姜維の北伐:253年(魏・嘉平五年、蜀・延熙十六年)
総司令官 | 兵力 | 結果 | |
---|---|---|---|
蜀軍 | 姜維 | 数万 | 敗北 |
魏軍 | 郭淮 | 不明 | 勝利 |
※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。
登場人物
魏軍
- 郭淮(車騎将軍、都督雍・涼諸軍事)
- 陳泰(奮威将軍、雍州刺史)
魏軍(長安)
- 司馬昭(安東将軍、行征西将軍)
魏軍(洛陽)
- 司馬師(大将軍・都督中外諸軍事)
- 虞松
蜀軍
- 姜維(衛将軍、録尚書事、涼州刺史)
地理
周辺事情
前回、嘉平二年(250年)の姜維の侵攻以降、魏では王淩の乱が発生し司馬懿が鎮圧。その後司馬懿は死去し、長子の司馬師が後を継ぐ。
呉では孫権が崩御して幼帝の孫亮が即位、太傅の諸葛恪が実権を握るようになった。この前年の嘉平四年(252年)冬、魏は呉の混乱に乗じて各所に侵攻するが、諸葛恪に東興で大破され、撤退する。
蜀では、この年(魏・嘉平五年、蜀・延熙十六年、西暦253年)1月、費禕が魏からの投降者である郭脩(郭循とも)に暗殺される事件が起きる。
郭脩は魏の中郎で、過去に姜維が西平(涼州にある郡)に侵略した際に捕らえられていた。のち8月に、魏は郭脩の忠誠と勇気を讃えて爵位を追封し、子を官に取り立てて報賞している。
戦の経緯
嘉平五年(253年)春
呉では、前年魏軍に大勝した諸葛恪が、出陣を計画する。諸葛恪は司馬の李衡を使者として姜維の元へ遣ると、魏を攻める好機だとして、呉が東方を攻めるのにあわせて西方を攻めるよう説いた。こうして諸葛恪は3月、魏の合肥新城に侵攻する。
嘉平五年(253年)4月〜
4月、諸葛恪の意見を容れた姜維は、魏領に侵攻する。
呉・蜀による東西二方面の侵攻が発生した状態となった魏では、総帥である司馬師が虞松に策を問うた。
虞松はこの頃、傅嘏とともに参謀の任にあたっていた。
虞松は、姜維は魏軍が東の呉軍との戦に兵力を割いていることから、西方の防備が手薄と考え侵攻してきたと見抜く。また呉軍は合肥のみを集中して狙ってくると考えたため、東の防衛は合肥に集中しておき、関中の諸軍を西に昼夜兼行で急行させて、姜維の不意を突くことを進言する。この意見を容れた司馬師は、郭淮(車騎将軍)・陳泰(雍州刺史)に関中の全兵力を率いさせ、西方に向かわせる。
姜維は数万の軍を率いて石営に出、董亭を経由して南安を包囲した。
これまで姜維は侵攻に積極的でない費禕によって兵力を一万以下に制限されていたが、彼の死により、動かせる兵が増えたと思われる。
蜀書後主伝・姜維伝によると姜維は「南安」(郡名。具体的にどの城かは不明)を包囲したが、斉王紀の注に引く『漢晋春秋』によれば「狄道」(県名、南安郡の西隣・隴西郡の要所)を包囲している。狄道では前後の状況が不自然になるため、とりあえず誤りと考えておく。
陳泰はこれに対するため、洛門に進軍する。魏軍の侵攻を知った姜維は、兵糧が少なくなってきたことから南安を諦め、隴西に撤退した。
姜維は、狄道を攻めると宣伝した。これに対応するため、司馬昭が行征西将軍(征西将軍の代行、本官は安東将軍)となり、長安に駐屯する。陳泰は姜維に先んじて狄道に拠ろうとした。しかし司馬昭は、国境外の羌族を支配して後に備えた姜維は、帰還しようとしているはずだと考えた。実際に狄道を攻めるのなら、敢えて宣伝して知らせる必要はなく、虚報であるとしてこれを制止する。司馬昭の予想どおり、姜維は陣営を焼き払って(成都に)帰還した。
姜維が狄道を攻めると見せかけた事件は、この年1月頃まで続いた東関での呉軍との戦い以降・翌年10月の曹髦即位までの間に、姜維が隴右に攻めてきた際のことだが、具体的な時期が不明。翌年に姜維が攻めてきた際にも司馬昭が呼び出されているが、その際には狄道は蜀に寝返っていたため、この年内の方だと思われる。南安攻略に失敗した姜維は隴西郡内の拠点に退却したが、改めて成都まで帰還する際、追撃を防ぐため魏軍を北に誘導しようとした策略だろうか。司馬昭はこのためにというよりは、当初から雍州の戦の後方指揮をとるため召喚されたのかもしれない。
その後
詳細な時期は不明だが、新平郡で羌族の反乱が発生した。司馬昭が討伐に出陣、打ち破って反乱者を悉く降伏させ、周辺の羌族を恐れさせた。
雍州における魏・蜀の一連の攻防では、羌族を服従させられるかどうかが大きなポイントになっていると思われる。司馬昭はこの時点ではまだ行征西将軍として働いていたようだが、その後は本来の任地である許昌に帰還している。
諸葛恪率いる呉軍は合肥を陥とせず、7〜8月頃に撤退。10月に諸葛恪は殺され、実権が孫峻に移るクーデターが起きる。
姜維は翌年1月には成都に到着している。
2015.08.16