諸葛靚と孫晧

 暴君として知られる呉末の帝・孫晧そんこうは、後年、臣下が権力を持って反乱を起こすことを相当に怖れていたようである。実際に多くの臣下が晋に逃亡し、歩闡ほせんのように、代々の有力な臣下さえ反旗を翻しはじめた。陸氏一族では陸凱が丞相として内政面で、陸抗が国境において軍事的に権力を持っていたが、彼らの死後は陸凱の家族らは強制的に遠ざけられたりもしている。

 一方、父である諸葛誕の決断により、魏から人質として降った身でありながらも大司馬・副軍師にまでなった諸葛靚は、孫晧にかなり重用されていたことになる。

 だが、この魏から降ってきた、ということは、実は彼の出世の一つの要因だったかもしれない。その一族は自分自身を残しては途絶えているし、また呉における諸葛氏一族も諸葛恪の事件によって途絶え、死後に名誉回復されたとはいえ、実際的にはなんの後ろ盾もないだろう。

 さらに諸葛靚は個人的に司馬氏を仇敵としているため、孫晧の恐れるところである、逃亡して晋に降るという選択は取り得ない立場である。立場が二転三転して元の国に戻ってしまう、という人もいないではないが(例えば文鴦などは父に従って魏から呉に降るも、後になりゆきで魏に復帰している)、諸葛靚の性格からするとこれは100%あり得ないと言え、さすがの疑い深い孫晧も、ある程度はその事実を認識できただろう。

 諸葛靚は地方駐屯ではなく中央に近いところで活躍していたようで、同じく大司馬だった施績陸抗のように帝の監視の行き届かないところにいるというわけでもなかった。というよりも孫晧が、陸抗より後は、中央から遠く離れた地の司令官に大きな軍事的権限を与えるのをやめ、手元にいる人物に与えた結果として、近衛軍の司令官であった張悌を軍師とし、詳細は不明ながら右将軍として都を守っていた諸葛靚を副軍師とする構成となったのかもしれない。

 呉最後の丞相となった張悌も、個人の名声と帝への迎合を頼りに出世した、特に有力な一族の出ではない人物だった。孫晧はこうした、有力な後ろ盾がなく、かつ自分に従順な、安全な臣下で国を固めたがった。そんな中、諸葛靚は特に孫晧に取り入っているような記述はない。強いて言えば「仲思」という字に関しての問答で、帝への忠義を示す切り返しをする逸話くらいで、頑固で果敢な性格からしても、阿るようなことはしないのではないか。とはいえ、彼もまた積極的に孫晧の問題行動を諫めるということはしておらず(というより、彼の行動に関して全般的に記録が残っていないために、不明だが)、何といっても孫晧にとって「絶対に司馬氏に寝返らない」という安心感は大きな利点だっただろう。