「封禅国山碑」に記されている人々

天璽元年(276)ごろ呉の丞相は沇(姓が不明)で、その出典は「封禅国山碑」ということを最近知った。(参考:文字拓本 魏晋 呉禪國山碑 ※DjVuという形式の画像なので、対応する閲覧環境が必要だが、文字データも見られる。)

見てもまったくわからないが、文字データに頼ると、他に人名らしきところは「丞相沇太尉璆大司徒燮大司空朝執金吾脩城門校尉歆屯騎校尉悌尙書令忠尙書昬直晃昌國史瑩覈」あたりで、区切ると

丞相 沇
太尉 璆
大司徒 燮
大司空 朝
執金吾 脩
城門校尉 歆
屯騎校尉 悌
尙書令 忠
尙書 昬/直/晃/昌
國史 瑩/覈

となる、のかな。

「中書東觀令史立信中郞將臣蘇建所書」とあり、蘇建という人の書らしいが、『書道全集 3』(下中邦彦 編 平凡社)によると、ここにしか名前が残っていない人物だそうである。

そして全体的に名しか記載されていないわけだが、はたしてこれらは、誰なのか。

太尉・璆
弘璆? 中書令、太子少傅になった弘璆という人がいるが、実は太尉になっていた?
大司徒・燮
不明……
大司空・朝
董朝? 彼は孫晧伝によるとこのとき司徒なんだけど、実は大司空だった?
執金吾・脩
滕脩か。少なくとも郭馬の乱の討伐に赴くまで滕脩は執金吾だった。なお名の漢字が孫晧伝では滕循となっているが、他の部分や本人の伝(晋書にある)では滕脩。
城門校尉・歆
孫歆? 孫震の弟だが、彼は呉滅亡時は楽郷都督だったので、どうかなあ。この時代は中央にいたのかもしれない。
屯騎校尉・悌
張悌か。張悌は孫休の時代に屯騎校尉になった。屯騎校尉というのは近衛軍の武官のようだが、果たして、ここから数年後いきなり丞相になるほどの官職なのだろうか、という疑問は残る。
尙書令・忠
忠さんは、虞忠、丁忠などいるが、虞忠は呉滅亡時に宜都太守なので、違うかも。丁忠はこの10年くらい前には五官中郎将で武官だったが、その後は不明。
尙書・昬、直、晃、昌
昬さんは岑昬だろう。そういえば、岑昬が演義で宦官になってるのを最近になって知ったのだが、彼は史実では尚書である。他の三人は不明……
國史・瑩、覈
瑩さんは薛瑩、覈さんは華覈だろう。

呉末期の人物は、史書に残っていない重要な人が結構いたのだろうとは思われるが、丞相の姓すら不明というのは切ない話である。

なお「大司徒」「大司空」など、これまでになかった官職も登場しているし(司徒・司空は孫晧時代に急に置かれはじめたが、大〜となるとどうなのか? 大司徒は諸葛誕が名目上任命されたことはある)、呉末期の官職はかなりカオスだったのかもしれない。

なお、この頃は改元大ブームというか、孫晧はちょっと何かあるとすぐに改元しちゃうから、この天璽元年というのも一年もなかったりする。


追記:その後、ググっていたら、むじんさんのブログ「国山碑」で誰が誰なのかという考察を発見した。全体の結論は出ていないみたいだけれど、忠さんは丁忠、昌さんは甘昌という人という説が。

2011.08.11

Tags: 三国志の人物