |
9月 |
曹芳が廃位され、曹髦が即位する。 | 曹髦 |
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255 | 正元2 |
1月 |
毌丘倹(鎮東将軍)・文欽(前将軍・揚州刺史)が反乱し、司馬師(大将軍)が討伐する。 郭淮(車騎将軍)が死去する。陳泰は郭淮に代わって征西将軍、仮節都督雍涼諸軍事となる。 |
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閏1月 |
司馬師(大将軍)が死去する。 | ||||
2月 |
司馬昭(衛将軍)が大将軍・都督中外諸軍事・録尚書事となる。諸葛誕らが呉軍と交戦して破る。 | ||||
8月 |
蜀の姜維(蜀:衛将軍)・夏侯覇(蜀:車騎将軍)が狄道に進攻、洮西で王経(雍州刺史)を大敗させる。王経は狄道に籠城、陳泰(征西将軍)・鄧艾(長水校尉・行安西将軍)が救援に赴き、司馬孚(太尉)も援軍に赴く。姜維は撤退し、鍾題に留まる。陳泰は帰還して上邽に駐屯する。※詳細は「姜維の北伐 255年」参照。 | ||||
11〜12月 |
陳泰(征西将軍)・鄧艾(安西将軍)は洮西の戦における戦死者の捜索・埋葬を行う。 | ||||
陳泰は中央に召されて尚書右僕射となり、官吏の選抜を担当、侍中・光禄大夫を加官される。 | 尚書右僕射〔三〕 侍中〔三〕 光禄大夫〔三〕 |
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256 | 甘露1 |
7〜8月 |
蜀の姜維(蜀:大将軍)が段谷において鄧艾(安西将軍)に敗北し、成都に撤退。 | ||
8月 |
呉の文欽(呉:征北大将軍)・呂拠(呉:驃騎将軍)・劉纂(呉:車騎将軍)・朱異(呉:鎮南将軍)・唐咨(呉:前将軍)が淮水・泗水流域に進攻。陳泰は鎮軍将軍、仮節都督淮北諸軍事となり、徐州の監軍以下を統率して防衛にあたる。呉の孫峻(呉:丞相)が死去し、呉軍は撤退する。 | ||||
呉軍が撤退後、陳泰は帰還して尚書左僕射となる。 | 尚書左僕射〔三〕 侍中〔三〕 |
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257 | 甘露2 |
5月〜 |
諸葛誕(征東大将軍→司空→呉:大司徒・驃騎将軍)が寿春で反乱。司馬昭(大将軍・都督中外諸軍事)は曹髦・郭太后を奉じて討伐に赴き、陳泰は行台(尚書省の臨時出張機関であり実質上の参謀機関)を統括するため同行する。※詳細は「諸葛誕の乱」参照。 | ||
同時期、蜀の姜維(蜀:後将軍・行大将軍事)が駱谷から芒水に進攻し、司馬望(中護軍?)・鄧艾(鎮軍将軍・都督隴右諸軍事)が防衛する。 | |||||
258 | 甘露3 |
2月 |
司馬昭(大将軍・都督中外諸軍事)が諸葛誕(呉:大司徒・驃騎将軍)を討ち寿春を奪回する。 蜀の姜維が成都に撤退する。 |
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9月 |
呉の孫亮が廃位され、孫休が即位する。 | ||||
260 | 甘露5 |
5月 |
五月己丑(7日、西暦260年6月2日)、曹髦が司馬昭(大将軍・録尚書事)を討つため挙兵するが、賈充(中護軍)指揮下の成済(太子舎人)に討たれ死去する。同日?*注6、陳泰が死去する。 | ||
景元1 |
6月 |
曹奐が即位する。 | 曹奐 |
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死後、陳泰は司空を追贈される。 | 司空〔一〕 |
*注1 “徙游擊將軍,爲幷州刺史,加振威將軍,使持節,護匈奴中郞將” 区切りがよくわからない。
*注2 諸本でこの新城太守は陳泰と記されているが、このとき陳泰は雍州刺史で、新城太守は州泰であることなどから、州泰の誤りとされる。
*注3 ちくま学芸文庫『正史 三国志 3』の陳泰伝では征西将軍でなく征西大将軍となっているが、誤植のようである。
*注4 鎮軍将軍は以前に就いていた征西将軍よりも位の低い将軍で、誤りの可能性もあるとされる。
*注5 10月、尚書左僕射の盧毓が司空に昇進している。
*注6 陳泰伝によれば「景元元年」(=甘露五年)。その注に引く『魏氏春秋』によれば曹髦の死(甘露五年五月己丑)に際して交わされた司馬昭とのやりとりの結果死去、『世説新語』注に引く『漢晋春秋』ではその後に自殺した。万斯同「魏将相大臣年表」(『欽定四庫全書 補歷代史表 巻七』Internet Archive)では「五月卒」としている。
公開:2011.11.09 更新:2014.04.16