陸抗年表

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西暦 出来事 出典
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黄武5
- 1 陸遜氏(名は不明。孫策の娘)の間に、次男として陸抗が生まれる。 “抗字幼節,孫策外孫也。遜卒時,年二十,……” “長子延早夭,次子抗襲爵。(陸遜傳) -
229
黄龍1
4
- 4 孫権が帝位に即き、呉王朝が成立する。*注1 “黃龍元年春,公卿百司皆勸權正尊號。夏四月……丙申,南郊卽皇帝位,是日大赦,改年。(吳主傳)
孫権
245
赤烏8
2
健武校尉
20 父の陸遜(丞相)が死去し、陸抗は爵位(江陵侯)を継ぐ。健武校尉となり、父の五千の兵を預かり、父を葬るため東(陸氏の本籍地・県)へ帰還する。 “赤烏……八年春二月,丞相陸遜卒。(吳主傳) “長子延早夭,次子抗襲爵。(陸遜傳)” “遜卒時,年二十,拜建武校尉,領遜衆五千人,送葬東還……
赤烏8?
陸抗は、父陸遜について孫権に尋問されるが、誤解を解く。 ……詣都謝恩。孫權以楊竺所白遜二十事問抗,禁絶賓客,中使臨詰,抗無所顧問,事事條答,權意漸解。”
246
赤烏9
立節中郎将
21 陸抗は立節中郎将となり、諸葛恪と任地を交換して柴桑に駐屯する。 “赤烏九年,遷立節中郞將,與諸葛恪換屯柴桑。”
250
赤烏13
25 陸抗氏(名は不明。張承の娘、諸葛恪の姪)との間に次男の陸景が生まれる。 “天紀四年,……二月壬戌,晏爲王濬別軍所殺。癸亥,景亦遇害,時年三十一。” “陸景母張承女,諸葛恪外生。(陸抗傳注《文士傳》)
251
太元1
26 陸抗は都に上京して病を治す。任地に帰還するにあたり、孫権は父陸遜への不義を謝罪する。 “太元元年,就都治病。病差當還,權涕泣與別,謂曰……
252
神鳳1
建興1
4
27 孫権が崩御し、孫亮が即位する。 “太元……二年……二月,大赦,改元爲神鳳。……夏四月,權薨,……(吳主傳)” “四月,權薨,太子卽尊號,大赦,改。(孫亮傳)
孫亮
建興1
奮威将軍
陸抗は奮威将軍となる。 “建興元年,拜奮威將軍。”
253
建興2
10
28 孫峻(武衛将軍)諸葛恪(太傅)を誅殺し、丞相となる。陸抗は、妻の氏が諸葛恪の姪であったため、離縁する。 “〔建興二年〕冬十月,大饗。武衞將軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦。以峻爲丞相,封富春侯。(孫亮傳)” “恪誅,景母坐見黜。(陸抗傳注《文士傳》)
257
太平2
5
奮威将軍
柴桑督
32 魏の諸葛誕(魏:司空呉:大司徒・驃騎将軍)寿春にて籠城し、呉に帰順を表明する。陸抗柴桑督となり、朱異(鎮南将軍・大都督)率いる救援軍の将として従軍し、魏の牙門将軍や偏将軍を破る。 “太平二年,魏將諸葛誕舉壽春降,拜抗爲柴桑督,赴壽春,破魏牙門將偏將軍,……
9
32 朱異孫綝(大将軍)に殺される。この際、陸抗は面会に赴こうとした朱異を止めようとしたが、拒否された。 “二年……朱異以軍士乏食引還,綝大怒,九月朔己巳,殺異於鑊里。(孫亮傳)” “綝要異相見,將往,恐陸抗止之,異曰:「子通,家人耳,當何所疑乎!」遂往。(朱異傳注《吳書》)
258
太平3
2
征北将軍
柴桑督
33 魏の司馬昭(魏:大将軍)諸葛誕を敗って寿春を奪回し、呉軍の敗戦となる。※この戦の詳細は「諸葛誕の乱」参照。
陸抗は(魏の将軍らを破った功績により?)征北将軍となる。
“二月乙酉,攻而拔之,斬誕,夷三族。(《晉書》文帝紀)” “破魏牙門將偏將軍,遷征北將軍。”
太平3
永安1
9
孫亮が廃位され、孫休が即位する。 “九月戊午……召大臣會宮門,黜亮爲會稽王,時年十六。” (孫亮傳)
孫休
259
12
孫綝(丞相)が誅殺される。 “十二月戊辰臘,百僚朝賀,公卿升殿,詔武士縛綝,卽日伏誅。” (孫休傳)
永安2
鎮軍将軍
西陵都督
34 陸抗は鎮軍将軍となる。西陵都督となる。関羽から白帝(永安)までの軍事の総指揮にあたる*注2 “永安二年,拜鎭軍將軍,都督西陵,自關羽至白帝。”
260
永安3
鎮軍将軍
仮節
西陵都督
35 陸抗は仮節を授けられる。 “三年,假節。”
261
永安4
36 陸抗の四男・陸機が生まれる。 “年二十而吳滅,退居舊里,閉門勤學,積有十年。(《晉書》陸機傳)
262
永安5
37 陸抗の五男・陸雲が生まれる。 “機之敗也,并收雲。……孟玖扶穎入,催令殺雲。時年四十二。(《晉書》陸雲傳)” “遂遇害於軍中,時年四十三。(《晉書》陸機傳)
263
永安6
8
11
38 魏が蜀漢に侵攻し、呉では救援軍を編成するが、蜀が敗れ降伏する。陸抗は蜀が滅亡したことを上表する。 “甲申,使大將軍丁奉督諸軍向魏壽春,將軍留平別詣施績於南郡,議兵所向,將軍丁封、孫異如沔中,皆救蜀。(孫休傳)” “蜀爲魏所幷,覈詣宮門發表曰:「……定聞陸抗表至,成都不守,臣主播越,社稷傾覆。……(華覈傳)
264
永安7
2
7
39 歩協(撫軍将軍)が魏の旧蜀漢領に侵攻し、永安にて魏軍(元・蜀軍)の羅憲(元蜀:巴東太守)と戦う。陸抗は援軍として永安に赴くが、魏軍の胡烈(魏:荊州刺史)西陵に侵攻してきたため撤退する。※この戦の詳細は「永安の戦い」参照。 “二月,鎭軍〔將軍〕陸抗、撫軍〔將軍〕步協、征西將軍留平、建平太守盛曼,率衆圍蜀巴東守將羅憲。……秋七月……魏使將軍胡烈步騎二萬侵西陵,以救羅憲,陸抗等引軍退。(孫休傳)” “吳又使步協西征,憲大破其軍。孫休怒,又遣陸抗助協。……會荆州刺史胡烈等救之,抗退。(《晉書》羅憲傳)
永安7
元興1
7
孫休が崩御し、孫晧が即位する。 “秋七月……癸未,休薨,……(孫休傳)” “休薨,是時蜀初亡,而交阯攜叛,國內震懼,貪得長君。……於是遂迎立晧,時年二十三。(孫晧傳)
孫晧
元興1
8
鎮軍大将軍
仮節
西陵都督
益州牧 *注3
陸抗は鎮軍大将軍を加官される。益州牧となる。 “孫晧卽位,加鎭軍大將軍,領益州牧。” “元興元年八月,……諸增位班賞,一皆如舊。(孫晧傳)
259
〜265頃
鎮軍大将軍
江陵都督?*注4
益州牧
この頃、陸抗江陵都督となる? “賀太傅作吳郡、初不出門。……陸抗時爲江陵都督、故下請孫皓……(《世説新語》政事第三)”
265
甘露1
9
40 孫晧は、歩闡西陵督)の上表に従い建業から武昌に遷都する。 “九月,從西陵督步闡表,徙都武昌,(孫晧傳)
266
12
司馬炎が魏から禅譲を受け、晋王朝が成立する。 “十二月壬戌,天禄永終,曆數在晉。(陳留王紀)”
267
宝鼎1
12
41 孫晧は都を武昌から建業に戻す。 “寶鼎元年……十二月,晧還都建業,(孫晧傳)
269
建衡1
11
44 陸抗の族兄にあたる陸凱(左丞相)が死去する。 “建衡元年……十一月,左丞相陸凱卒。(孫晧傳)
270
建衡2
4
鎮軍大将軍
楽郷都督
益州牧
45 施績(大司馬)が死去する。陸抗は(事実上の後任として)都督信陵西陵夷道楽郷公安諸軍事となる*注5楽郷を統治する。 “建衡二年,大司馬施績卒,拜抗都督信陵、西陵、夷道、樂鄉,公安諸軍事,治樂鄉。”
271
建衡3
46 陸抗楽郷に城を築く。 “呉孫皓建衡三年,陸抗所築樂郷城(《通典》州郡典)”
272

273
鳳皇1
8
12
47 歩闡(昭武将軍・西陵督)が叛乱を起こし晋に降る。陸抗西陵を包囲する。晋の羊祜(晋:車騎将軍・都督荊州諸軍事)楊肇(晋:折衝将軍・荊州刺史)徐胤(晋:巴東監軍)らが救援にやってくるが、陸抗楊肇を破って全軍を撤退させ、西陵を陥落させて歩闡らを処刑する。※この戦の詳細は「歩闡の乱」参照。 “鳳皇元年秋八月,徵西陵督步闡。闡不應,據城降晉。遣樂鄉都督陸抗圍取闡,闡衆悉降。闡及同計數十人皆夷三族。(孫晧傳)” “九月,吳西陵督步闡來降,……吳將陸抗攻闡,遣車騎將軍羊祜帥衆出江陵,荊州刺史楊肇迎闡於西陵,巴東監軍徐胤擊建平以救闡。……十二月,肇攻抗,不克而還。闡城陷,爲抗所禽。(《晉書》武帝紀))
273
鎮軍大将軍
都護
益州牧
48 陸抗は都護を加官される。 “加拜都護。”
鳳皇2
3
大司馬
都護
荊州牧
陸抗は大司馬、荊州牧となる。 “二年春,就拜大司馬、荆州牧。” “二年春三月,以陸抗為大司馬。(孫晧傳)
274
鳳皇3
49 陸抗は病が重くなり、死後の国防対策や都の軍事システム改善などについて上疏する。 “三年夏,疾病,上疏曰……
7
陸抗が死去する。長男の陸晏が後を継ぐ。子の陸晏陸景陸玄陸機陸雲がそれぞれ父の兵を分割して預かる*注6 “秋七月……大司馬陸抗卒。(孫晧傳)” “秋遂卒,子晏嗣。晏及弟景、玄、機、雲、分領抗兵。”
280
天紀4
3
- 晋が呉を滅ぼし、中国を統一する。

※官職は便宜上、次の官職が明記されるまで継続したものとしています。

*注1 黄武元年(魏の黄初三年、西暦222年)から呉は事実上独立していた。

*注2 白帝は蜀漢領なので、実際に統括していたのはその手前の建平までの軍だと思われる。

*注3 『正史 三国志』(ちくま学芸文庫)には「益州の牧の任務を名目的に執り行った」とある。益州はすでに魏の領土であるため、肩書きだけで、現実的な権限があったわけではないという意味か。

*注4 孫晧の治世、会稽太守が賀邵だったころ、江陵都督だった可能性があるかもしれない。259年には陸抗西陵都督で、265年には歩闡西陵都督なので、その間のことか。

*注5 陸抗伝では「都督信陵・西陵・夷道・楽郷・公安諸軍事」、孫晧伝ではこの頃「楽郷都督」との記述がある。少なくともこの時代、他に西陵督、江陵督、公安督が別に居ることから、信陵公安の軍を統括する権限を持ち、楽郷軍は陸抗の直轄だった。

*注6 陸抗の息子にはもう一人、末子の陸耽(生年不詳)がいる。

2007.03.08

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