姜維の北伐:250年(魏・嘉平二年、蜀・延熙十三年)
司令官 | 兵力 | 結果 | |
---|---|---|---|
蜀軍 | 姜維 | 不明 | 敗北 |
魏軍 | 郭淮(鄧艾) | 不明 | 勝利 |
※姜維の北伐のうち、陳泰と戦った時代について、個人的な理解のためにまとめています。不足・誤解などある可能性が高いです。
登場人物
魏軍
- 郭淮(征西将軍、都督雍・涼諸軍事)
- 鄧艾(南安太守)
蜀軍
- 姜維(衛将軍、録尚書事、涼州刺史)
- 廖化(陰平太守?)
地理
嘉平二年(250年)〜5月 *注
前年、姜維を撃退した郭淮は、勝利に乗じて西の羌族の討伐に向かうことにした。しかし鄧艾は、姜維がまだ遠方まで去っていないことから、戻ってくる危険を考え、軍を分けて襲撃に備えるべきだと進言。郭淮はこれを容れ、鄧艾を白水の北に駐留させた。
前年、姜維は漢中郡の南鄭に撤退している。
鄧艾の予想どおり、蜀軍はやってきた。三日後、姜維指揮下の廖化は、白水の南に鄧艾の陣営に向かって陣を築く。
しかし廖化は、河を挟んで少数の鄧艾軍を前にしながら、渡河のための橋を築こうとしない。このため鄧艾は、廖化の真の目的は鄧艾の撃破ではないことを見抜いた。廖化に鄧艾を足止めさせておき姜維自身は東へ向かい、洮城(白水の北にあり、鄧艾の陣営からは六十里の距離であった)を攻め取ろうとしているものと考えた鄧艾は、その夜、密かに出陣し洮城へ向かった。
予想どおり、姜維は河を渡って洮城へ侵攻してきた。しかし鄧艾が先んじて籠城していたため、姜維は勝てずに(南鄭に?)撤退した。
*注 蜀書後主伝によれば、姜維は延熙十三年(250年)に西平(涼州にある郡)に侵攻した。一方、白水・洮城での戦の記述は鄧艾伝にのみあり、嘉平元年(249年)の麴山での戦以降・嘉平二年(250年)5月に郭淮が車騎将軍になるまでの出来事。その間に姜維が魏に侵攻した記述はこの時だけなので、西平を攻めようとしたものの実際には途上で鄧艾に防衛され、到達しなかったものか。
洮城の具体的な位置が不明。隴西郡の南部、洮水の南に臨洮県がある。白水からは最短距離でも六十里(26.1km)の倍ほど離れているようだが、これより南にあるのも不自然な気がするので、ここだろうか。白水流域は益州になるようだが、前年の陳泰の言動からしても、このあたりが当時の国境だった模様。
2015.08.16