高貴郷公の変 - 曹髦の決意と「司馬昭の心」

 魏の四代目皇帝となった元の高貴郷公・曹髦そうぼうは、初代皇帝曹丕の孫で、りんの子である。前皇帝曹芳が時の権力者、司馬師司馬懿の子)によって廃位された後、新たな帝に立てられた。正元元年(254年)の即位当時には、まだ十四歳の若さであった。司馬師は本来、曹拠曹丕の弟の一人)を即位させたいと考えていたが、皇太后(二代目皇帝・曹叡の皇后であった氏)が反対し、曹髦を推薦したため決まったという(『魏略』)曹髦は英明な人物で、その才は曹植に、武は曹操に比べられると評された(『魏氏春秋』)

 だが現実には既に魏の実権は、司馬師と、やがてその急死によって後を継いだ弟の司馬昭の手にある。曹芳の時代にも王淩らが司馬懿に抗おうとして敗れたが、曹髦の即位後も、毌丘倹かんきゅうけん文欽、次いで諸葛誕と、司馬氏に抗い挙兵しては敗れ去る者が続き、その権力はますます強まっていた。

 曹髦は学問を愛好する少年だったが、一方でただの傀儡に甘んじるような、おとなしい人間ではなかった。曹髦は、自ら著した文集の中で自身を頑固であるとも述べている。臣下を召集して討論会を開く際には、遠方から速やかに呼びよせるために快速の馬車を支給する性急な質だったという(『晋諸公賛』)。各種の逸話からは、学ぶことに積極的だがやや短気で頑なな、プライドの高い少年の像が浮かび上がってくる。だがこの性格が、曹髦に悲劇を招きよせることになった。

 甘露三年から四年(258〜259年)ごろにかけて、龍が井戸の中に現れるという吉兆が頻繁に報告された。しかし曹髦は、これを吉兆ではないと考えていた。君主の徳の象徴である龍が、天に昇ることもなく井戸の中に縮こまっている。曹髦はこれを詩に作り、司馬昭に権力を握られ、押し込められている自分を諷してみせた(『漢晋春秋』)

 こうして、抑圧された自尊心を燻らせ続けていた曹髦は、甘露五年(260年)の初夏、ついに事件を起こす。『三国志』魏書高貴郷公紀には、唐突に「五月己丑,高貴鄉公卒,年二十。」とのみ記され、次いで曹髦が死去することになった「事情」を記した皇太后の詔勅と、それに対する対応や司馬昭の上奏文が載せられる。それによれば、曹髦は酷く道に外れた性格で、皇太后の諫めや司馬昭の弁護にも応じず、ついには皇太后を暗殺しようとして失敗。さらに兵を率いて皇太后と司馬昭を襲撃しようとしたが、太子舎人の成済という者が司馬昭の命令に背いて勝手に応戦し、曹髦を討ってしまった、という顛末が記されて終わる。

 だが、注釈者の裴松之は、この曹髦による事変の企ての詳細と真相を、様々な文献から引用して明かしていく。以下はそれらの注釈および『晋書』『世説新語』等から見えてくる話である。

 帝たる自分の威が日増しに失われていくことに、ついに耐えられなくなった曹髦は、甘露五年(260年)五月戊子の日(6日)の夜、李昭らに命じて兵を集め、王沈王業王経の三名を召し寄せて密かに詔書を示すと、こう告げた。「司馬昭の本心は、道行く人でも知っている。私はこのまま坐して退位の恥辱を受けることはできない。今日こそ諸君とともに自分の方から出撃して彼を討ちとるべきだ(高貴郷公記注『漢晋春秋』」。

 だが現実には、魏の重臣らは皆司馬昭に心を寄せており、一方の曹髦の手元には、兵士も武器も多くはない。このように無謀な計画が成功するはずがないと考えた王経は、必死に諫めようとしたが、曹髦の決意は固かった。「これで死んだとしても、なんの恐れることがあるものか」(高貴郷公記注『漢晋春秋』)。そう宣言すると、曹髦は皇太后にことを告げるために出て行った。

 しかし、王沈らも他の家臣同様、曹髦の味方ではなかった。王沈王業の二人はこの隙に急いで司馬昭の元へ駆けつける。王経だけは、二人に行くように促して自分は曹髦の元に留まり、代わりに二人に司馬昭に意向を伝えてもらおうとした(『世語』。しかし、結局二人が司馬昭王経の意を伝えなかったため、王経曹髦に荷担したものと見なされた)王沈らに曹髦の挙兵計画を告げられた司馬昭は、慌てて軍勢を配置し、警戒態勢を敷く。

 翌五月己丑の日(7日)、曹髦は側仕えの李昭焦伯を従え、自らも剣を取って数百人の兵士や下僕を率い、司馬昭の役所を襲撃する。司馬昭の弟の一人、司馬伷しばちゅうも軍勢を率いて防衛に当たっていたが、曹髦の配下に叱りつけられ、恐れ憚って撤退してしまう。

 曹髦はそのまま攻め寄せるが、次に立ち向かったのは、司馬昭の腹心の一人である賈充かじゅうの軍勢だった。とうとう自ら剣を抜いて向かってきた曹髦に、対する兵士たちもさすがに怯んで退却しようとしたが、賈充は恐れなかった。「おまえたちに食い扶持を与えてきたのは、まさしく今日のためである」(高貴郷公記注『漢晋春秋』)。そう叱咤すると、賈充は指揮下の成済に応戦を命じる。賈充は、もし司馬氏が敗北するようなことがあれば、おまえたちの家も絶えるのだと脅して、成済とその兄の成倅せいさいを出撃させた。兄弟が、曹髦を殺すべきか捕らえるべきかと問うたところ、賈充は「殺せ」と命じたという(『魏末伝』。ただし、この『魏末伝』は他の箇所で裴松之に鄙陋であると批判される書であり、賈充が実際にこれほどの発言をしたかどうかは怪しい)。このことは不問にする、という賈充の言葉を信じた成済は、矛を手に進撃する。その刃に背まで貫かれ、曹髦は絶命した。激しい雨が降り、あたりは真っ暗になった。

 この事態に、朝臣らは衝撃を受けた。いかに世の支持を集めていたとはいえあくまで宰相である司馬昭側が、天子である曹髦を殺してしまうという重大事になってしまったのである。曹髦の学問教育にあたっていた王祥は号泣しながら言った、「(このようなことになったのは)この老臣の罪です」。また、司馬昭の叔父にあたる司馬孚は、曹髦の亡骸を股に枕させ(済の晏嬰が殺された主君に対してとった礼。※追記:この礼については「高貴郷公の孤独」参照て「陛下を殺したのは、私の罪です」と慟哭する。

 だが司馬昭自身も、この結果に対しては大いに動揺していた。「天下の人々は、私のことをなんというだろうか」。司馬昭は群臣を集め、この前代未聞の事件にどう対処すべきか諮ろうとする(高貴郷公記注『漢晋春秋』)。だが、司馬昭が信頼をおく腹心の一人であるはずの陳泰は、この召集を拒否した(陳泰伝注引『晋紀』。ただし裴松之はこの記述はでたらめと否定。『魏氏春秋』では司馬昭よりも先に参内し、司馬孚ともに曹髦の亡骸に礼を行ったとされる)。母方の叔父である荀顗じゅんぎを遣わされ、親族らに説得されてやむを得ずやってきた陳泰は策を問われ、賈充の処刑を進言する(『晋紀』他)。「すぐにも賈充をお斬りになれば、なお自らの明かしを立てることができましょう」。だが賈充は、司馬昭にとっては代え難い懐刀である。司馬昭はこの進言を却下し、次策を問うた。だが陳泰は、それ以外に世に謝意を示す方法はないとしてその場を去ると、自ら命を絶ってしまった(世説新語注引『漢晋春秋』)。(あるいは、やりとりの後に血を吐いて死んだとも。詳細は「陳泰の死」参照)。

 こうして結局、賈充の言葉を信じて反撃した張本人である成済のみが、帝を弑逆した大逆人とされ、法によって一族処刑されてしまった。『三国志』や『晋書』に載せられる司馬昭の上奏文によれば、司馬昭は将兵に帝を傷つけないよう命じ、違反者は軍法によって裁くと予め言い渡していた。一方、自身は自ら曹髦を諫めに赴こうとしたが、現場に近づけずにいるうちに、成済が命令に違反して勝手に応戦し、曹髦を殺してしまったという。だが、各種の書に残る、成済の行動は賈充の命令によるものだった、というのが真相なのではないか。成済兄弟は罪を不服として屋根の上に逃げ、追手を罵ったが、ついには矢を射かけられて倒されてしまった(『魏氏春秋』)

 当初、司馬昭の弟の一人である司馬幹曹髦の来襲に備えて駆けつけようとしたが、門を守備していた司馬昭配下の孫佑という者に阻まれる事件があった。司馬幹の訴えを聞いた司馬昭は、孫佑を一族処刑にしようとしたが、曹髦を討ったことに対しても成済兄弟が処刑されるに留まったことから、ここで孫佑を重い刑に処しては反発を招くと考えた荀勖じゅんきょくが諫めたため、孫佑は免官されるに留まった。

 一方、ひとり曹髦の元に留まった王経は、曹髦に荷担したと看做され、一族処刑を言い渡された。王経の母は「今度のことで死ねるなら、なんの恨むことがありましょうか」と笑って答えたという。かつて王経に抜擢された向雄は、処刑に際して哭礼を行ったが、司馬昭は不問とした。またかつて王経の部下であった皇甫晏が、私財を投じて亡骸を埋葬した(夏侯玄伝注『世語』他。後に晋の時代になってから、司馬昭の子である帝・司馬炎は、王経は法によって処刑されたとはいえその志操は評価すべきであるとして、その孫を取り立てた(夏侯玄伝注『漢晋春秋』

 曹髦当人も、皇太后暗殺を企て国家を危機に陥れた(とされる)ことから帝としての位は廃され、諡を送られることもなく葬られた。このため史書には、即位以前に封じられていた「高貴郷公」の位で記される。皇太后は、過去の歴史において罪を犯した君主の事例に倣い、曹髦は庶民の礼式によって葬るべきである、との詔勅を下したが、せめて王の礼式で葬るように、と司馬昭らが上奏し、これが容れられたとする。これらのやりとりは、司馬昭側が世に礼節を示すための建前で、皇太后の本心ではないだろう。『漢晋春秋』は、曹髦は落陽の西北の浜に埋葬されたが、その葬列には旗もなく、車が数乗つき従うだけであったと記すが、裴松之はそれでは到底王の礼式とは言えず、これは過剰に表現されたものであろうと注記している。『帝王世紀』は曹髦は諸公の礼式で葬られたとする。いずれにせよ、その葬儀はかつての帝に相応しいものではなかった。

 この曹髦の抵抗は、時代の現実の中では、実に虚しいものだった。このような事件が起きて後も、魏の大勢が変わらず司馬氏を支持していたことを、敵国であるところの呉の後の丞相である張悌が伝えている。この数年後に司馬昭は蜀討伐を計画することになるが、呉では、世はいまだ司馬氏に心服しきってはいないことから失敗するであろうとする意見が主流だった。だが張悌は、冷静に敵国の情勢を分析。かつて曹氏がその威勢によって民衆を畏れさせ征服していたのに対し、司馬氏は政の過酷さを除いて民衆に恩恵を施すことによって手懐けていることは、度重なる淮南の反乱や、曹髦の死によってさえも天下に動揺が起こらなかったのが証拠であり、一方の蜀は宦官に牛耳られて疲弊しているため、必ず征服されてしまうであろうと主張した(孫晧伝注引『襄陽記』)

 決起にあたって曹髦王経らに語ったとされる言葉は、後に中国の諺になった。

司馬昭の心、路人皆知る 司馬昭之心、路人皆知

意味 司馬昭は三国・魏の人。司馬懿の次子。のちの晋の文帝。司馬昭はその君曹髦を憎み、叛こうとしていた。その彼の心のうちは、道行く人にさえわかっているということ。道にはずれた謀は公然の秘密となるたとえ。

和泉新・佐藤保編『中国故事成語大辞典』東京堂出版、1992年、P561

 ここでいう心のうちとは当然、魏に禅譲させて新王朝を開こうとする、魏側からみれば簒奪に等しい野心である。魏晋革命そのものを「道にはずれた謀」としてしまうと、魏朝を開いた曹氏もまた道にはずれていることになってしまうが、司馬昭は『三国志演義(三国演義)』でも腹黒い悪役として描かれるような風潮から、こうした諺が生まれたのかもしれない。しかし結局、曹髦の後には魏最後の帝となる曹奐が据えられた。司馬昭は魏の臣下として一生を全うし、王朝の交代は次世代に持ち越されることになる。曹髦の言う「司馬昭の心」の真実は、明確に歴史の中に描かれることのないままであった。

 実際、各種の逸話に見られるように、少なくとも司馬昭にとって曹髦が討たれたのはアクシデントであり、決して意図したものではなかった。とはいえ、時代の情勢に反して自立の志を持つ曹髦が、心穏やかでない存在であったことは確かだろう。曹髦の詠んだ「潜龍」の詩を、司馬昭は不快に思ったと『漢晋春秋』は記す。

 曹髦が討たれたとの一報を受けた司馬昭の狼狽は、真実なのか。悩んだ末の決断ではあるかもしれないが、それでも翌日には既に、成済兄弟にとってはまったく不運でしかない「実行した者を処刑するだけで問題はない」という結論が出されている。陳泰が主張した賈充の処刑を見送ったのも、そこまでせずとも天下の支持を失うことはないと見越しての判断だったのかもしれない。賈充自身にせよ、生け捕ることもできた中で敢えて曹髦を討ち取る道を選んだのは、このままではその存在が再び、司馬氏の理想の世への障害になると判断したからだろう。それがこうした余裕に基づいてのものか、それとも自身の処刑を覚悟での果断だったのか、真相はわからない。ともかくも命拾いした賈充はやがて、新たな時代を目前に世を去ることになった司馬昭に跡継である司馬炎を託され、西晋の重臣となっていく。

 曹髦の手勢は、わずか数百人の下僕のみだった。対する相手は、国の権力を一手に握っている。到底備えが足りないと王経が諫めていることからも、客観的に見て勝算はなかったものと思われる。それでもなお曹髦は、無謀を覚悟の上で自ら剣を取った。曹髦の目的は現実に司馬昭を打ち倒すことよりも、自分自身に帝としての尊厳を取り戻すことだったのかもしれない。

 果たして曹髦のこの決起は、無駄だったのだろうか。臣民を心服させ時代の勝者であったはずの司馬昭は後世、ことに物語の世界においては、主君を弑逆した希代の悪役としてこき下ろされることになる。一方で、敗れ去ったばかりか、天下を僅かに揺るがすことすらできなかったこの二十歳の若き帝の志は、衰退する曹魏の末期にひときわ異彩を放ち、正史には記されなかった数々の逸話によって、ある種のヒロイックで悲劇的な「浪漫」として語り継がれているのである。

参考・引用文献

  • 陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子・小南一郎訳『正史 三国志 1〜8』ちくま学芸文庫、1992〜1993年
  • 陳壽撰、裴松之注『三國志 一〜五』中華書局、1982年
  • 房玄齡等撰『晉書 一〜十』中華書局、1974年
  • 陳壽撰、裴松之注、盧弼集解、錢劍夫整理『三國志集解 壹〜捌』上海古籍出版社、2012年
  • 目加田誠『新釈漢文大系 第77巻 世説新語(中)』明治書院、1976年
  • 和泉新・佐藤保編『中国故事成語大辞典』東京堂出版、1992年

2014.05.07