諸葛靚 - 呉最後の大司馬・副軍師

諸葛靚と晋と呉

 諸葛靚しょかつせいの生没年は不明だが、晋の武帝司馬炎しばえんの幼なじみというところから、彼と同年代と推測される。仮に同い年とした場合、諸葛誕しょかつたんの乱が起きたころには二十二歳。当時の初出仕の目安は二十歳くらいだが、特に魏時代の官名の記述はないことから、諸葛靚は魏では官についておらず、その社会人人生は人質として降った呉において始まったのかもしれない。そしてこの異国の地で、その滅亡まで、国家の重鎮として活躍することになる。

 彼が呉にやってきた当時はまだ魏の時代だったが、その父が抗おうとしたのは魏というよりも司馬氏政権、将来の晋である。晋は彼にとって、一族を滅ぼした国であり、さらに武将人生を捧げた呉を滅ぼした国でもあった。その一方で、地理的には故郷であり、唯一残る親族である姉が皇族として深く関わる国でもある。帝・司馬炎は、仇敵となった司馬昭しばしょうの子でありながら、旧知の友でもある。晋に対する諸葛靚の思いは、非常に複雑なものだろう。この状況をものともせずに、平然と「幼なじみなんだから仕えてくれ」と迫る司馬炎の邪気のない無神経っぷりはさすがである。

 諸葛靚のような立場の人間は、呉において(特に感情面で)どのように受け容れられたのだろうか。表面的には順当に出世しているものの、余所者として疎外されるようなことはなかったのだろうか。果たして呉は、彼の第二の祖国になり得たのだろうか。

呉最後の大司馬

 呉の滅亡後、諸葛靚は司馬氏に仕えることを拒んで後世に孝を讃えられたが、呉滅亡後に生まれた息子の諸葛恢しょかつかいは、若いころから名声があり、東晋に仕えて位は尚書令に至った。『晋書』諸葛恢伝の冒頭では、父である諸葛靚についても触れられている。

諸葛恢道明琅邪陽都人也。祖,魏司空,爲文帝所誅。父,奔,爲大司馬。平,逃竄不出。武帝有舊,姊又爲琅邪王妃,帝知在姊閒,因就見焉。逃於廁,帝又逼見之,謂曰:「不謂今日復得相見。」流涕曰:「不能漆身皮面,復覩聖顏!」詔以爲侍中,固辭不拜,歸於鄉里,終身不向朝廷而坐。

房玄齡等撰『晉書 七 傳』中華書局、1974年 列傳第四十七 諸葛恢 P2041

諸葛恢は字を道明といい、琅邪郡陽都県の人である。祖父の諸葛誕は魏の司空だったが、文帝(司馬昭)によって誅殺された。父の諸葛靚は呉に亡命し、〔後に呉の〕大司馬となった。呉が平定されても、逃げ隠れて出ようとしなかった。武帝(司馬炎)は諸葛靚と旧交があり、諸葛靚の姉は琅邪王(司馬伷)の妃だったので、帝は諸葛靚が姉のところにいると知ると、会いに行こうとした。諸葛靚は厠に逃げたが、帝は追って会うと、言った、「今日になってまた会えるとは思わなかった」(?)諸葛靚は涙を流して言った、「この身に漆を塗り顔の皮を剥ぐ(病人を装って仇を討とうとする故事)こともできずに、再びお顔を見ることになりましょうとは!」〔司馬炎は〕詔して侍中に任じたが、〔諸葛靚は〕固辞して受けず、故郷に帰ると、終生朝廷の方を向いて座ることはなかった。

 司馬炎との逸話は『世説新語』と同じような内容。違いとして『世説新語』では司馬炎に「大司馬」に任じられたことになっているが、こちらでは「侍中」に任じられたことになっている。

 『三国志』の記述では、諸葛靚が最終的に呉の副軍師という重要な地位にあったとはわかるものの、具体的な官職は不明である。そんなわけで私は、諸葛靚に興味を持ちはじめてかなり経ってから、彼が大司馬の位に就いていたことを知ることになった。実は、陸抗亡き後、呉最後の大司馬になったのは諸葛靚だったのだ。あくまで官位の上でのことで、職務内容的な後任ではないものの、二人のファンとしては驚きの事実だった。