陸抗の実力

陸抗 vs 羅憲

 呉平定戦にて吾彦が堅守した城というのは、巫城だと思っていた。なんと、手持ちの解説本でもそうなっていたので、長年のあいだ疑いもしていなかった。が、実は(?)この時代には既に巫は羅憲に後略されており、呉の領土ではなかった。それどころか羅憲は270年に亡くなっているため、呉が巫城を攻略されたのは268年〜270年の間のことである。えっ? 実は呉滅亡の10年も前から、巫は晋の領土だった? これは西からの水軍を怖れる呉にとって、かなりの致命傷。孫晧伝ではこんな重大なことが平然とスルーされており( ゜д゜)羅憲側から見て初めて気付くという仕様です。

 そして、蜀漢滅亡前後、西陵〜永安は陸抗の指揮下だった。諸々疑問点もあるが、私の中ではそういう結論になりかけている。つまり陸抗は、地域総司令官としての広い意味で、永安攻略に失敗したのみならず、逆に呉前線の巫を取られました。……という可能性が高い。つまり羅憲には、二戦二敗と散々である。

 私は羅憲はあまり好きではないが、それは呉を不義理呼ばわりするあたり、人格的に好きになれないだけで、別にその実力を否定するわけではない。むしろ彼のこれらの功績は、後の呉の滅亡に直結しているといってもいいくらいではないか。

 が、世間では、羅憲より陸抗の方が、たぶん有名である。となると羅憲は、「あの」陸抗に勝ちました! ということで、ポイントを稼いでいる面もあるはず。歩協に勝ちました! ならばきっと今ほどには名将と呼ばれなかったであろう。つまり羅憲ファンにとってこそ、陸抗は名将と証明されなければまずいのである(適当)

 ちなみにこの地域総司令官は、施績なのではという疑惑もあったが(以前はそう思っていたが、今は懐疑的)施績に勝ちました! ならばどうだろう。施績こそ雰囲気名将で、あまりこれといった功績もないのは気のせいか。歩協よりは知名度上マシかもしれないが。

 そして、陸抗については、歩闡の乱の華々しさによるボーナスと、暴君に悩まされながらも衰退していく国を支えたという苦労人イメージにより、やや過剰評価されているのは否めない。歩闡の乱鎮圧については、いろいろ考えが二転三転した結果、やはり世間の評価に値する功績だったと思いなおした。しかしそれ以外は、どうだろうか。

防衛上の功績?

 陸機いわく、陸抗が歩闡の乱を鎮圧して以降は、晋が攻めてくることもなくなったのに、陸抗が死ぬと晋は呉攻略の準備を始めました。……この防衛上の功績に関しても、ちょっと疑っている。そもそも防衛強化しようにも、上の許可が下りない状況では限界がある。陸抗を怖れて、というよりは、単に晋の国内都合で攻めてこなかっただけじゃないかな(゜ω゜)

政治上の功績?

 陸機いわく、陸抗は文武両面で重きを成していました。が、某・羊陸の交わりなど局地的にはともかく、呉全体の政治に関してはさほど成果が上がっていない気がする。そもそも記述にある陸抗の進言なども八割方軍事分野の内容。イメージ的に、陸氏の中でも陸抗は最も生粋の軍人で、文官としては、どうなのか。

陸抗ファンの教祖・陸機

 こうしてみると、陸抗の「たった一人で斜陽の呉を護った孤独な名将」的なイメージは、陸機の「弁亡論」が元ネタではないかという気がしてくる。陸機こそ、陸抗ファンが第一に崇めるべき人物であろう。それにしても、わりとあれは真面目に真に受けられている。が、冷静に考えて、著しく主観の入った息子による評価を真に受けるしかないというのは、苦しいのではないか(゜ω゜)

 陸抗が名将とされることに異論はないが(何しろ三国志ファンのイメージのみならず、学術論文にすら頻繁に書かれている)、ファンとしてはもう少し、具体的根拠がほしいかなー……

 こうなったら羊祜の軍事面での素晴らしさなどを持ち上げ、歩闡の乱においてよりいっそう強敵に勝った感を押し出していくしかないだろう!! 羊祜は歩闡の乱においては敗北したが、その後、かなり呉の領土を取っていた。ってことで武官ポイントは入るけど、それはつまり陸抗が領土を取られているんじゃないの、という致命的な問題が。国境が平和なんてぜんぜん嘘じゃないか!

羊祜の話

 羊祜で思い出しついでに、急に話を変えて、『文選』にも載っている、開府儀同三司は分不相応です! 自分は国境護らないと! 荊州都督のままでお願いします! っていう上表のことですが。

 羊祜伝だと長長長長しい文章のあとに、一言、「不聽。」(しかし聴き入れられなかった。※解體晉書さん訳)っていう流れがウケるんだけど。しかし、現場の武官職などは文官職に比べて下に見られているようなのに、なぜ羊祜はそうまでして前線にいたかったのか。どうも羊祜のキャライメージからすると、単なる謙譲の建前、という気がしないのである。

 謙虚に見えて、実は羊祜にはしっかりとした自負心があり、呉討伐の任は自分であればこそ果たせると思っているのかもしれない。

2011.07.26