2011.07.13 施但事件と丁固と諸葛靚メモ

孫晧が武昌に遷都した間に、施但が起こした反乱事件(266年10月)と関係者について調べ中。

武昌に遷都後、元の都の建業は丁固と諸葛靚が護っていた。そこに施但が孫晧の弟・孫謙を勝手に帝として擁立してやってきた。帝からとして詔の使者を送ってきたが、「諸葛靚はその場で使者を斬った」、そしてアッサリ丁固&諸葛靚軍に討伐されて終了、という、まあ地味な事件ではあるのだが諸葛靚ファンとしては見逃せない戦勝キャリアである。

施但って誰

永安の山賊。三国志の中でもこの事件にしか出てこない一発屋。永安というのは呉郡にある地名で、白帝城の永安とは関係ない。

山賊というのがイマイチ謎。文字どおり山賊なのか、それとも山越など異民族の人で、単に反乱を企てたから「賊」とされているだけなのか。いずれにせよ特に官職なども書かれていないことから、特に権力のない一般庶民なのだろうか。しかし、孫謙を帝につけて権力を握ろうなどと思い立つ時点でそれなりにただ者ではないし、さらに建業に達するころには一万人の軍勢になっていたともあり、なんらかの実力やカリスマはあったのだろう。

とはいえ、軍勢は鎧を着けていなかったのですぐにバラバラになって敗けたとか、どうにも、かっこいい革命家キャラとして想像するには苦しいところのある人。これがもう少し強そうな敵であれば、鎮圧した諸葛靚のかっこよさがアップしてよかったのだが……

担ぎ出された人・孫謙

孫晧の異母弟で、永安侯。この人もほぼ、ここにしか出てこない。当人は別に野心もないようで、脅されて担ぎ出されたものの、施但が敗けて取り残され、困っているところを丁固&諸葛靚軍に捕獲され、その後自殺or孫晧に殺される。……これまた、どうがんばって良く解釈しても、悪気はないがヘタレ過ぎっていうキャラにしかならない気が……

なおこの反乱軍は、孫謙を帝として押し立てるに際し、彼や孫晧の父である孫和の墓から埋葬品を奪っている。必ずしも孫謙の意思ではないだろうが、このことでよりいっそう父を(一般的な孝心以上に)崇拝している孫晧の逆鱗に触れたのではないか。

ちなみにこの人、字が不明なのだが『建康実録』では「公遜」とされているのを発見。

左御史大夫・丁固

※丁固のキャリアまとめはコラムページ「丁固(丁密)の経歴」に移動しました。

末期呉では貴重な、まともっぽい人である。会稽出身で、特に名のない家柄ながら、実力で抜擢されたタイプ。カテゴリ的には文官だろう。戦の経歴はどちらも一般民(?)の反乱鎮圧で、地味。陸凱と同い年。改めて計算してみると、施但事件の際、すでに69歳とは……イメージよりじいさんである。

思うに陸凱・丁固らの世代まではまだ、まともな人もそれなりにいた。本当にヤバイのはこの世代が世を去ってから。

実は丁固の息子・孫も、地味にというか派手にというか、晋で出世しているらしい。

右将軍・諸葛靚の年齢についてまたしても考える

右将軍は魏では三品の将軍である。呉でかつて右将軍になった歩騭・呂拠などは右将軍驃騎将軍と昇進している。とりあえず、結構エライ。案外、諸葛靚は私が思っているより年長なのではないだろうか?

諸葛靚が幼なじみの司馬炎と同い年と仮定すると、施但事件の際には31歳となる。参考までに、陸抗が同じくらいの(三品官相当の)官位を得たのは34歳もしくは32歳。一応、諸葛靚も名家の出ということを考えると(現実に呉に一族がいるわけではないが)、不自然に若いというほどでもないか。陸抗の後任として彼の死去時に大司馬になったとすると、40歳で就任となり、呉滅亡時には実質上の副総司令官で、45歳。全体として役職に対して若すぎる気もするが、この場合に49歳まで次男が誕生していないことになるので、これ以上年上ってのも逆に不自然か。(恢が本当に次男かどうかは自信ない)

結局、次男の年齢を考えなければ、諸葛靚は司馬炎よりやや年上と考えた方がしっくりくるが、父諸葛誕についても調べてみなければならないか。(彼も年齢不詳なんだ……

丁固と諸葛靚

事件当時、丁固は国政のトップとまではいかないものの、年季の入った高位の文官で、一方の諸葛靚は若いけれどかなり高位の武官である。丁固がリーダーとして、諸葛靚はその下について共に元の都を護っていたが、敵襲に対しては武官である諸葛靚がそれなりの指揮権を持っていたのかな。

このとき丁固は「孫謙を殺すことをはばかって」生け捕りにしている。はばかって、ってことは本来は殺す権限があったが、さすがに帝の弟だしどうしよ、って感じか。諸葛靚なら、そんな甘いこと言わず倒すべきです、と言いそうだけど、まあそこは若輩だから譲ったものか。笑

ふたりとも忠実でまじめだが、丁固は保守的で謙虚な人の善い老人、諸葛靚は合理主義で剛胆かつ冷徹な若者と、いい感じのコントラストである。(※しかし陸凱によるクーデター未遂事件が実際あったものと考えると、丁固の性格イメージは少し変わってくるかも)

266年10月周辺情勢

  • 前々年264年7月に孫晧が即位。
  • 前年265年8月に魏では司馬昭が亡くなり、12月には晋が成立。
  • 武昌に遷都したのは265年の9月であり、それから約1年後。
  • この年(266)8月には陸凱&万彧が左右丞相に。
  • 諸葛靚が呉にやってきてからは約10年経過。(諸葛誕の乱が257年)
  • たぶん、陸抗は西陵か江陵に、施績は江陵か楽郷に、歩闡は西陵に、陸凱は武昌にいる。(本題と関係ないが、やっぱ陸抗が江陵都督で施績本拠地は楽郷かもね……別件で調査しよう)

武昌遷都のタイミングは、魏の情勢と関係があったのだろう。孫晧時代に入り浸っているとどうも忘れがちだが、武昌はかつて呉の都であったこともあり、建業が都になってからも副首都的な位置づけであった。必ずしも、この武昌遷都を孫晧の奇行のひとつと片付けてはいけないと思う。発案したのは西陵都督の歩闡だし、地図的に見てもむしろ武昌の方が便利そうなのだが。

その後

266年12月、つまりこの反乱の直後、孫晧は建業に都を戻す。このあたりが暴君の奇行扱いされる理由だろう。

しかし施但の一件について孫晧は、遷都の計略が成功した! とか言っている(乱暴な要約)。反乱分子のあぶり出しに成功したと見ることも可能。片付けたのは施但一派と孫謙だけではない。孫家の孫楷という人も、この事件の際に日和見していたとして後に孫晧に猜疑され、晋に逃亡したりもしている。孫晧はとかく危険な臣下を疑うことにかけては(過度に)全力なので、魏晋の情勢にまつわる対外的な理由と並ぶ、もう一つの内部的な理由として、疑わしい者を排除する目的もあったのかも。

追記・宣伝

創作三国志末期アンソロジー2「朱火青無光」にて諸葛靚を主人公に、この施但の乱を題材にした小説を書かせていただきました。