姜維の北伐:254年(魏・嘉平六年=正元元年、蜀・延熙十七年)
総司令官 | 兵力 | 結果 | |
---|---|---|---|
蜀軍 | 姜維 | 不明 | 勝利 |
魏軍 | ? | 不明 | 敗北 |
※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。
登場人物
魏軍 → 蜀軍
- 李簡(狄道県長)
魏軍(襄武)
- 徐質(討蜀護軍?)
魏軍(長安?)
- 司馬昭(安東将軍、行征西将軍)
蜀軍
- 姜維(衛将軍、録尚書事、涼州刺史、督中外諸軍事)
- 張嶷(盪寇将軍)
地理
周辺事情
この年(魏・嘉平六年、蜀・延熙十七年、西暦254年)1月、前年雍州を攻めるも敗退した姜維が成都に帰還する。
魏では、2月、李豊(中書令)・張緝(光禄大夫)らが司馬師(大将軍)を失脚させて夏侯玄(太常)に代えるクーデターを画策するが、発覚し、関係者一同が誅殺される事件が起きる。
戦の経緯
嘉平六年(254年)6月〜
魏の狄道県長である李簡が蜀に密書を送り、帰順を申し出る。蜀側では、罠ではないかと疑った。しかしこのころ任地から成都に帰還していた張嶷(盪寇将軍)は、本当の降伏だと主張した。こうして蜀軍は狄道の軍資を拠として隴西に進攻することになった。張嶷は病のため足が不自由で、杖をついて起き上がるという状態だったが、出陣して敵地で身を捧げたいと自ら願い出る。
督中外諸軍事となった姜維は、張嶷らを率いて進軍する。狄道の城に到着すると、李簡とその配下や民が挙って軍を出迎えた。
張嶷伝やその注に引く『益部耆旧伝』では姜維らは李簡の寝返りの報を受けて侵攻しているが、姜維伝では姜維が迫ったために李簡が降伏するという流れになっている。
一方の魏では、姜維討伐のため、司馬昭(行征西将軍)が任地の許昌から召喚された。
司馬昭は前年にも臨時に呼び出されているが、一旦本来の任地へ帰還していたようである。都に寄った際、許允(中領軍)が曹芳の勅命として司馬昭を暗殺し、その軍勢をもって司馬師を失脚させようと計画したが未遂に終わった、という事件の記述として出てくるのみ(斉王紀の注に引く『世語』『魏氏春秋』)で、戦における具体的な行動は不明。なお、許允は李豊らの事件の後、態度を警戒されて遠ざけるため鎮北将軍に任じられたが、赴任前に横領罪で配流となり道中死去したため、裴松之は時系列的に不可能とする。しかし事件直後に鎮北将軍になったと限定しなければ、逮捕される秋までの間に行うことは可能かもしれない。
さらに軍を進めた姜維は、襄武を包囲する。魏の徐質(討蜀護軍?)が張嶷と交戦し、張嶷は自軍の損害に倍する損害を魏軍に与えるも、戦死した。しかし徐質もまた姜維の軍勢に敗れて戦死し、魏軍は敗退した。
敗れた魏側には記述がなく、他に誰が関わったのかも、敗戦までの詳細な流れも不明。雍州軍の総司令官は郭淮だが、彼は翌1月には死去する。病床にあり、行征西将軍の司馬昭が代理で総指揮を執った可能性もあるかもしれない。現場で徐質らを率いていたのは、これまでのパターンからしても雍州刺史の陳泰かと思われるが、やはり記述にはない。
嘉平六年(254年)9月
魏の都では9月、司馬師ら臣下一同の上奏により曹芳が廃位される。
正元元年(254年)10月
翌月、代わって曹髦が即位する。
正元元年(254年)冬(10〜12月)
姜維は勝利に乗じてさらに進軍、狄道に加えて河関・臨洮も攻略する。三県の民は、蜀の綿竹・繁に移住させられた。
綿竹・繁は、それぞれ成都の北方にある県。
こうして姜維は隴西郡に大きく拠点を得たようなのだが、翌年8月には何故かまた狄道を攻めている。いつの間に魏軍が奪回したのだろう?
2015.08.16