陳泰の死 - 司馬昭に見た理想と絶望

『三国志』が記さなかった陳泰の死因

 陳泰ちんたいの死について、『三国志』魏書陳泰伝の本文には、

景元元年薨,追贈司空,諡曰穆侯〔一〕

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年 陳泰傳 P641

景元元年(二六〇)逝去し、司空を追贈され、穆公と諡された。〔一〕

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3』ちくま学芸文庫、1993年 陳泰伝 P484

 とあるのみだが(訳本『正史 三国志』の「穆」は誤植と思われる)、その詳細について、裴松之はいしょうしは複数の注を付けている。

〔一〕干寶晉紀曰:高貴鄉公之殺,司馬文王會朝臣謀其故。太常陳泰不至,使其舅荀顗召之。至,告以可否。曰:「世之論者,以方於舅,今舅不如也。」子弟內外咸共逼之,垂涕而入。王待之曲室,謂曰:「玄伯,卿何以處我?」對曰:「誅賈充以謝天下。」文王曰:「爲我更思其次。」曰:「言惟有進於此,不知其次。」文王乃不更言。
魏氏春秋曰:帝之崩也,太傅司馬孚、尙書右僕射陳泰枕帝尸於股,號哭盡哀。時大將軍入于禁中,見之悲慟,大將軍亦對之泣,謂曰:「玄伯,其如我何?」泰曰:「獨有斬賈充,少可以謝天下耳。」大將軍久之曰:「卿更思其他。」曰:「豈可使泰復發後言。」遂嘔血薨。

陳壽撰、裴松之注『三國志 三 魏書〔三〕』中華書局、1982年 陳泰傳 P642

〔一〕 干宝の『晋紀』にいう。高貴郷公が殺害されたとき、司馬文王は朝臣を集めてその事件について相談した。太常の陳泰が出席しなかったので、彼の舅の荀顗に彼を召し出させた。荀顗は訪れると事の理非について説明した。陳泰はいった、「世間の論者は私を舅殿に比べておりますが、今、舅殿は私に及びません。」子弟や内部外部のものがいっしょになって彼にせまったので、涙を流しながら参内した。文王は彼を曲室(密室)で待ち受け、「玄伯、卿は何をわしにさせたいのじゃ。」答えて、「賈充を処刑して天下に謝罪してください。」文王、「わしのために改めて別の手段を考えてくれ。」陳泰、「私の言葉はただこのことを進言するためにあるのです。別の手段など存じません。」文王はそこでそれ以上いわなかった。
 『魏氏春秋』にいう。帝が崩御すると、太傅の司馬孚と尚書右僕射の陳泰は帝の遺体をおのれの股に枕させる礼をとり、号泣して哀悼の意をつくした。そのとき大将軍(司馬文王)が宮中に参内した。陳泰は彼を見て悲しみ慟哭した。大将軍もまた彼に向って泣き、語りかけた、「玄伯、いったいわしをどうする。」陳泰、「ただ賈充を斬る手があるだけです。少しは天下に謝罪できましょう。」大将軍はしばらくしていった、「卿は改めてその他の手段を考えてくれ。」陳泰、「私にこれ以上の言葉をしゃべらせることができましょうや。」かくて血を吐いてなくなった。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3』ちくま学芸文庫、1993年 陳泰伝 P484〜485

 孫盛そんせい『魏氏春秋』によれば、陳泰の死は、時の魏帝・曹髦そうぼうの挙兵事件に絡む、いわば憤死であった。

 曹髦(高貴郷公)は、司馬氏が実権を握り、いずれは禅譲を迫られるであろう現状を憂い、自ら司馬昭しばしょうを討とうと決意。兵を率いて決起するも、応戦した賈充かじゅうの軍に逆に討たれてしまった事件である(追記:詳細は「高貴郷公の変」参照)。事件は「甘露五年五月」に起きているが、景元元年とは甘露五年が改元されたものなので、本文の死去年とも一致する。しかしこの事件は公式には、皇太后を暗殺しようと挙兵した曹髦が、命令に背いて勝手に応戦した成済せいせいによって討たれたということになっている。『三国志』が著された時代においては、曹髦の真の目的や、賈充の件を公にはできなかったことから、陳泰の死についても具体的に記すわけにはいかなかったのだろう。

 そして、これらの逸話のために、陳泰曹髦への忠誠を貫いて死んだ、曹氏側の人物であった、と解説されていることが多い。しかし陳泰は、司馬懿しばいの時代から長らく司馬氏の信頼厚い腹心のひとりとして活躍しており、さらに個人的にも司馬師しばし司馬昭兄弟とは親交の深い友人であった。その陳泰が、ここへきて曹髦への忠義によって憤死するというのは不自然な流れである。

自ら命を絶った陳泰

 陳泰司馬昭のこの会話は、『世説新語』方正篇に載せられた。『晋書』文帝紀にも採用されたが、いずれも陳泰が死んだ記述はない。

高貴鄕公薨、內外諠譁。司馬文王問侍中陳泰曰、何以靜之。泰云、唯殺賈充以謝天下。文王曰、可復下此不。對曰、但見其上、未見其下。

通釈 高貴郷公(曹髦)が亡くなると、朝廷の内外は騒然となった。[一]司馬文王(司馬昭)は侍中の陳泰にたずねた、[二]「どのようにして、この騒ぎを静めたものだろうか。」泰は答えた、「ただ賈充を殺して天下に謝罪するほかありません。」文王は言った、「もっと、それ以下の方法はないだろうか。」泰は答えた、「それ以上の方法があるだけです。それ以下はありません。」[三]

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』明治書院、1976年 方正第五 P361〜362

  帝召百僚謀其故,僕射陳泰不至。帝遣其舅荀顗輿致之,延於曲室,謂曰:「玄伯,天下其如我何?」曰:「惟腰斬賈充,微以謝天下。」帝曰:「卿更思其次。」曰:「但見其上,不見其次。」

房玄齡等撰『晉書 一 紀』中華書局、1974年 文帝紀 P36

帝(司馬昭)は百官を召集してことを謀ったが、僕射の陳泰はやってこなかった。帝は彼の母方の叔父の荀顗じゅんぎを遣わして〔陳泰を〕輿で連れてこさせ、奥の密室に招くと、言った、「玄伯げんはく陳泰あざな、天下は私をどうしようというだろうか?」陳泰は言った、「考えますに賈充を腰斬(腰のあたりで体を二つに斬る極刑)に処せば、少しは天下に謝することができましょう。」帝は言った、「そなたは改めて次策を考えてくれ。」陳泰は言った、「より上の策が考えられるのみです、次策は考えられません。」

 しかしこの『世説新語』の注には、陳泰伝と同じく干宝『晋紀』からの逸話(多少、字句の異同がある)と、さらに習鑿歯『漢晋春秋』からの逸話が引かれる。

[三]干寶晉紀曰、高貴鄉公之殺、司馬文王召朝臣謀其故、太常陳泰不至。使其舅荀顗召之、告以可不。泰曰、世之論者、以泰方於舅、今舅不如泰也。子弟內外咸共逼之、垂涕而入。文王待之曲室、謂曰、玄伯、卿何以處我。對曰、可誅賈充以謝天下。文王曰、爲吾更思其次。泰曰、唯有進於此、不知其次。文王乃止。

漢晉春秋曰、曹髦之薨、司馬昭聞之、自投於地曰、天下謂我何。於是召百官議其事。昭垂淚問陳泰曰、何以居我。泰曰、公光輔數世、功蓋天下、謂當並迹古人、垂美於後。一旦有殺君之事、不亦惜乎。速斬賈充、猶可以自明也。昭曰、公閭不可得殺也、卿更思餘計。泰厲聲曰、意唯有進於此耳、餘無足委者也。歸而自殺。

[三]干宝『晋紀』にいう、「高貴郷公が殺されると、司馬文王(司馬昭)は朝臣を呼びよせてその事をはかろうとしたが、太常の陳泰はやってこなかった。その叔父の荀顗に彼を呼んで、出席の可否をたずねさせた。泰はいった、〈世の論者は、私を叔父さんにくらべておりますが、今度の場合、叔父さんは私に及びません。〉子弟や親戚が皆一緒に強要したので、涙を流しながら伺候した。文王は彼を奥の部屋で待ちうけて言った、〈玄伯(陳泰)、君は私をどうしようというのかね。〉泰は答えた、〈賈充を殺して天下に謝罪すべきです。〉文王は言った、〈私のために、もう少し何とか方法を考えてくれ。〉泰は答えた、〈もっときびしい方法があるだけです。それ以下は知りません。〉文王はそこで問うのをやめた。」
『漢晋春秋』にいう、「曹髦が亡くなると、その事を聞いた司馬昭は、わが身を地に投げ出して言った、〈天下の人々は、私を何というであろう。〉そこで百官を呼び、その事をはかった。昭は涙をこぼしながら陳泰にたずねた、〈私はどうしたものであろう。〉泰は答えた、〈公は数代にわたってりっぱに補佐し、その功労は天下に並ぶものがありません。ですから私は、公の功績は古人にくびすを接し、名声が後世に伝わるであろうと思っておりました。それなのに、ふいに君主を殺害する事件がもちあがりましたのは、なんと残念なことではありませんか。すぐにも賈充をお斬りになれば、なお自らの明かしを立てることができましょう。〉昭はいった、「公閭(賈充)は殺すことができない。きみは、さらにほかの計を考えてくれ。〉泰は声を励ましていった。〈考えまするに、ただこれよりきびしい計があるばかりです。ほかに従うべき計はありません。〉そして帰ると自殺した。」

目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』明治書院、1976年 方正第五 P363〜364

 『世説新語』や『漢晋春秋』では司馬昭が敢えて陳泰に相談しているが、これも、司馬昭が彼に信頼を置いていたからこそだろう。

 興味深いのは、『漢晋春秋』の逸話である。ここでは、陳泰はより積極的に司馬昭の潔白を主張しており、そして最後には、自ら死を選んだとされる。

陳泰は、司馬昭の潔白を証明したかった

 そもそも、ここで司馬昭が狼狽しているのは、故意に曹髦を討ったからではなかったからだ。

中護軍賈充又逆帝戰於南闕下,帝自用劍。衆欲退,太子舍人成濟曰:「事急矣。當云何?」曰:「畜養汝等,正謂今日。今日之事,無所問也。」卽前刺帝,刃出於背。文王聞,大驚,自投于地曰:「天下其謂我何!」

陳壽撰、裴松之注『三國志 一 魏書〔一〕』中華書局、1982年 高貴鄕公紀注『漢晉春秋』 P144

中護軍の賈充がまた南闕のもとで帝を迎え討って戦ったところ、帝みずから剣をふるって立ち向った。軍勢が退却しようとしたため、太子舎人の成済が賈充に、「事態は切迫しております。どうしたらよいでしょう」といった。賈充は答えた、「おまえたちに食い扶持を与えてきたのは、まさしく今日のためである。今日のことは、〔あとから〕問題にしはしない。」成済はすぐに進みでて帝を刺殺した。その刃は背中にまでつき出た。司馬文王はこれを聞き知るとたいそう驚き、地面に身を投げ出していった、「天下の人は、私のことをなんというだろうか。」

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1』ちくま学芸文庫、1992年 高貴郷公紀注『漢晋春秋』 P348

 高貴郷公紀の注に引かれる、こちらも『漢晋春秋』の記述より。『世説新語』に引かれるものと比較すると、陳泰のくだりは省略されているが、この後に司馬孚の反応が入れられている。魏王朝には否定的な立場の書であるため、脚色のある可能性も否めないが、裴松之はこの記述を最も評価している。

 いずれにせよ、決して世間一般のイメージのように(?)司馬昭側が謀って曹髦を殺害したわけではない。あくまで、曹髦が襲撃してきたために応戦した結果である。さらに殺害そのものは現場指揮官であった賈充の判断による指示であって、司馬昭の意図したものではなかった。

 それでも、結果的に臣下が帝を弑逆してしまったという事実は、少なくとも陳泰にとっては非常に重いものであった。『魏氏春秋』に見られる陳泰司馬孚と同様、帝に哀悼の意をつくした、という逸話も彼の人柄の現れだろう(※追記:と思ったが、この逸話には元ネタがあり、これは魏に忠節を示しつつ曹髦個人を見放す態度だったのかもしれない。「高貴郷公の孤独」陳泰の項目参照)。

 陳泰が元より潔癖かつ頑固な性格であることは、若いころ、贈られる賄賂をはねつけたエピソードからも窺い知れる。

正始中,徙游擊將軍,爲幷州刺史,加振威將軍,使持節,護匈奴中郞將,懷柔夷民,甚有威惠。京邑貴人多寄寶貨,因市奴婢,皆挂之於壁,不發其封,及徵爲尙書,悉以還之。

房玄齡等撰『晉書 三 志』中華書局、1974年 陳泰傳 P638

正始年間、游撃将軍に移り、幷州の刺史となり、振威将軍の称号を加えられ、使持節・護匈奴中郎将となって、異民族を手なずけ、はなはだ威厳と恩愛があった。都の貴族たちには財貨をことづけて陳泰に仲介をたのみ奴婢を買ってもらおうとする者が多数いたが、陳泰はそれをすべて壁にひっかけておき、その封も開かなかった。中央に召されて尚書となってから、それらを全部返した。

陳寿、裴松之注、今鷹真訳『正史 三国志 3』ちくま学芸文庫、1993年 陳泰伝 P478

 こうした潔癖な性格の陳泰にとって決して許すことのできない、天子を殺害してしまうという大罪が、責任者たる司馬昭に降りかかろうとしている。

 「私はどうしたものであろう。」司馬昭に狼狽しながら諮られた陳泰は、「すぐにも賈充をお斬りになれば、なお自らの明かしを立てることができましょう。」と答える。これは賈充の罪であって、あなたの罪ではないのだから、賈充を処刑すれば司馬昭の潔白は天下に証明される。上官であると同時に友でもある司馬昭の窮地を救うべく、陳泰は自分の信念に基づいてそう進言する。

賈充と陳泰、司馬昭のための真逆の選択

 しかし賈充としてもこれは、主である司馬昭を守るための果敢な判断の結果だった。結局は実行した成済らを処刑したのみで切り抜けてはいるが、仮に司馬昭陳泰の進言を採用していたならば、彼自身も命はなかったのである。いかに司馬昭の信頼を得ているとはいえ、絶対に処刑されないという確信があったとも思えない。賈充もまた、自分の命をかけても、ここで曹髦を排除しておくことが司馬昭のためになると判断したのである。

 賈充の選択と陳泰の選択は、一見真逆ではあるが、いずれも司馬昭を救おうとする意思によるものだった。

 そして結局、司馬昭陳泰の進言を拒み、賈充の助命を選んだ。司馬昭にとっては、失うことのできない人材だったのだろう。

 拒んでおきながらも、司馬昭は「私のために、もう少し何とか方法を考えてくれ。」と言い募る。陳泰の心情としては、すでに完全に賈充を拒絶している。司馬昭は「公閭こうりょ」と賈充をあざなで呼んでいるが、陳泰は「賈充」と諱を呼び、敵に対するような態度である。しかし司馬昭は、あくまでも賈充の助命のためではない、司馬昭自身のために、なんとか考えてくれと迫るのである。都合のいい物言いとも思えるが、司馬昭としても動転していて必死だったのかもしれない。

 だが、元より不正や不道徳を決して許せない性格の陳泰にとって、逃げ道は存在しなかった。「考えまするに、ただこれよりきびしい計があるばかりです。」この発言は、司馬昭を処刑することを暗示するとされる。賈充の罪を不問にするというならば、司馬昭自身がトップとして責任をとるしかない。だが、どの逸話においても、陳泰は妥協を拒絶し、その責任をほのめかしながらも、結局、明瞭な言葉にはしない。そして『漢晋春秋』の説に至っては、自ら命を絶ってしまった。

理想と破綻、そして死

 なぜ陳泰は自殺したのか。公私ともに同じ道を歩んできた、少なくともそう信じていた司馬昭の理想や正義が、自分自身の理想や正義と一致しなくなってしまった、という現実に絶望したのかもしれない。

 曹髦が、帝でありながら一種のクーデターを決意せざるを得なかったほど、いずれは司馬氏の世となることが誰にもわかる時勢だった。そして実際、この事件が起きたにも拘わらず、国が動揺することはなかった。それほど明白に、世は既に司馬氏を支持していたのである。陳泰も、司馬昭がいずれ帝の座に即くことを決して否定してはいなかったはずだ。だが「公の功績は古人にくびすを接し、名声が後世に伝わるであろうと思っておりました。それなのに、ふいに君主を殺害する事件がもちあがりましたのは、なんと残念なことではありませんか。」という言葉からして、陳泰にとって司馬昭は、あくまで清く正しく、誰もが認める正統的な状況で禅譲を受けるという存在でなければならなかった。しかし事件の発生によって、現実はその理想を裏切りはじめる。さらに司馬昭賈充の処刑を拒否したことにより、その齟齬は決定的なものとなってしまったのである。

 こうして陳泰自身の正義感に基づく理想と、司馬昭に対する親愛に基づく理想は、共存することが叶わなくなった。絶望が命を奪ったにせよ、自害したにせよ、その思いによって陳泰は死んでしまった。

 曹髦の事件に対する司馬昭側の対処は素早かった。曹髦の罪は皇太后の殺害を謀ったものとされ、それに関する嘆願などが翌日付で出されていることから、事件の処理については当日中に結論が出たようで、つまりこの司馬昭陳泰のやりとりは、事件当日の出来事である。陳泰の死去した日付は公式には年以外は不明だが、実際には曹髦の死と同日、つまり甘露五年五月七日であった可能性が高い。

 司馬昭は、賈充を失うことは免れたものの、代償として陳泰を失うことになった。しかし、司馬昭としても、さすがにここで死なれることは予想外だったのではないだろうか。「私のために、もう少し何とか方法を考えてくれ。」敢えてそう迫ったのは、自分の選択に対する同意、なお変わらず同じ道を歩んでくれるという証を求めてのことだったのかもしれない。だが結果としてその言葉は、友であり腹心であったはずの相手を、取り返しのつかないところまで追い詰めてしまうことになった。

 司馬昭陳泰の死をどう受け止めたのか、歴史書は何も記さない。ことによると、自分を否定された、裏切られた、ととらえたかもしれない。だが、その死は少なくとも決して単なる魏朝への思いゆえではなかった。もしも陳泰曹髦の忠臣であろうとしたならば、彼の言う「これよりきびしい計」を選ぶ、あくまでも司馬昭を断罪するという道を選ばなければならなかった。だが現実には陳泰は、それを司馬昭に突きつけることはできなかった。代わりに選んだのは、自分自身の死だったのである。自分の信念に基づくならば、あなたを断罪しなければならないが、どうしてもそうすることができない。むしろ司馬昭への思いこそが、彼に死をもたらしたのだった。

 それでも、時代は滞りなく流れていく。曹髦の死に様は、ある意味では華やかなものであった。とても勝算があっての行動とは思えないが、それでもなお彼は、帝としての誇りを守ろうと戦い、そして散っていった。その強烈なドラマの影で、陳泰の最期は、時代の流れの中にひっそりと呑み込まれてしまったかのような死でもあった。

公開:2013.12.30 更新:2014.05.01