Tags: 陳泰

  • 鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(後編)
  • 「忘年の交わり(前編)」の続きです。目次鄧艾は陳泰より年上だった?三国志演義の鄧艾は、陳泰より年下設定だった頑固な貴公子 vs 頑固な叩き上げ鄧艾と、陳寔の碑文鄧艾は陳泰より年上だった?『三国志演義』の「忘年の交わり」は、鄧艾(とうがい)と陳泰(ちんたい)の年齢差が大きくあったことによるものだが、彼…
  • 鄧艾と陳泰 - 「忘年の交わり」はあり得たか?(前編)
  • 魏の末期、いずれも蜀漢の姜維(きょうい)と戦った名将として知られる鄧艾(とうがい)と陳泰(ちんたい)は、年齢差にこだわらない友誼を意味する「忘年(ぼうねん)の交(まじ)わり」を結んだとされる。しかし実はこれは、小説『三国志演義(三国演義)』によるフィクションであった。歴史書の『三国志』に記される鄧艾…
  • 陳泰の葬儀
  • 陳泰(ちんたい)の葬儀がどのようなものだったか、直接の記述は残っていないが、推測できる記述が『晋書』にある。目次石苞の葬儀は、陳泰の葬儀に倣った陳泰の葬儀、および陳泰は司馬昭と決別してはいないという話陳騫の葬儀も、陳泰の葬儀が元になった同時期に死去した重臣余談・曹髦の葬儀は粗末だったのか?石苞の葬儀…
  • 2017.02.16 司馬兄弟による陳泰の呼び方
  • 三国志の人物が他の人物を呼ぶ際、姓名で、官職で、字(あざな)で、敬称で、などTPOによって様々なパターンがある。ふと、陳泰は誰にどう呼ばれているのか? と気になって調べてみた。陳泰は『三国志』『晋書』で計七回、名を呼ばれるが、うち六回が司馬昭の発言、他一回は司馬師の発言。司馬兄弟にしか名前を呼ばれな…
  • 2015.11.26 三国志の親友たち - 司馬昭と陳泰は親友なのか
  • 司馬景王、文王皆與泰親友,及沛國武陔亦與泰善。司馬師・司馬昭の兄弟はともに、陳泰と親友だった。……という重要な事実に、司馬昭と陳泰の関係に心惹かれてかなり経ってから気が付いた。というのも、ちくま訳の三国志では「親交があり」という素っ気ない表現になっていたのと、『世説新語』に登場する陳泰の司馬兄弟の取…
  • 姜維の北伐・255年(魏・正元二年、蜀・延熙十八年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維数万勝利→敗北魏軍陳泰不明敗北→勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍陳泰(ちんたい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)鄧艾(とうがい)(行安西将軍)胡奮(こふん)王秘(おうひつ)魏軍…
  • 姜維の北伐・253年(魏・嘉平五年、蜀・延熙十六年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維数万敗北魏軍郭淮不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍郭淮(かくわい)(車騎将軍、都督雍・涼諸軍事)陳泰(ちんたい)(奮威将軍、雍州刺史)魏軍(長安)司馬昭(しばしょう)(安東…
  • 姜維の北伐・249年(魏・嘉平元年、蜀・延熙十二年)
  • 総司令官兵力結果蜀軍姜維1万以下+羌族の兵敗北魏軍郭淮不明勝利※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。登場人物魏軍(総司令官)郭淮(かくわい)(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)魏軍(麴城包囲軍)陳泰(ちんたい)(奮威将軍、雍州…
  • 高貴郷公の孤独 - 誰が曹髦の味方だったのか
  • 魏の四代目皇帝曹髦(そうぼう)(高貴郷公)が、時の権力者司馬昭を殺そうと挙兵して敗死した事件(事件の流れは「高貴郷公の変」参照)の際、曹髦側についたとして今昔の三国志ファンの間でよく名を挙げられる人物に、王経、司馬孚(しばふ)、陳泰などがいる。だが、彼らは本当に曹髦の味方だったのか。目次陳泰について…
  • 2014.11.27 陳氏家系別バージョン、陳泰の妻の李氏、長男の陳奕など
  • 2014.06.01の続き?別件で検索していたときに拝見したブログ「列女志補説」> 収集大成と第二期まとめにて紹介されていた中国語圏のサイトより、さらに異なる陳氏家系図二種の話。陳泰の妻・李氏颍川世系43世祖,实,字仲弓。生于公元104年,卒于公元187年。少时家贫,但勤奋好学,深明大义,诎身…
  • 2014.06.01 陳泰の弟・陳訓、陳準が陳泰の子という説など
  • 陳羣の次男・陳訓?先日Twitterのフォロワーさんが紹介されていた「台北市台碩堂陳氏宗親會」のFBページを眺めていたら、こんな記述があった。三世祖群公生二子。 長子名諱泰 次子名諱訓 [……] 四世祖泰公生二子 長子名諱訴 次子名諱準 泰公名俊字元伯,群公之長子。仕魏官至尚書左仆射。 四世祖訓公生…
  • 陳泰の死 2 - 陳泰は死をもって司馬昭を諫めた?
  • 「陳泰の死」では、陳泰の死の理由は、曹髦を返り討ちにした賈充の罪を司馬昭が見逃したこと、つまり臣下による皇帝殺害を容認したことによって、陳泰自身がその潔癖すぎる正義感に基づき、友であり実質上の主である司馬昭に求めた理想が破壊されたことである、と仮定した。ここでは、その他の理由も考えてみることに。死を…
  • 高貴郷公の変 - 曹髦の決意と「司馬昭の心」
  • 魏の四代目皇帝となった元の高貴郷公・曹髦(そうぼう)は、初代皇帝曹丕(そうひ)の孫で、曹霖(そうりん)の子である。前皇帝曹芳(そうほう)が時の権力者、司馬師(しばし)(司馬懿(しばい)の子)によって廃位された後、新たな帝に立てられた。正元元年(254年)の即位当時には、まだ十四歳の若さであった。司馬…
  • 陳泰挂壁 - 賄賂は晒します!
  • 陳泰挂壁(ちんたいけいへき)意味 三国・魏の陳泰は匈奴の吏民を懐柔して誉れが高かった人であるが、都の貴人が宝貨を贈ってしきりに奴婢の購入を頼んでも、ことごとく贈り物を壁に掛けておいて取り合わなかった故事。のち、尚書になったとき、贈り物はことごとく贈り主に返還したという。『蒙求』の標題。 出典 「京邑…
  • 2014.03.13 陳泰の妻は、荀顗の娘ではない
  • ※疑問点を調べたときのメモ。 ※引用部分の本題に無関係なルビは省略。シミュレーションゲームの三國志には、陳泰の妻が荀顗の娘であると書かれている。ウェブ上にもしばしば書かれている。この根拠が不明だったが、どうやら荀顗が陳泰の「舅」という記述があることから来ているようである。「舅」の意味太常陳泰不至,使…
  • 陳泰の生年について
  • 陳泰は景元元年(260年)に死去したが、没年齢が記されていないため、生年がわからない。おおまかにでも推測できないものかと思い、調べてみたメモ。長いわりに実りがないので注意。目次仕官年による推測呂布軍の陳羣父子息子の没年による推測陳羣の生年を推測・その1:孔融との比較陳羣の生年を推測・その2:『世説新…
  • 陳泰の評価
  • 目次陳寿による評価司馬昭による評価武陔による評価張華による評価(当時の世評)王羲之による評価袁宏による評価陳泰の謚「穆」について陳寿による評価評曰:[……]陳羣動仗名義,有淸流雅望;泰弘濟簡至,允克堂構矣。[……]陳羣は名誉と道義によって行動し、高潔な人がらで高い声望をもっていた。陳泰は広く世を救い…
  • 陳泰の死 1 - 司馬昭に見た理想と絶望
  • 目次『三国志』が記さなかった陳泰の死因自ら命を絶った陳泰陳泰は、司馬昭の潔白を証明したかった賈充と陳泰、司馬昭のための真逆の選択理想と破綻、そして死『三国志』が記さなかった陳泰の死因陳泰(ちんたい)の死について、『三国志』魏書陳泰伝の本文には、景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯。〔一〕景元…
  • 諸葛誕の乱
  • 総司令官兵力結果魏軍司馬昭26万以上勝利呉軍諸葛誕・孫綝22〜23万以上敗北諸葛誕の乱(呉軍:諸葛誕率いる反乱軍&孫綝率いる救援軍 vs 魏軍:司馬昭率いる討伐軍の戦い)の時系列と位置関係のまとめ。『三国志』と『晋書』では日付の不一致があります。小文字部分は推測や感想含む。登場人物呉軍(寿春城)諸葛…
  • 陳泰キャリア年表
  • ※出来事は陳泰に関連する、もしくは重大な事件のみ記載。〔 〕は「三国官職表」等を参照した官品。西暦年月出来事官職等帝226黄初75月曹丕が崩御し、曹叡が即位する。曹叡12月父の陳羣が司空となる。233 〜237青龍1年2月 〜青龍5年2月この頃、陳泰が散騎侍郎となる。散騎侍郎〔五〕237青龍412月…
  • 2011.10.25 陳泰の正義のこと
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。曹髦弑逆事件絡みの逸話における、陳泰の死について改めて考えるこの事件において、陳泰が文字どおり「死ぬほど許せ…
  • 2011.10.18 司馬昭×陳泰、世説新語&漢晋春秋バージョン
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。2011.10.13の続き。問題のやりとりの世説新語バージョンをチェック。高貴郷公(曹髦)が亡くなると、朝廷…
  • 2011.10.18 陳泰の254年防衛戦メモ(自分用)
  • 追記:こちらは解説でも考察でもない、ただの自分用覚え書きです。解説はコラムページの「姜維の北伐」シリーズを見てね。陳泰の関わった対蜀の防衛戦は、249年(総司令官は郭淮)、254年、255年と少なくとも三回はあるようなのだが、254年の戦は陳泰伝ではスルーされている。254年・北伐防衛戦254年6月…
  • 2011.10.13 突然の陳泰ブーム
  • 追記:この日記は、現在の理解・意見と大幅に異なります。この内容は信じないでください。と追記したくなるほど間違っているが、自分用の思考過程として残す。詳しくはコラムページの陳泰コーナーを見てね。呉信者の私が、唐突に魏の陳泰にハマったきっかけは、今さら三國志11をプレイしてみたことだった。例によってオー…