晋呉決戦にて・諸葛靚と司馬伷

 呉の滅亡に際して、帝・孫晧そんこうを直接降伏させることになった人物は、司馬懿の息子である琅邪王の司馬伷しばちゅうだったが、この司馬伷は、諸葛靚しょかつせいの姉の夫でもあった。

之役,率衆數萬出涂中孫晧奉箋送璽綬,詣請降。詔曰:「琅邪王督率所統,連據涂中,使賊不得相救。又使琅邪劉弘等進軍逼,賊震懼,遣使奉僞璽綬。又使長史王恆率諸軍渡,破賊邊守,獲督蔡機,斬首降附五六萬計,諸葛靚孫奕等皆歸命請死。

房玄齡等撰《晉書 四 傳》(中華書局,1974年) 列傳第八 琅邪王伷 p.1121

 呉平定戦では兵数万を率いて涂中から出撃し、孫晧は箋を奉り璽綬を送って、司馬伷のもとに出向いて降伏を乞うた。詔にはこうあった。「琅邪王司馬伷は配下を統率して、涂中より兵を連ね、賊同士の連絡を阻止した。また琅邪相の劉弘らに軍を進めて長江に迫らせたところ、賊はふるえおののき、使者を遣わして偽の璽綬を奉った。さらに長史の王恆に諸軍を率いて長江を渡らせ、賊の辺境軍を破った。そして督の蔡機を生け捕り、斬殺したり降伏させたものが五、六万を数えた。諸葛靚や孫奕らはみな帰順して死を願い出た。

「解體晉書」列伝第八 琅邪王伷

 「諸葛靚と張悌」に書いたように、諸葛靚張悌らとともに討ち死にしなかったのは、決して自分が逃げ延びたかったからではない。だがおそらくは、まだ勝てるという非現実的な希望を持っていたからでもないだろう。絶望的な状況で総司令官すら死を選ぶ中、残る軍を自分がなんとか纏めて呉軍の壊滅を回避しなければならないという、将としての責任感からだった。

 諸葛靚の選択は、張悌らにとってみれば、国に殉じない不忠であると否定的に思われたのかもしれない。それでもなお、ただひとり司令官としての義務を果たして帰還した諸葛靚を待ち受けていた最後の敵は、皮肉にも義兄である司馬伷だったのである。

 しかし、ついに孫晧は降伏し、呉軍の将らは捕らえられてしまった。統一後も、頑なに父の仇たる晋朝には仕えないという意地を見せる諸葛靚のことである。ここで晋に降るくらいならば、殺されよう、と考えるのは必然だった。この決断からも、張悌とともに死ななかったのが決して保身や臆病ゆえでないことがわかる。

 だが、司馬伷はこの決意を許さない。

 呉平定における功績を誇ることもせず、終生謙虚で人々に慕われたという司馬伷。晋側からみれば逆賊となった諸葛誕の娘(つまり諸葛靚の姉)を離縁することもなく妻とし続け、またかつての曹髦そうぼうの変事の際には、帝たる相手にも平然と立ち向かった賈充かじゅうとは対照的に畏れ憚って逃げ出すなど、穏健な印象を受ける人物である。その性格ゆえか、妻のためを思ってか、義弟である諸葛靚を殺すことはしなかった。

 こうして幸か不幸か生き延びてしまった諸葛靚は、頑なに晋朝に出仕せず隠棲していたが、やがて幼なじみである司馬炎から、直々に仕えてくれと懇願される羽目になるのである。

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