諸葛靚の年齢がわからない

 某サイトさんで諸葛恢の生年から諸葛靚の年齢にふれられていたのに影響され、早速真似して調べてみる。

 『晋書』穆帝紀によると「永和元年(中略)五月戊寅,大雩。尚書令、金紫光祿大夫、建安伯諸葛恢卒。」とある。永和元年とは西暦345年で、当サイトの年齢比較ツールで想定していた範囲を超えている!(※急遽延長しました)そして本人の伝には「卒,年六十二」とあるので、諸葛恢の生没年は西晋・太康五年〜東晋・永和元年、西暦284〜345年ということに。生まれたのが呉滅亡後だったとは、ビックリ。

 諸葛靚は『世説新語』によれば司馬炎様の幼なじみということで、そんなに極端な年齢差はないイメージ。本当に幼なじみかどうかは怪しいが、仮に同い年と仮定してみると、四十九歳のときに諸葛恢が生まれたことになる。

 諸葛恢には兄・諸葛頤がいるが、諸葛頤は生年不明。揃って「道」という字なので、これより上に兄がいたのかどうかは推測できず。恢が仮定すると、四十九歳で次男誕生って、それ陸遜どころじゃないんだけど!

 でも、では諸葛靚が実はもっと若いのかというと、それはそれで疑問も生じる。司馬炎と同い年と仮定すると、四十〜四十五歳にして大司馬に任命されたということになり、呉の平均からするとこれはかなり若い。この時期の呉はベテラン指揮官が足りなかったようなので、これくらいなのかなーとも思えるけれど、それ以上に若いとなると、不自然な気も……

 結局君は幾つなの……! 父の諸葛誕も生年不詳だし、他に何か手がかりはあったっけ?

2007.09.13

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