徐紹 - 司馬昭に仕えた呉の将軍

 小説「ある参軍の告白」の語り手にした徐紹じょしょうについて。

 徐紹という人物は、『三国志』『晋書』を通しても、

  • 諸葛誕の乱の際に魏に降った呉の人物の一人に名がある(晋書文帝紀)
  • 魏から呉へ送られた降伏勧告の使者の一人に名がある(魏書陳留王紀、晋書文帝紀、孫楚伝)
  • 魏からの使者として呉にやってきたが、呉からの使者とともに魏に戻る途上で孫晧に召し還され殺された(呉書孫晧伝)

 と、限られた回数しか出てこない。それらからわかる彼のプロフィールは、こんな感じ。

  • 姓は「」、名は「」と表記ゆれがある。『三国志』では「徐紹」。
  • 呉の「南陵督」だった。
  • 魏の諸葛誕が反乱を起こした際、呉からの援軍として寿春城に赴いたが、敗戦後に捕虜となり、魏に降伏した。
  • 魏の司馬昭から呉の孫晧への使者として、孫彧とともに、家族や魏で賜った侍女らを伴って呉へ帰還する。
  • その際の官位は「相国参軍事」だったが、さらに兼「散騎常侍」「奉車都尉」となり、都亭侯に封じられた。
  • 呉に到着後、孫晧から司馬昭への使者の紀陟らとともに、再び魏に向かうことになった。
  • しかしその途上で孫晧に呼び戻され、殺された。理由は、徐紹が中国(魏)を賛美しているという告げ口があったため。
  • 残された家族は建安に強制移住となった。

 波瀾万丈な半生が窺い知れる一方、詳しい出自や人となりはまったくわからない。そんな徐紹に興味を持ったきっかけの一つが、彼が魏で得た「相国参軍事」という肩書きだった。相国の属官の一つで、参謀的な役割だろう。相国とは司馬昭である。参軍(事)は「三国官職表」などを見ると決して位の高い官ではないが、降将でありながら、司馬昭の直属の部下として仕えていた。

 このころ魏では、時の権力者である司馬昭がついに相国・晋王となり、蜀漢を討伐して天下統一への道を拓いた一方、呉では三代目皇帝・孫休の急死によって孫晧が即位し、国内は混乱していた。咸熙元年(264年)冬十月、司馬昭は軍事力による呉の討伐を視野に入れつつも、先ずは言葉で説き伏せて降伏を促すことにした。以下は『三国志』魏書の載せる詔勅の後半。

……然興動大衆,猶有勞費,宜告喻威德,開示仁信,使知順附和同之利。相國參軍事徐紹、水曹掾孫彧,昔在壽春,並見虜獲。本僞南陵督,才質開壯;孫權支屬,忠良見事。其遣南還,以爲副,宣揚國命,告喻人,諸所示語,皆以事實,若其覺悟,不損征伐之計,蓋廟勝長算,自古之道也。其以兼散騎常侍,加奉車都尉,封都亭侯;兼給事黃門侍郞,賜爵關內侯。等所賜妾及男女家人在此者,悉聽自隨,以明國恩,不必使還,以開廣大信。

陳壽撰、裴松之注『三國志 一 魏書〔一〕』中華書局、1982年、P152〜153

……しかしながら、大軍勢を出動させれば、やはり労力の損失を招く。武威と徳義をさとらしめ、仁愛と信義を開陳し、帰順と融和の利益を認識させるのがよいであろう。相国参軍事の徐紹、水曹掾の孫彧は、かつて寿春において、ともに捕虜になった者たちである。徐紹はもと偽政府の南陵の督であったが、生まれつき聡明で厳正な人物であり、孫彧、孫権の支族(分家)であるが、忠実かつ善良でものごとの本質を見抜くことのできる人物である。よって徐紹を南方へ帰還させ、孫彧をその副官とする。国家の命令を宣揚し、呉の人々に告知せよ。説明する内容は、すべて事実によるように。もしも相手が過ちをさとったならば、征伐の計画にとって損失とはならないであろう。思うに、戦わずして計略で勝利を得ることこそ、古えからの正しい方法なのである。よって徐紹を兼散騎常侍とし、奉車都尉の位を付け加え、都亭侯にとりたてる。孫彧を兼給事黄門侍郎とし、関内侯の爵位を与える。徐紹らに下賜した侍婢、およびここにいる家族は男も女もいっしょについて行くことを許して、国家の恩恵を明らかにする。〔呉は〕必ずしも〔呉への〕帰国を認めまいが、当方の大いなる信義を内外に示すことになろう。

陳寿、裴松之注、今鷹真・井波律子訳『正史 三国志 1』ちくま学芸文庫、1992年、P364〜365

 こうして徐紹は、故郷の呉への降伏勧告の使者の一人に選ばれた。このとき副官となった孫彧も相国の属官である。司馬昭は、直属の部下の中から呉の降将である二人を選んだ。使者とはいえ、家族らまでも伴わせて故郷に帰国するという形で、魏に帰ってはこないことを前提としているように思われる。徐紹らは、呉に魏の寛大さを見せつけるための広告塔になったのだろう。

 このとき司馬昭が自らの名義で孫晧に送った文書は、孫晧伝の注に引く『漢晋春秋』に載せられている。『晋書』荀勖伝によれば、複数の臣下が作った中から荀勖のものが選ばれた経緯がある(文書を文章の得意な臣下が代行で作成することは一般的であった)。一方『晋書』孫楚伝によれば、司馬昭は自分の名義ではなく征東大将軍の石苞に命じて文書を孫晧に送らせており、石苞が部下の孫楚に作らせたこの文書は『文選』にも収録されている。記述に食い違いがあるため、徐紹らがもたらした文書がどちらなのかはわからない。

 さて、徐紹孫彧が呉に到着した翌年三月、孫晧は魏への返答の使者として紀陟弘璆の二名を送った。この際の孫晧の返書は、皇帝としての立場をとらない対等な立場からの書であった。とはいえ臣従はせずに和睦を請願するという、曖昧な態度ではあるが、孫晧としても苦渋の決断だったのだろう。

 徐紹孫彧は、紀陟ら呉の使者に随行して再び魏に向かうことになった。しかし、魏を賛美していたという告げ口をされた徐紹は、出発してまもなく孫晧によって呼び戻され、殺されてしまった。

 徐紹の死の原因となってしまった魏に対する賛美とは、何だったのだろうか。徐紹らの公式の役割は「すべて事実によって」魏の国威を宣揚することだった。それ自体、孫晧にとっては怒りと恐怖の対象だったのには違いないが、それでも一旦は使者として受け容れ、返書を送っているのである。また殺されたのは徐紹のみで、孫彧は殺されていない。殺害の理由は、徐紹の個人的な言動にあったことになる。元はといえば呉の将軍だった彼が、なぜ命をかけてまで魏に肩入れすることになったのか?

 ということを考えたとき、自ずと出てきた答えが、この人、司馬昭に惚れ込んだんだ、ということだった。

 司馬昭は、とりわけ人心掌握が得意なリーダーという印象を受ける。厳しさよりはむしろ寛大さをもって、敵味方の心を掴んで従わせる。諸葛誕の乱の後、捕虜となった呉の将兵らは殺すべきだと言われていた。しかし司馬昭はその意見を却下して、降伏した者を助命し、魏の臣として取り立てた。こうして敵の総帥だった司馬昭に命を助けられた一人である徐紹は、やがて才能を評価され、司馬昭の直属の部下になる。年月を経て、実質司馬昭の治世ともいえる魏の現実が、徐紹にとって、命をかけるほど魅力的なものとなっていった。多数いる呉の降将の中から使者に選ばれたのも、司馬昭からの個人的な信頼あってこそかもしれない。しかしそれが災いして、ついには命を落とすことになってしまった。

 しかしそもそも孫晧は、和睦を請願しようとしておきながら使者を殺すなどという暴挙に出て、問題になるとは思わなかったのだろうか。帰国を許された徐紹が、再び呉の臣下となってその立場で誅殺されたと考えられなくもないが、あまり後先を考えない孫晧が、発作的な怒りのままに殺してしまったのかもしれない。奇しくも紀陟ら呉からの使者が到着してまもなくのタイミングで司馬昭は亡くなってしまったため、この問題は有耶無耶になってしまったと思われる。

 ところで、結果からは徐紹は命をかけてまで魏、もしくは司馬昭に肩入れしたように見えるが、果たして司馬昭やあるいは徐紹自身は、孫晧に殺される可能性を考えていたのだろうか。司馬昭は、他の様々な逸話から考えるに、他人の悪意を推測するのはあまり得意でない。他人の言動を、ときとして実際よりも良い方向に捉えてしまう、どちらかといえばお人好しタイプで、まさか孫晧が使者を殺すなどとは思いもよらなかった、とも考えられる。一方の徐紹本人も、孫亮の時代に呉を離れているため、孫晧が時として損得勘定なしに感情的に臣下を殺すことを、実感としては知らなかっただろう。あるいは、死も覚悟でなお役目を果たそうとしたのだろうか。異国の呉に生まれながら、運命と自身の選択とによって主とした司馬昭に、忠義を貫いた結果の死だったのかもしれない。

2015.08.26